“天才”は忘れた頃によみがえる

 50年代から70年代にかけて、特に日本のファンに愛され、日本でのみヒットした洋楽を取り上げるコーナー。第1回目は「ロックとロマンの出逢い」ミッシェル・ポルナレフ。


↑2007年復活ライブでの「シェリーに口づけ」。ミュージシャンというより武道家のような立ち姿だが、実は空手の有段者

 2007年、パリでの復活ライブには心底仰天した。何しろ79年の来日コンサート以来、日本のメディアではほとんど取り上げられることもなく、95年に突然ハリウッドのナイトクラブでライブを行ったかと思うと、また12年もの間音信不通。それが突然本国フランスで34年ぶりの大がかりなツアーを開始したというのだから、実際の映像を見るまでは半信半疑だった。

 しかし、その映像を見て、不安は驚きに変わった。ふた昔も前のアイドルを前に、広場を埋め尽くす観客が一体になって熱狂している。いかにフランスのファンが彼の復活を待ち望んでいたかを、ライブ映像が雄弁に物語っていた。無理もない。インタビューで本人が語っている通り、彼は「栄光の絶頂」に突然、ファンの前から姿を消したのだから…。

 日本でのポルナレフ人気のピークは72年だったと思う。前年に「シェリーに口づけ」が大ヒット、「愛の休日」「哀しみの終わるとき」「愛のコレクション」「渚の想い出」といった美メロの代表曲が一気に発売され、洋楽チャートの常連になった。11月には初の日本公演も実現している。この時期には金髪のカーリーヘア、四角いサングラスというのが彼のトレードマークになっており、その奇抜なファッション・センスや喧伝される奇行?の数々も話題を呼んでいた。


↑ピアノテクニック全開の「愛の願い」。珍しいデビュー当時のTVライブ。この頃はまだ素顔のまま

 本国フランスでのデビューは、さかのぼること6年前の66年。ヒッピー然とした青年が持ち込んだデモテープを聴いて、その才能を見いだしたルシアン・モーリスが強烈にプッシュ。ファースト・アルバムで「英国で最高のミュージシャンを付けて欲しい」という我が儘を聞いた結果、レッド・ツェッペリンを結成する前のジョン・ポール・ジョーンズとジミー・ペイジが参加していたというから、いかに彼の才能が期待されていたかがわかる。コンセルバトワールでクラシックピアノを習い、エルヴィスでロックに目覚めた彼の音楽は、クラシック、ロック、フォーク、ジャズといった多彩な背景を持っており、それは2年間欧州各国を放浪し、多様な文化を吸収した成果でもあった。

 70年代に入ると、彼はどんどん「ロック志向」を強めていくのだが、レコード会社側はジャン=ルー・ダバディ(注)のような一流のプロが詞を書き、流麗なストリングスアレンジが施された「若者向けシャンソン」を望んでいたようだ。「フランス語が16ビートに乗りにくい」ということで書き上げた全曲英語の歌詞を、すべてフランス語に書き換えさせられたという逸話も残っている。日本での“お嬢様”人気とは裏腹に、フランスでの彼は、刺激的な歌詞や斬新なポップセンスで精神や肉体の自由を訴える、若者文化のリーダー的存在だった。



↑「君との愛がすべて」「忘れじのグローリア」。この頃からサングラスをつけ始める

 それを示す象徴的な事件が、72年10月のオランピア劇場出演である。オランピアに出るということは、フランスのアーティストにとっては超一流の証であり、頭の固い保守層にも認知されたということになるのだが、ポルナレフは宣伝ポスターで自身のおしり丸出しの写真を使い、それが「風紀を乱した」ということで逮捕される。フランスのファンにしてみればいかにも彼らしいのだが、日本での彼は“フレンチ・ポップスの貴公子”であり、多くの女性ファンのアイドル的存在だっただけに、そのイメージギャップが大きかった(ちなみに翌年のオランピア公園のポスターは全裸だった)。

 そんな人気絶頂の73年、彼は突然渡米し、ロス定住を宣言する。当時レコード会社の触れ込みは「本格アメリカデビュー」「保守的なフランスを嫌ってロックの本場へ」ということだったが、ファンにしてみれば、なぜこのタイミングなのかイマイチ腑に落ちない話であった。渡米後数年間のブランクは大きく、レコード会社も古い音源を引っ張り出して糊口をしのいでいたが、やがてフェードアウトしていく。やっと6年後の79年、英語のニューアルバムを発表、現段階では最後の来日公演を果たすのだが、一部のファンを除けば、彼はすでに“過去の人”になっていた。


↑「ラース家の舞踏会」。ポルナレフ流のプログレか?

 「渡米には何か特別な理由があった」ということに気がついたのは90年代になってからだった。久々にポルナレフを聴こうと思ってCDショップに行ったら、国内盤が一枚も見あたらず、やっと入手できたのは本国盤とアメリカ盤のみ。関係者に問い合わせると「リクエストは多いが、権利関係が複雑な上に本人の所在が不明なので発売できない」という返事。ん? 何かトラブルがあったのか…。ビートルズを筆頭に、古くから著作権を巡る詐欺やトラブルの絶えない業界だ。ポルナレフに何かあったとしても不思議ではないが…。

 そんな中で、彼の存在すら忘れかけた96年に突然発表されたのがロスのナイトクラブ「ロキシー・シアター」でのライブ盤。この時には日本のメディアにも登場し「また日本に行きたい」などというリップサービスもあったので多少期待はしたのだが、またもや音信不通。それから12年。本国で本格復活という仰天ニュースを耳にしたのは、やっと国内のベスト盤が出て、もうミュージシャンとしての彼を見ることはないだろうと思っていた矢先だった。そして、その復活を機会に、初めて渡米の真相を知ることになったのである。

 要は、意気込んで渡米したのは良かったのだが、そのまま帰れなくなってしまったのである。原因はポルナレフの税務担当者による横領だった。監査の結果、500万フランの脱税容疑がかけられ、帰国すれば即時逮捕という状況だったのである。

 急転直下のアメリカ生活は、決して幸せなものではなかったらしい。もともと神経質な上に食事や人間関係など生活習慣の違いから自律神経失調症になり、数枚のアルバムを発表しただけで、音楽活動から遠のいていく。80年代末にはひっそりと帰国するも隠遁生活を送り、白内障から失明しかけるなど、不運続き。その後再度渡米して再び隠遁。そんな中でも、たまに訪問してくる日本のファンは暖かく迎えてくれたらしい。そう考えると、よくぞまぁもう一度やる気になってくれたと思う。さすがに自慢のカーリーヘアはカツラ、かつてのスリムな体型は見る影もなく、声のキーは低くなったが、2007年の時点で63歳。長年音楽活動から遠ざかっていたとはとても思えない見事なパフォーマンスだった。ポルナレフの栄光再び…。

 ところが、である。復活と前後してニューアルバムを制作、2009年に発売というニュースもあったのだが、これはいまだに実現していない。代わりに流れたのが「39歳年下の恋人・ダニエラとの間に子供ができたが、その子はポルナレフの子ではないことが発覚」というトホホなスキャンダル。折角再起したのに、このままかつてのような傷心の隠遁生活が続くのか…。 

 天才の名を欲しいままにしながら、栄光と挫折を繰り返すポルナレフの半生は「自由には必ず代償がある」ことを体現してきたようにも思える。もっとも、それは我々凡人の勘ぐりに過ぎず、生まれつきの自由人である彼にとっては、他人がどう思おうと「歌いたいときに歌い、何もしたくない時には何もしなかった」だけだったのかもしれないが…。