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それにしても、ここ数年の間に作られた座頭市映画はみんな酷かった。唯一鑑賞に堪えうる北野武版でも「どうせオリジナルには敵わない」的開き直りが見えすぎだし、香取くん主演は問題外。女座頭市も話にならないレベルではあったが、主演の綾瀬はるかちゃんだけは可愛いかった…。逆に言えば、それだけカツシンの座頭市が“ワン・アンド・オンリー”だったということか。
足かけ27年。映画版26、テレビ版100、合わせて126作を数えるカツシンこと勝新太郎主演の『座頭市』シリーズは、間違いなく日本映画界の金字塔である。あの『男はつらいよ』でさえテレビ・映画合わせて29年間で74作品である。例のコカイン事件や不幸な撮影事故がなければ、勝の座頭市映画はもっと作られていただろう。
しかし、そんな大人気シリーズも、記念すべき処女作は映画全盛期の大映にあって、あまり期待されない“徒花”のような扱いだった。それは予算のかけ方を見てもわかる。まずモノクロであること。そして敵役が当時はまだ地味な脇役だった天知茂であること。
実は、勝自体もあまり期待されていなかったのである。デビュー当時から同期の市川雷蔵と比較され、人気でも興行成績でも大きく水をあけられていた。大映社長・永田雅一はそれでも勝を可愛がり、長谷川一夫を頂点に、雷蔵と勝を二枚看板にしようとしていたのだが、都会的でスマート、カリスマ性のある雷蔵に比べ、ズングリした勝は役者としての個性に乏しく、廻って来る役も低予算の穴埋め映画で、同じような白塗りの二枚目、いわば長谷川一夫のコピーばかりだった。
そんな勝にチャンスが巡ってきたのは、もうじき30歳に手が届く1959年。すでに映画館館主や宣伝部からは「勝ちゃんじゃ当たらないから、主演作はやめてくれ」というクレームが出始めていた。そんな中で雷蔵主演の名作『薄桜記』で準主役の堀部安兵衛を演じ、豪快な野性味と内面的な弱さを演じ分け、雷蔵を食わんばかりの存在感を見せたのである。
当時の勝は、ワンパターンの白塗りにも、古くさい撮影所の体質にも嫌気がさしていた。オフの日には映画館でゴダールやルイ・マルのヌーベルバーグ作品に触れ、新しい映画文法や音楽の使い方に刺激を受けていた。もともと杵屋勝東治の息子として生まれ、長唄と三味線で後を継ぐはずだった逸材である。勝が生まれながらに持っていた表現者としてのセンスやアート感覚も、お決まりのプログラム・ピクチャーの中では発揮する術もなかった。
そんな中、偶然見ていたテレビの舞台中継に勝は瞠目する。盲人の鍼医者が悪の限りを尽くし、やがて自滅していく和製ピカレスク・ロマン。それが17代目中村勘三郎の『不知火検校』だった。「これは雷蔵にはできない。これこそ自分の役だ!」映画化権も自ら取得し、かつてない情熱で会社を動かした勝は1960年、映画『不知火検校』に役者人生のすべてを賭けた。
そんな勝の意気込みとは裏腹に、映画はキワモノ扱いで公開され、ヒット作とはならなかったが、勝の迫真の演技と、若手中心に撮られた斬新な映像センスが関係者の間で評判となり、続く『悪名』(注)では、完全に二枚目を脱した勝の豪快な個性と、田宮二郎との軽快なコンビ振りが人気を呼んで主演作で初の大ヒット、シリーズ化が決定した。
映画の女神が勝に微笑み始めた。30代になってようやく花開いた遅咲きの役者人生は、もうひとつの運命的な出会いによって、その方向が決定づけられようとしていた。大映の久保田プロデューサーが映画化交渉のために作家の子母沢寛を訪ねた時のこと。タネ本として渡された本が『ふところ手帖』という短編集だった。そしてその中に、実在した盲目の博徒を描いた10ページあまりのエピソードがあったのである。 <次回へ続く>