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子母澤寛という作家は元新聞記者(読売〜東京日日)だけあって、歴史文学の作家によく見られるような“資料主義者”ではなく、当時を知る人に徹底的に聞き書きする“ルポルタージュ作家”だった。
確かに公文書などの資料は歴史を検証する上で大切ではあるのだが、時の為政者に都合のいいように改ざんされたり、敗者についての記述が残らない場合が多い。特に子母澤がテーマとした幕末の場合、“維新の志士”についての資料は豊富だったが、幕府側の資料は埋没しようとしていた。彰義隊に参戦した御家人を祖父に持つ子母澤は、旧幕臣に徹底した聞き書きを行い、それが結実したのが『新選組始末記』などの「新選組三部作」であり『勝海舟』である。
幕臣と同様に、歴史書では触れられることのない市井の侠客についても、子母澤は好んで取材した。知人から誘われ『天保水滸伝』の舞台となった飯岡に赴いた際、土地の古老から聞いた話が盲目の博徒についてのエピソードで、これが『ふところ手帖』に取り上げられた『座頭市物語』のもとになった。
『天保水滸伝』と言っても、ご存じない方も多いだろう。時代は天保、つまり老中・水野忠邦による天保の改革が行われた頃である。幕末のちょっと前と言えばわかりやすいだろうか。国定忠治が生きたのもこの時代である。『天保水滸伝』は元力士で、房総半島一帯を取り仕切る大親分だった飯岡助五郎と、同じく力士出身で利根川流域を地盤としていた若手の親分・笹川繁蔵の縄張り争いを軸に、両者の対立から抗争、闇討ちによる繁蔵の死、笹川一家の消滅までを描いた講談(後に浪曲)である。
講談であるから、あくまで史実をもとにしたフィクションである。従って大半は作り話と思った方が良いのだが、ストーリーの核となっているのが、クライマックスの“大利根河原の決闘”で命を落とした平手造酒という笹川方の用心棒で、講談上では笹川繁蔵が悲劇の美青年、飯岡助五郎が奸計をめぐらす中年男という設定になっているため、余計に酒で身を持ち崩した肺病病みの剣客、平手造酒というキャラの悲壮感が引き立つのである。
映画では、この平手造酒を座頭市と絡ませることで物語に奥行きを与えているのだが、子母澤の原作には登場しない。わずかに「繁蔵方では用心棒の平田深喜が一人死んだ…」と書かれているだけである。
原作『座頭市物語』のストーリーを簡単に紹介しよう。助五郎一家の食客にどこからともなく流れてきた座頭市という盲目の博徒がいた。市は博奕に抜群の勘を持ち、しかも居合いの達人だったので子分達に一目も二目も置かれていた。しかし、助五郎と繁蔵の対立が表面化し、助五郎の子分が繁蔵を闇討ちにしたと聞いた市は激怒し、助五郎一家に杯を返すと、女房を連れて消息を絶った…。
ストーリーとしてはわずかにそれだけなのだが、『ふところ手帖』を読んだ大映の久保田プロデューサーが目をつけたのは座頭市の際だったキャラクターだった。「もういい年配で、でっぷりとした大きな男、それが頭を剃って、柄の長い長脇差をさして歩いているところは、何う見ても盲目などとは思えなかった。それだけに、物凄い程の勘で、ばくち場へ行っても、じっとしていてにやりと笑った時は、もう壺の内の賽の目をよんでいて、百遍に一度もそれが違ったことがなかったという」
「市は、盲目でありながら、刀の柄へ手をかけただけで、対手が縮んで終うという位に抜刀術居合がうまい」「…小さな桶のようなものを、誰かに宙に投げさせる。それが落ちて来る途端に、きーんと長脇差の鍔鳴りがする。いつ抜いたか、いつ斬ったかーー桶は真っ二つになって地上に音を立てる。市の刀はその間にちゃんと鞘に納まって、市は呼吸は元より顔色も変えず、にやにやしている」
原作の中に、派手な立ち回りなどは出てこない。市が長脇差を抜くのは子分達の喧嘩の仲裁をする時だけである。“大利根河原の決闘”の時も「目の見えねえ片輪までつれて来たと言われては、後々、飯岡一家の名折れになる」と言って参加していない。居合いの達人であっても、決して暴力的な人間ではない。
そして、市の人間性を最も良く表しているのが、市が杯を返す決心をする時だ。ここで映画の中でも印象的に使われた台詞が登場する。「やくざあな、御法度の裏街道を行く渡世だ。言わば天下の悪党だ。(中略)おれ達あ、いつもいつも御法というものに追われつづけ、堅気さんのお情けでお袖のうらに隠して貰ってやっと生きて行く、それが本当だ。それをお役人と結託して、お天道様へ、大きな顔を向けて歩くような根性になってはいけねえもんだよ。え、悪い事をして生きて行く野郎に、大手をふって天下を通行されて堪るか」 <次回へ続く><前回へ戻る>