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季節ごとにテーマを決め、ゆったりしたスケジュールで古都を歩く。日本の原風景を求めて…。そんな旅こそ“アラカン世代”にふさわしいのではないだろうか。23回目は早くも6回めの登場、元宝塚歌劇団娘役・春花きららさんがいつもより興奮気味に?レポートする京都の魔界探訪記。
いや〜それにしても今年の夏は暑かったですよね。暑さだけならまだしも、全国を縦断した超大型台風に北海道の大地震と、かつて経験したことがないような天災が続々と押し寄せ、思わず神も仏もないのかと絶叫したくなるワタクシ、春花きららでございます。
今回の猛暑、台風、地震で被害に合われた皆様には、この場を借りてお見舞い申し上げます。また、亡くなられた皆様、ご遺族の皆様には心よりお悔み申し上げます。そして皆様が一日も早く、通常の生活に戻られることをお祈りしております。
さて、今回の「古都逍遥」ですが、こんな非常時にバチあたりと言われそうですが、世界的観光地としての華やかさが京都の表の顔だとすれば、正反対の暗〜い裏の顔も見てみようという、何ともおどろおどろしいダークサイドツアー。京都といえば「ほっこり」「はんなり」というイメージが定番ですが、実はごく身近なところにに思わず背筋が「ひんやり」するような恐ろしい世界があるんです。
そんな古都の“闇の歴史”を大きく2つのテーマに分けてご紹介したいと思います。まず最初は「新選組と幕末人斬り伝」。新選組ファン、幕末ファンの皆様にはワタシのつたない説明に呆れたり、お怒りになる方もいらっしゃるかもしれませんが、そこはひとつ猛暑の中、フラフラになりながら現地取材を敢行した汗と涙?に免じてご勘弁を。
それでは本題。ペリーの黒船来航に端を発し、戊辰戦争の終結で幕を閉じた幕末と呼ばれる期間はわずか16年あまり。その間、島原の乱以来200年以上、ほとんど使われることのなかった「武士の魂」日本刀が、堰を切ったように京都の町中で振り回され、たくさんの命が失われました。
そしてその殺傷沙汰の“主役”となったのは全国から集ってきた尊王攘夷・倒幕派の過激な志士たちと、その過激派を鎮圧するための治安部隊。本来ならば、それは京都所司代、京都町奉行のお仕事。日々激化する要人暗殺(天誅)、商家への押し込み(強盗)といったテロ行為を武力をもって鎮圧するはずでしたが、実情は幕臣や旗本であっても長い平和ボケと逼迫する赤字財政で「刀よりソロバン」、いわゆる事務方が主流になっており、ほとんどが実戦経験ゼロ。
そこで白羽の矢が立ったのが、幕府への強い忠誠心と、昔ながらのサムライ気質をかろうじて保っていた会津藩でした。藩主・松平容保は病弱の上に家臣1000人を遠く離れた京都まで引き連れなければならず、ひとつ間違えれば全国の勤王派の恨みを買うばかりか、最悪、長州など西国の雄藩と衝突というリスクも。しかも費用は自分持ちという、誰がどう見ても最悪の“貧乏クジ”だったわけですが、容保は悩みに悩んだ末、「徳川家への忠節は藩祖・保科正之公の家訓」ということで、藩内の猛反対を押し切り、敢えてそのクジを引きます。
苦渋の決断の末、京都守護職となった会津藩でしたが、いざ京都に来てみると、御所や二条城ばかりでなく、公家や幕府関係の屋敷、官庁、寺社など、警護が必要な場所はいくらでもあり、商人や町人が暮らす街中まではなかなか手が届きません。そんなわけで幕府も会津藩も、常に市中に目を光らせながら彼らの手足となって働く、より強力な実働部隊が必要だと考えるようになりました。
そんな幕府側の悩みをうまく利用しようとしたのが策士・清河八郎。倒幕派のリーダーでありながら幕府側に取り入り、表向きは14代将軍・徳川家茂の上洛警護という名目で「腕に自信があれば年齢・身分は問わず、前科者でもOK」という破格の条件で、剣術使いをリクルートするアイデアを提出。幕府側も渡りに船で即、採用ということになりました。
これに飛びついたのが、江戸で独自の実戦剣術・天然理心流を教えていた試衛場(試衛館)に通う若者たち。その中心人物は日野の農家出身で、いくら剣術が強くても士官の見込みのなかった近藤勇や土方歳三でした。彼らにとっては本物の武士になれるかもしれない千載一遇の大チャンス。
一方で、攘夷を名目に関東各地で強引な資金集めを繰り返し、一度は斬首を言い渡されていた(後に藩内の政変で赦免)元水戸藩士たちもこの機を逃すまいと江戸に集まってきました。それが芹沢鴨、新見錦といった“脛に傷持つ”浪士たちです。
文久3(1863)年2月、こうした「なんでもアリ」の234名を引き連れ、清河は2週間ほどで京に上ります。京での宿舎は壬生村(現在の中京区壬生)。それぞれ地元の寺や郷士の家に分宿します。当時の壬生は田畑が広がるのどかな風景だったそうで、代表的な作物として京野菜として有名な壬生菜があります。
←上から近藤・土方の写真、清河八郎の演説で有名な新徳禅寺、壬生屯所のひとつで山南敬介の切腹や古高俊太郎への過酷な拷問の舞台となった前川邸(非公開)
清河は到着の6日後に浪士たちを新徳寺に集め、本来の目的を告げます。それは今までの話は全部ウソで、即刻江戸に引き返し、勤王勢力と合体して天皇配下の兵力となるべしというもの。もともと食い詰め浪人の集まりだった上に、清河の鮮やかな弁舌に魅了される連中が大勢を占める中、猛反発したのが近藤ら試衛館派と芹沢らの水戸派でした。
単に純粋な佐幕派(幕府を助ける側)だったというだけではなく、それぞれの事情は違っていても、彼らには、一旗揚げるまでは江戸には帰れないという強い思いがあったのかもしれません。清河たち浪士組(のちに新徴組)が江戸に引き返すと、連名で会津藩に本来の活動を続けたいという嘆願書を提出、沙汰を待ちました。
この時の近藤たちの心境を推し量ることはできませんが、きっと一日千秋というのはこういう時に使う言葉なんでしょうね。そんな彼らの心中を知ってか知らずか、意外なほど早く「会津藩預かりとする」という嬉しい知らせが届きます。しかも、容保公への拝謁を許す、というオマケ付き。会津側としては猫の手も借りたい状態でしたから、例え分裂後の残党であっても、浪士組に期待するところは大きかったのだと思います。しかも、清河と対立してでも敢えて京都に残るいう意志の強さも、プラスの評価につながったかもしれません。
この時代、どこの馬の骨ともわからない連中と一国の主が面会するなど、ほとんどありえない話です。近藤たちの期待と興奮はピークに達していたでしょう。会津藩の本陣は黒谷の金戒光明寺。京都での有事の際の拠点となるよう、家康が密かに城構えにしたというのがこの寺と知恩院なのだそうです。
謁見が叶ったと言っても正規の採用では無く、あくまで「預かり」の身分(今で言う非正規雇用)ではありましたが、夢であった幕臣への第一歩を踏み出した近藤たちは、壬生浪士組(精忠浪士組)を名乗り、まずは組織の実権を握るため、京都に残留していた他派の排除に乗り出します。その犠牲になったのが浪士組結成時の中心人物だった殿内義雄、家里次郎の両名。殿内は四条大橋で近藤・沖田に惨殺され、孤立した家里は出奔の罪で芹沢に切腹させられます。後でご紹介する新選組のさまざまな“血の粛清”は、実はこの時から始まっていたのです。
というわけで、新選組ストーリーの序章はここでひとまず置いておいて、かつての会津藩本陣、金戒光明寺へ行ってまいりました。地元では「くろ谷さん」と呼ばれて親しまれている浄土宗の名刹で、タクシーに乗るときも「くろ谷さんまで」と言った方が早いとか。「古都逍遥」の初回でも出てくるので読んでみてくださいね。
さすが、1000人もの会津藩関係者が寝泊まりできたというだけあって、広大な敷地に巨大な伽藍群のほか、18もの塔頭を擁しています。階段を登り山門をくぐると、まず目に飛び込んでくるのが御影堂と大方丈。そして立派な枝振りの松。この松は「直実鎧掛けの松」と言って、源氏の武者・熊谷直実が源平合戦で自分の息子と同じ年格好の若武者・平敦盛を討ち取ったのですが、その虚無感からでしょうか、法然をこの地に訪ね、武士を捨て、仏門に入る決意をしました。その際に鎧を池の水で洗い、この松の枝に掛けたという悲しい伝説が伝わっています。 但し、この木は二代目で、先代はとうの昔に枯れてしまったそうです。
そこから東側に進み、極楽橋を渡ると広大な墓地と、奥の高台に文殊塔(三重塔)の優美な姿が見えてきます。文殊塔へ向かう長い階段の途中左手には、最近インスタで盛り上がっている「アフロ大仏(写真はこちらをクリック)」、正式には五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏が鎮座。これは法蔵菩薩として修行中だった阿弥陀仏が、悟りを開くために五劫というものすごく長い時間思索した結果、髪が伸び放題になってアフロ化した姿なのだとか。ちなみに「劫」というのは1つの宇宙が誕生し消滅するまでの期間で、「五劫」だからその5倍。なんだかよくわかりませんが、気の遠くなるような時間だというのはわかります。落語で有名な「寿限無寿限無五劫のすり切れ」というのも、そういう意味(って結局どういう意味?)なんだそうです。
いくら昼間と言っても、墓地の中を歩くというのは結構怖いものです。文殊塔へ向かう階段の途中で北側に進んで行くと、古い墓石が周囲を取り巻き、だんだんと木立の陰に入って暗くなってきます。あ〜背筋がゾクゾクする〜。怖くない怖くないと念じながら歩いているうちに、程なく塔頭の一つ、西雲院の門が見えてきます。この門をくぐるとまるで別世界。よくお手入れされた蓮の花やムクゲの花が色とりどりに迎えてくれます。
上から金戒光明寺御影堂と直実直実鎧掛けの松、墓地より文殊塔を望む、西雲院に咲く蓮とムクゲ、会津藩士の墓所→
そしてこのお寺には「紫雲石」という不思議な謂れを持つ石があります。この地を訪れた法然上人がその石に腰掛けていたら、ムクムクと空に紫色の雲がたつのを見たとか。実際に見てみると、ホント、フツーの石なんですけどね。でも、確かに腰掛けるにはちょうど良さそう。
西雲院の東側には蛤御門の変や鳥羽・伏見の戦いで命を落とした会津藩士たちの墓所があります。ひっそりと目立たない場所にあるので通り過ぎてしまいそうですが、小さな墓石がたくさん並び、それぞれに名前や死亡年月日が刻んであるのを見ると、ちょっと胸が熱くなります。遠く離れた都の地で、きっと故郷に残した家族を思いながら死んでいったんでしょうね。お役目とはいえ会津に帰りたかっただろうなぁ。
でも、帰ったら帰ったで、幕末最大の悲劇と言われる会津戦争が待っていたし、戦争が終わったあとも、故郷を終われ、極寒の北海道で開拓民になったりと、想像を絶する苦労が待っていたかもしれません。かつて山口県(長州)出身の安倍晋三首相が会津若松市に応援演説に行った際に「先輩がご迷惑をおかけしたことをおわびしなければいけない」とおっしゃったそうですが、150年経った今でも双方の遺恨は結構深いんだそうです。その理由は会津藩預かりとなったその後の新選組、特に長州藩士に対する徹底的な取締りを見れば納得できるかも。
というわけで、話をまた新選組に戻しますね。容保公の謁見を経てやる気まんまんの壬生浪士組は、八木邸や前川邸を屯所と定め(というより勝手にそのまま居着いて)、第一次の隊士募集を行います。このとき集まった隊士を含め、総勢36名。隊士が増えたのはいいのですが、後ろ盾の会津藩はもともと財政難の上に、守護職の屋敷などを新たに建設しなければならず、完全な赤字状態。着の身着のままで上洛してきた近藤たちは衣服も貧相なままだったので、通称「壬生狼(みぶろう)」がやがて「みボロ」なんて言われるようになったんだそうです。
そんな時に力を発揮したのが芹沢鴨。年長者でもあり、れっきとした名門藩士でもあったことから他のメンバーから一目置かれ、近藤ら試衛館派を抑えて筆頭局長になっていたわけですが、得意の強引な資金集めで大坂の両替商平野屋五兵衛から100両を無心、これを元手にあの有名な浅葱色にダンダラ模様の隊服、「誠」の隊旗を揃えたとか。
これに味をしめたのか、芹沢ら水戸派の行動がどんどんエスカレートしていきます。大坂へ向かう途上ですれ違った力士たちと大げんかの末、死傷者を出したり、金策を謝絶された商家に火を放ったり、その悪行に苦情を申し立てた水口藩公用方に和解のための宴席を用意させ、嶋原の揚屋・角屋で設けられたその席上、酒に酔って鉄扇で高価な蒔絵を使った食器や什器をさんざん破壊した上、手すりを外して酒樽にぶつけ、帳場を酒浸しにするなど大暴れ。さらには店主に7日間の営業停止を命じるなど、やりたい放題だったそうです。
普段は教養人で剣の腕も免許皆伝だった芹沢ですが、最大の欠点が酒乱だったこと。そんなわけで今回、その実態?を確かめようと、京都最大の花街だった島原に行ってまいりました。さて、ここで素朴な疑問。なぜ京都にあって(九州の)島原という地名になったのか。もともとは室町時代にできた傾城町(粋な名前ですよね)が発祥の地で、桃山時代には二条柳町、江戸時代になって六条三筋町へと移っていったのですが、1641年になって突然現在の朱雀野付近への移転を命じられ、その時の混乱した様子がまるで1638年まで続いた「島原の乱」のようだったからだとか(異説もあります)。
そんな雑学はさておき、現代の島原にはちゃんと「島原大門」が残っていましたよ。しかも、客が名残を惜しんで思わず後ろを振り返ったという「見返り柳」まで。かつての華やかさを偲ばせる風景に思わずテンンションアップ!!
←上から現存する島原大門と見返り柳、揚屋・角屋の外観、同台所、芹沢鴨がつけたという玄関付近の刀傷、置屋・輪違屋
柳の下のプレートに記された昔の地図をみると、意外に狭い空間だったことがわかります。現在は宅地化が進んで、かつての花街の面影はほとんど残っていないのですが、芹沢鴨やりたい放題の角屋は国の重要文化財としてしっかり保存されており、「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されています。
この角屋さん、今回の旅で一番印象に残った場所でした。創業は桃山時代の1589年。揚屋とは現代で言えば高級料亭のようなもので、門構えも威風堂々たるものです。場所だけを提供するお茶屋さんとは違い、料理も自前なので、台所も広くて立派なもの。そして何より、各お座敷の豪華なこと。一階には芹沢暗殺の前哨戦?となった大広間・松の間があり、二代目の名勝・臥龍松や凝った作りのお茶室を眺めることができます。
一階はほとんどが台所と居住スペースで占められているので、お座敷のメインは2階になります。その2階に上がると、緞子(どんす)の間、御簾(みす)の間、草花の間、馬の間、桧垣(ひがき)の間と、それぞれに趣向を凝らし、異なったコンセプトの部屋が続きます。特に馬の間には、あの円山応挙の直筆画が手の届く場所にあるんですよ。全体に武家の趣味というより公家の趣味に近い作りで、角屋が文化人サロンとしても機能していたことを伺わせます。ただ、残念なのは当時の照明がロウソクだったため、全体に煤けてしまっていて、よく見えないこと。
圧巻なのは著名な画家や書家が描いた扇面58枚をを天井一面に貼り付けた「扇の間」。明かり採りの障子や金具まで扇型に統一されています。そして贅の極みとも言えるのが「青貝の間」。壁面から建具に至るまで、すべて青貝(螺鈿=らでん)細工で埋め尽くされており、当時の職人技の凄みと、その対極にある遊び心を感じさせてくれます。ところが、この国宝級の部屋にも芹沢の“爪痕”が。床柱に大きな傷があるんです。
もっとわかりやすい刀傷が玄関先にもあるのですが、そもそも揚屋では玄関で刀を預けるのがルール。立派な「刀箪笥」も現存しています。ところが芹沢はそれを無視。気に入らないことがあると店内で振り回すのですから、店の方でもほとほと困り果てていたようです。仮に刀を預けていても、常に鉄扇を持っていましたから油断はできません。
芹沢が暴れだす原因のひとつが、お気に入りの太夫や藝妓にまつわる揉め事だったようで、揚屋ではそういった女性を置屋から派遣してもらうのですが、その代表格である輪違(わちがい)屋さんも特別公開中で、運良く見学することができました。こちらは元禄元(1988)年の創業。表に「観覧謝絶」という看板があったのでてっきり入れないのかと思ったら、これは「一見さんお断り」の意味なんだそうです。ちなみに、角屋の案内の方に聞いた話ですが、この「一見さんお断り」というのは、初めてのお客様の場合、料理やお酒など細かな好みが分からないため、満足いくおもてなしができないということでお断りしていたのだそうです。私は単純に信用できないからだと思ってましたが(笑)。
こちらの建物も随所に趣向を凝らしたもの。店主の趣味の良さが偲ばれます。ちょっと可笑しかったのは、1階に近藤勇の、2階には桂小五郎の書が飾ってあるということ。これぞまさに「呉越同舟」ですよね。島原では敵も味方も関係ない、お客様はすべて平等ということでしょうか。こちらでは太夫さんについて詳しい説明を聞くことができました。太夫さんとは十万石の大名と同じ正五位の官位をもっていて、御所の寝殿まで上がれ、天皇にも謁見できるという遊女の最上格。書・和歌・絵・お香・胡弓・お茶・舞などあらゆる芸事に長け、美しい上に貞淑な女性でなければならなかったそうです。よく誤解されるのが吉原の花魁との違いで、太夫の場合「芸は売っても身は売らぬ」というように、客と同衾するようなことはなかったそうです。しかも、気に入らない客の席は拒絶することができたとか。
ここでまたまた新選組に話を戻しますが、壬生浪士組がステップアップするきっかけになったのが八月十八日の政変でした。長州藩と急進派の公家によるクーデターを阻止するために会津藩と薩摩藩が手を組み、会津からは1800名が動員されましたが、ここで浪士組は初めて御所警備と長州の残党狩りを任され、それを期に会津藩から「新選組」という名称を拝領します。
その一月後、芹沢が贔屓にしていた藝妓が肌を許さなかったということから、逆上して藝妓2人の髪を切るという事件が起こります。当時、髪は女の命でしたから、2人は廃業に追い込まれます。これまでの芹沢一派の悪行にはある程度目をつぶってきた会津藩でしたが、各方面から苦情が続いたことで、このままでは藩の名誉に関わるということで、内々に近藤を呼び出し芹沢一派の“処分”を命じます。もちろん口に出して「殺せ」とは言えませんから、そこは“阿吽(あうん)の呼吸”だったと思います。
暗殺は周到な計画のもとに行われました。まずは角屋で藝妓総揚げの大宴会。ここでまずベロベロに酔わせて、寝込みを襲うという作戦。普段から芹沢一派に反発していた近藤派の隊士たちも、この時ばかりは芹沢を持ち上げてどんどん盃を重ねさせました。上機嫌の芹沢は八木家に戻ってまた宴会。泥酔して馴染みの藝妓たちと共に床につきました。
土方は、夜中に芹沢たちが寝込んだのを何度も確認していたといいます。八木家の証言によれば実行犯は土方、沖田、原田、山南と言われていますが、定かではありません。その夜は大雨だったといいます。当然、足音なども聞こえにくかったでしょう。
上から祇園祭前祭宵山の様子、木屋町通と河原町通の間、四条通寄りにある古高俊太郎邸跡、池田屋跡は現在居酒屋「はなの舞」として営業中、池田屋事件の際についたとされる三条大橋の刀傷(真偽は不明)→
この時の状況を、ガイドの方が昨日起こったことのように伝えてくれるのが現在の八木邸。芹沢一派暗殺の舞台となった座敷もそのまま残されており、「そこに寝ていたのが平山で、見つかったときには首と胴が離れていました」とか「芹沢は酔ってはいてもさすがに神道無念流の使い手。必死に防戦して八木家の家族が寝ている隣室まで逃げたが、運悪くこの机につまずいて転んだところをメッタ斬りにされた」とか「この鴨居の傷は土方が上段から振り下ろした時についた傷」とか、何しろ家具までほぼ当時のまま残されているので、めちゃくちゃリアルです。
現在の八木家は「京都鶴屋」という和菓子屋さんを営んでいて、お店では新選組グッズも販売しています。香取慎吾さん主演のNHK大河ドラマ「新撰組!」が放送されていた2004年には四条大宮駅まで行列が続き、一日に3000人ものお客さんが来ていたそうです。
先だって悪行を咎められ切腹させられた新見錦を含め、これで水戸派は壊滅。暗殺は長州藩士か盗賊の仕業ということで処理され、当然ながら会津藩からは何のお咎めもありませんでした。以後、新選組は試衛館派が支配することとなり、厳格な規律のもと、近藤局長、土方副長による新体制が確立されていくのです。
翌年の元治元(1864)年5月、市中を内偵していた山崎・島田両隊士の働きで枡屋喜右衛門という炭薪商が、実は古高俊太郎という長州のスパイであるという情報を得ます。同年6月5日に枡屋に踏み込んだ新選組は武器弾薬や諸藩浪士との書簡、血判書などを押収しました。鬼の副長・土方は壬生・前川邸の蔵で古高を2階から逆さ吊りにし、足の甲に五寸釘を貫通させ、その釘の先に百目蝋燭を立て、さらに火をつけるというサディズム全開の拷問を決行。「祇園祭の前の風の強い日に御所に火を放ち、佐幕派の中川宮を幽閉、さらに一橋慶喜、松平容保らを殺害し、混乱に乗じて孝明天皇を長州へ連れ去る」という世にも恐ろしいクーデター計画を自白させます。
但しこの自白は、今日では新選組による捏造ではないかという説が濃厚で、実際に自白したのは自分が古高だということだけだったようです。むしろ重要だったのは、近々志士たちが計画について協議するため上洛し、一堂に集う集会があるという外部情報でした。会合の内容はどうあれ、新選組にとっては“不逞浪士”を一網打尽にできる、またとない機会だったわけです。
ちなみにこの時の“拷問蔵”は公開こそしていませんが、今も前川邸にほぼ当時のまま残されています。前川邸は八木邸と目と鼻の先にあって、休日のみ玄関先で新選組グッズを販売しているので、興味がある方は是非。
集会の日時が、祇園祭宵山(前夜祭)であることは何とかわかったものの、どこで行われるかまでは割り出すことができなかったようです。しかし時間は刻々と過ぎていきます。報告してもなかなか腰を上げない会津藩に業を煮やした新選組は近藤隊、土方隊、井上隊の3派に分かれて料理屋や旅館をしらみつぶしに当たることにしました。そしてついに、22時過ぎ頃、近藤隊は三条通の池田屋で謀議中の志士たちを発見します。
実際にそこで話し合われていたのは、クーデター計画ではなくて捕らわれた古高を奪還べきかどうかを決める会議だったようですが、早く着きすぎて一度席を離れた桂小五郎を除く20数名の尊攘派志士に対し、近藤隊は7人。うち3名は周囲を固めたため、当初池田屋に踏み込んだのは近藤・沖田・永倉・藤堂の4名のみ。室内での激しい斬り合いの中で、沖田が喀血して戦闘不能状態になり、藤堂は額を割られ戦線離脱。外を固めていた隊士3名のうち1人は死亡、2人が重傷(1ヶ月後に死亡)ということで、土方隊が合流するまでは、ほぼ近藤と永倉だけで戦っていたというのですから、この2人、どんだけ強かったんでしょうか(近藤隊は7名ではなく10名、応援に駆けつけたのは土方隊ではなく井上隊という説も)。但し、永倉の証言では、あと一歩応援部隊が遅れていたら、近藤は討ち取られていただろうということなので、実際にはギリギリの状況だったようです。
余談ですが先日、NHKの「風雲!大歴史実験 池田屋事件〜新選組マジックの謎を暴く〜」という番組で、現代に伝わる天然理心流師範の方たちが、当時の池田屋を忠実に再現したセットの中で、実際に4対20、2対20という圧倒的不利の状況で本当に勝てるのかという実験をやっていましたが(結果は、相当善戦したものの勝てず)、あの実験ではひとつだけ史実とは大きく違う点があります。それは、新選組は当時防具を身に付けた完全武装状態だったこと。対する志士側は、真夏ですから、薄衣一枚程度だったと考えられます。
これは、赤穂浪士の討ち入りの時も同様だったそうですが、鎖帷子を着込むなど完全武装していれば、相手にいくら斬り込まれても致命傷にはなりにくいそうです。実際、近藤は無傷、永倉は親指の付け根を裂傷しただけ。藤堂が額を割られたのも、あまりの暑さに汗を拭おうと鉢金を取ったからだったそうです。
また、天然理心流には、相手の刀を折るという独特の技術もありました。実際に逃亡した志士の一人が「刀を折られた」と証言しています。永倉は逆に自分の刀を折ってしまい、相手の刀を拾って戦ったとか。戦闘が終わったあと、隊士たちの防具はボロボロ、刀も刃こぼれでささくれだっていたそうです。
←祇園祭前祭山鉾巡行の様子(動画と写真)
2時間に及ぶ激戦の結果、リーダー格の熊本藩士・宮部鼎蔵は自刃、吉田松陰門下の秀才・吉田稔麿を含む8名が死亡、4名が捕縛。会津・桑名の応援隊が駆けつけたときにはほとんど戦闘は終わっていたそうです。逃亡した志士たちも翌日までには捕縛され、尊攘派は一時壊滅状態に追い込まれます。
この池田屋、その後所有者が変わって改装され、昭和30年ごろまでは旅館として営業していたようですが、老朽化のため取り壊され、現在ではその跡地が居酒屋さんになっています。今回取材で上洛、じゃなくて京都にお邪魔したのはちょうど祇園祭(前祭)宵山の日でした。奇しくも154年前の同じ日に、そんな大事件があったなんて、宵山見物に浮かれていたワタシにはかなりの衝撃でした。
それはそうと、去年の取材では祇園祭といっても後祭の方だったので、比較的のんびり見物できたのですが、今回は山鉾の数も多くて人気の高い前祭だったので、まぁ、宵山に繰り出した人の多いこと、多いこと。車じゃなくて人間の一方通行規制というのは、神戸ルミナリエ以来。池田屋ほどではありませんが、暑さと人いきれでまさに“殺人的”な一夜でした。
翌朝はもちろん山鉾の巡航見物。ところが、関西は連日40度近くまで気温が上昇。まだ朝の10時だというのに肌を刺すような日差し。あまりの暑さに立ちくらみしそうでしたが、大型の山鉾が次々と目の前を通る光景はまさに前祭ならではの大迫力。見ているこちらも大変だけど、山鉾を動かす人たちはもっと大変だろうなぁ、なんて柄にもなく心配しましたよ…。ということで第一章はここでおしまい。これからどーなる新選組、いったいどーする新選組、いざ怒涛の第二章へ! <第二章へ>