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50年代から70年代にかけて、特に日本のファンに愛され、日本でのみヒットした洋楽を取り上げるコーナー。第4回目はマンダムのCMソングとして一世を風靡した『男の世界』のジェリー・ウォレス。
コマーシャルソングがヒットチャートに登るというのは、今では当たり前になっているが、1970年の日本ではエポックメイキングなことだった。しかもシングル盤の売上120万枚、シングルチャート3週連続1位、それまでの洋楽セールスの記録を塗り替えてしまったのである。曲名は『男の世界』(Lovers Of The World)、歌っていたのはジェリー・ウォレスというアメリカのベテランカントリー歌手で当時42歳、60年〜80年にかけてカントリーチャートに35曲をランクインさせた実力派だが、日本ではまったく無名だった。
これだけ日本でヒットしたのだから、アメリカでもそれなりに売れたのかと思いきや、熱心なマニア以外存在すら知られていないというのが本当のところで、今になって『男の世界』を聴きたいと思ってベスト盤などの輸入CDを入手しても、残念ながらこの曲は入っていない。要するに日本でのみリリースされ、日本でのみヒットした曲なのである。ちなみにアメリカでの彼の生涯最大のヒット曲は72年にビルボードのカントリーチャートで1位を獲得した”(you tubeにジャンプします)If You Leave Me Tonight I'll Cry”。
「あれ? 同じ人が歌ってるの? 『男の世界』の方が全然いいけど…」。“If You Leave Me Tonight I'll Cry”を聴いて、ちょっと違和感を覚えた方もいるのではないだろうか。当然といえば当然である。『男の世界』は、あくまでクライアントの意向に沿って書かれたコマソンだ。ウォレスの本領は、やはり純然たるカントリーミュージックにある。ウォレスにとって『男の世界』は、プロのシンガーとしての“請け負い仕事”だったのである。
しかし、ウォレスがアメリカでコマソンを歌っていたという話は聞かないし、日本の芸能界や産業界と何らかの縁があったという資料もない。どう考えても日本のCMのために曲を吹き込むなど、例外中の例外、ものすごくイレギュラーな仕事であったに違いないのである(ウォレス自身はソングライターでもあるが、この曲がウォレスの作品であるという資料はない。クレジットには作詞M・ケイン、作曲H・ケインとなっているが、一部では日本人の作詞・作曲ではないかという噂もあった)。ではなぜ、日本ともCMとも縁のないウォレスに白羽の矢が立ったのだろうか?
その謎を解くには、当時社会現象にまでなったあのCMが作られた背景を探る必要がある。そう、チャールズ・ブロンソンの「う〜ん、マンダム」である。
昭和8年に手を汚さずに使えるスティックタイプの整髪剤「丹頂チック」を発売、男性化粧品のトップメーカーとして君臨していた丹頂だが、昭和38年に資生堂から液体整髪料「MG5」が登場すると、オールバックやリーゼントから七三分けという髪型トレンドの変化もあって、あっという間に資生堂にシェアを奪われ、会社創設以来最大の危機を迎える。そこで、起死回生の一手として液体化粧品の新ブランド「マンダム」を開発、社運を賭けて宣伝攻勢をかけることになった。
資生堂の若手が中心になって企画された「MG5」は、その豊富なラインナップとモダンなパッケージデザインで、当初から海外製品と肩を並べるブランド力を身につけていた。これに対抗するには、ブランド力を一気に引き上げるような強烈なインパクトが必要と感じていた丹頂は、日本で初めての試みとして、TVCMに海外のスターを起用するという賭けに出る。
その頃、海外スターとして日本でダントツの人気を誇っていたのはフランスのアラン・ドロン。丹頂の西村彦次社長(当時)も、当然ドロンやマルチェロ・マストロヤンニ、ジュリアーノ・ジェンマといった二枚目スターを想定していた。しかし、電通のプランナー西谷尚雄とCMディレクターだった大林宣彦(現映画監督)が推薦してきたのはチャールズ・ブロンソン。西村社長は耳を疑った。
『荒野の七人』『大脱走』『バルジ大作戦』と、個性的な脇役として日本でもファンを掴んでいたブロンソンだったが、主役として出演するようになったのはアラン・ドロンと共演した(そして完全にドロンを食ってしまった)フランス映画『さらば友よ』やマカロニ・ウェスタンの巨匠、セルジオ・レオーネの『ウエスタン』といったところで、ハリウッドよりもヨーロッパでの人気が高く、ハリウッドのエージェントからも「なぜブロンソン?」という声が上がっていたという。
なにより、ブロンソン自身が戸惑った。「この髪型と髭面でいいのか?」しかし、大林の信念は変わらなかった。「挑戦しなければ、逆転はない」。マンダムとは“man's domein”を略した造語で、大林の描いていたコンセプトは「男の体臭」。清潔感よりも徹底的に男臭さを追求することで、「MG5」(イメージキャラは団次郎)との差別化を図ろうと考えていた。そうなると、やはりブロンソン以外考えられなかったのである。
海外でのCM制作はホリプロが請け負った。湯川れい子著『熱狂の仕掛け人』には、ホリプロ創業者・堀威夫の貴重な証言が残されている。「あれはちょうどスパイダースの全盛時代でしたかね。(中略)すぐにグループ。サウンズの潮が引いちゃってね。(中略)それで苦しまぎれにいろんなことをやった中のひとつが、マンダムのCMだった。あのチャールズ・ブロンソンの。要するにノン・スターの会社だったから、外タレでやろうということになって、外国のスターを使うCMは、ほとんどうちがやってたんですよ、最初は」
「(中略)ブロンソンの画のうしろに、マンダムって歌を作って流そう、というアイデアを出したんですよ。そのアイデア自体は斬新なものでもなんでもなくて、確かフィフス・ディメンションが航空会社のCMレコードで出して大ヒットしていたでしょう。あれをそっくり日本でやってもいいんじゃないかっていうことでやったら、大ヒットしたんですよ。で、ブロンソンは歌えないというから、達っちゃん(キョードー東京の永島達治氏)とすごく仲の良かったUAレコード社長のマイク・シアトルという人と相談して、ジェリー・ウォレスっていう、アドヴァンスが止まってしまって、レコードが出せないでいる奴を連れてきて、それで大ヒットしたんだけどね」
要するに、契約切れで仕事ができなくなっていたという理由で、たまたまジェリー・ウォレスに白羽の矢が立ったのである。スポット契約だからギャラも安く済んだのだろう。しかし、ギャラが安くても縁もゆかりもない日本のCMであっても、次の契約が決まるまでのエアポケットにいたウォレスにとって、これは「渡りに船」だったに違いない。ちなみに「フィフス・ディメンションが航空会社のCMレコードで…」というのは『ビートでジャンプ(Up, Up And Away)』のこと。P.F.スローンの項で紹介したジミー・ウェッブの作品である。
制作費2,000万円、ブロンソンのギャラ30,000ドル(1,080万円)。丹頂が決死の思いで大枚をつぎ込んだ“賭け”は、前年度の売上4割増という結果を生み、翌年には社名を「マンダム」に変更するまでになった。ブロンソンのCMは若者の熱狂的な支持を得て、当初はCM用にワンコーラスしか録音していなかった『男の世界』も、あまりの反響の大きさに急遽フルコーラスを用意してレコード化、これがまたバカ売れしたのである。
ちなみに、左の上から2番目の写真が最初のプレスである。マンダムの文字もブロンソンの姿もジャケットには見当たらない。レコード店に「マンダムの曲」とか「ブロンソンのレコード」といった問い合わせが殺到し、急遽、一番上のジャケットに作り替えた経緯が伺われる。この時題名も『男の世界』から『マンダム〜男の世界』に変わった。
日本での大ヒットがウォレスの人生にどう影響したのかはわからない。2年後に前述の大ヒットを生んだという結果を見ると、いい意味で弾みがついたのかもしれないが、それ以降は大きなヒットに恵まれず、日本で“二匹目の泥鰌”を出すこともなかった。『男の世界』をアメリカでリリースしていたらどうなったかという疑問も湧いてくるが、歌詞の内容を見ると、ヴィレッジ・ピープルみたいな“ゲイの世界”と勘ぐられそうな部分もあるし、ポップソングとしては優れていても、ウォレスのホームタウンであるカントリーチャートで支持されることはなかったように思う。
従って、結果だけ見れば、アルバイトのような形で引き受けた仕事で、ウォレスは生涯最高といっても良いキャッチーな曲を残した。しかし1970年の日本はアメリカから見ればまだまだ“二流国”であり、本国でその業績が評価されるには至らなかったのである。80年代以降のウォレスは、懐メロ歌手という以外、特にスポットライトを浴びることもなく、2008年に80歳でひっりと亡くなっている。