東京タワーはいま
どうなっているのか(1)

 家族旅行や遠足で子供の頃行った各地の行楽地や名所旧跡。その後大人になって再び自分の子供を連れて行ったという方も多いことだろう。しかし、そういったかつての定番スポットも、時代の流れの中で、いつの間にか忘れられたり、さびれて休業してしまうケースが多々ある。このコーナーは、そういった「いつの間にか足が遠のいてしまった」スポットを再訪し、その魅力を再発見してみようという企画である。初回はスカイツリー開業でその存在感が危ぶまれる?「東京タワー」。

 「見えるところに住んんでみたい」とか「子供の頃両親に連れていってもらった」とか、東京タワーに対して何かしらの“思い入れ”があるのは、地方出身者が多いような気がする。東京生まれで「一度も行ったことがない」という人は結構多い。最近は弟分のスカイツリーに負けじと、華やかなイルミネーションが話題になっているので、まさに「灯台もと暗し」なのだが…。

 それでも観光地という意味では、今年の5月に発表になった「人気展望スポットランキング」では京都の清水寺に次ぐ堂々の2位(スカイツリーは開業前だったため圏外)。実は、まだまだ東京観光のシンボルとして根強い人気を誇っている。

 近年リリー・フランキーの小説や映画の『ALWAYS 三丁目の夕日』等でもシンボリックに扱われていたように、東京タワーは昭和という時代にあって、どこまでも高く伸びて行こうという高度成長期の夢と希望をそのまま形にしたようなイメージがある。現在のような長引く不況下では、あの時代の記憶が我々の世代には愛おしく、若い世代にはある種の憧れのように思えるのかも知れない。

 1958年(昭和33年)10月14日竣工、完工式は同年12月23日だから、現在54歳。アラカン世代よりちょっと若い。記憶力のいい方は、竣工当時を憶えているかもしれない。あの頃の熱狂と興奮はスカイツリーの比ではなかったと思う。その証拠に、我々の世代で富士山の標高と東京タワーの高さ(333m)について即答できない者は殆どいない。

 正式名称は「日本電波塔」。つまり巨大な送信機である。開業時からテレビ地上波とFM電波を送信し、現在は地デジ電波送信をスカイツリーの補助として請け負っている。生みの親は産経新聞やマザー牧場の創業者として知られる「大阪の新聞王」前田久吉。前田はタワー完成と同時に産経新聞の経営を譲渡したため、現在フジサンケイグループは無関係となっているが、東京タワーを経営する日本電波塔株式会社は、現在でもマザー牧場が東映に継ぐ大株主であり、久吉の息子である前田伸氏が社長のため、施設内にはマザー牧場のカフェがある。余談ではあるが、日本電波塔株式会社はFM東京、FM大阪の大株主でもある。

 設計は「耐震構造の父」「塔博士」として知られる内藤多仲(ないとうたちゅう)氏と日建設計株式会社。当初はドイツのシュツットガルトテレビ塔を参考にした鉄筋コンクリート製を考えていたが、敷地面積等を考慮して鉄塔に落ち着いた。 前田久吉が出した条件は高さ380メートル、高所に展望台、塔の下に5階建ての科学館というもの。最終的に全高333mになったのは強風に耐え、かつ安定して送信できる限界との判断からで、スカイツリーのような(634m=武蔵)語呂合わせではない。

 建設時の苦労についてはNHKの「プロジェクトX」で御覧になった方も多いと思う。工期543日間、朝6時から夕方6時まで400人がフル稼働。鍛冶工や塗装工など、工事にたずさわった人数は、延べ21万9335名。特に強風吹き荒れる高所で30センチほどの足場をつたって、命がけで作業した鳶職人たちの功績は大きかった。

 総重量4000トンの鋼材をほぼ全て手作業で組み上げ、接合は800度に熱せられた鉄製のピンを穴に差し込み、ハンマーで打ちつける「リベット工法」。下の職人が釜でリベットを焼き、はさみで掴んで上に投げると、上の職人がそれをキャッチし、鉄が冷えて固まらないうちに素早く打ち込む。その総数が279,075本という、まさに気の遠くなるような作業だった。

 ちなみに、当時の日本ではまだ良質の鋼材が生産できなかったため、特別展望台から上の部分には朝鮮戦争後にスクラップされたアメリカ軍の戦車が使われている。

 現在でも錆止めの塗装など、こまめなメンテナンスが施されているのだが(これもまた気の遠くなる作業である)、これ以上説明するときりがないので、本来のテーマである「今現在の東京タワーはどうなっているのか」については、次回以降、詳細にレポートしてみようと思う。 <次回に続く>