第二章〜嵯峨処々

 蓮華寺から一路、西へ向かう。目的地は嵯峨・嵐山。観光客だらけのこの時期はなるべく避けたいのだが、今回のサブテーマである吉井勇の、ある歌が心の片隅に引っかかっていて、どうしてもこの季節に訪問したかったのである。

 その前に「吉井勇って誰?」という方も多いかもしれないので、少し説明しておこう。吉井勇は大正から昭和にかけて活躍した歌人・詩人である。祖父は旧薩摩藩士の家柄で勇自身も伯爵だった。与謝野鉄幹・晶子夫妻は師匠筋に当たり、北原白秋や石川啄木とも親交が深かった。一般的には和歌よりも松井須磨子が歌う舞台の劇中歌として書かれた『ゴンドラの唄』の方が有名かもしれない。「いのち短し 恋せよ乙女」というアレである。映画ファンなら、黒澤明監督の名作『生きる』で志村喬がブランコを漕ぎながら歌うシーンを思い出す方もいらっしゃるのではないだろうか。

侘び住まいに憧れて

 勇は東京・芝の生まれだが、若い頃から祇園に遊び、京都をこよなく愛したことでも有名だ。晩年には二人目の妻と洛北に移り住んでいる。勇が嵯峨野を詠んだ歌はいくつかあるのだが、私が個人的に「引っかかって」いたのは以下の二首である。

一力のはなやかさよりこの秋は かの落柿舎の寂しさにゐむ

藪陰に野菊の花のすこしある 去来の墓のありどころかな

 30代の頃に友人と「歳を取って引退したらどこに住みたいか」という話をしたことがあり、ハワイ好きの友人は「ホノルル」と答えたのだが、私は「京都の落柿舎がいい」と答えた。「ラクシシャ?何だそれ?」と友人は怪訝な顔をしていたが、私は若い頃から“隠遁願望”があり、20代の冬に初めて一人で京都を訪れた際、観光客もまばらで、今よりずっと寂れていた落柿舎に心奪われたのである。

落柿舎の周囲には40本の柿の木があったが、柿の実を売る契約をしたのちに、すべて台風で落ちてしまったというのが名前の由来→

 今さらではあるが、落柿舎は蕉門十哲、つまり松尾芭蕉の門下で最も優れた弟子10人のひとり、向井去来の寓居である。芭蕉がこの家で『嵯峨日記』を執筆したことでも有名。意外と知られていないのが、去来が元武士であり、かなりの使い手であったということ。父は長崎聖堂を建立したことで知られる儒学者の向井元升で、名門の出であったことは確かだ。しかし、その去来(本名は兼時)がなぜ若くして武士を捨て、俳諧の道に入ったのかは定かではない。

 吉井勇の歌に出てくる「一力」は祇園を代表するお茶屋『一力亭』。この店については第四章で触れるとして、華やかな祇園や京極に対し、枯れた嵯峨野、山科という二つの顔を併せ持つところに京都の醍醐味がある。本来、都市の魅力とは「陰と陽」の両極にあり、最近の“再開発”と称する経済行為は人の営みの「陰」の部分を覆い隠そうとする発想の貧しさ、浅はかさがあるように思う。

 しかし、3年前に綺麗に修復された落柿舎は、若い頃に見た落剥の味わいはどこにもなく(もともとオリジナルではなく再建された建物なのだが)いかにも観光用のパッケージされた施設に化けていた。建物が軽くなれば見物人も軽くなるというわけで、門前には賑やかな中国語が飛び交っている。唯一の救いは、門前の畑が生産緑地に指定されているため、今後も開発されないということ。

 それにしても20〜30代の私はなぜ隠遁生活に憧れを感じたのか。何かから逃げたいと思っていたことは間違いない。不思議なもので、40代になってからは、夜な夜な銀座を徘徊し、まったく逆の生活を送っていたのだが…。人と交わっても交わりを避けても、心の奥にある寂しさに変わりはないということをようやく悟ったのが50代を過ぎてから。今はまた、侘び住まいが恋しくなった。愚か者は遠回りをして、元来た道にまた戻る。

←落柿舎から歩いて2分ほどのところに向井去来の遺髪を埋めたという小さな墓所がある。正式な墓所は哲学の道近くの真如堂に。

 さて、勇の次の歌に詠まれた「去来の墓」は、本当に藪陰の、目立たない場所にある。観光客も寄りつかぬ中、枯葉に埋もれている。私の心に引っかかっていたのはまさにこういう情景であり、もし私が死んだら、かくの如く葬って欲しいという理想形でもある。「まだ若いのに死ぬことを考えるなんて」と訳知り顔で言う御仁も多いのだが、数年前に糖尿病を患ってから、死というものを身近に感じるようになった。おそらく人間だけが死を意識する。死を考えぬ者は生の意味をも知らぬ者だと思う。私がこの“アラカン”で提案したいのは、ただノーテンキに老後を生きようということのみではない(それも大事なのだが)。生と死を身近に考える歳になったのだから、自分自身を哲学してみようということでもあるのだ。

夢は枯野を駆けめぐる

悔しさを常持つわれも嵯峨に来て 落葉を踏めば心和むも

落葉みちを二尊院へとのぼり来て 秋の深さにおどろきにけり

 落柿舎から目と鼻の先、常寂光寺も紅葉の名所ではあるが、もう午前中で紅葉の終焉はわかっていたので、期待せずに入った。しかし、ここの枯葉の落ちっぷりというか、見事な一面の落葉には良い意味で期待を裏切られた。これはこれでひとつの世界である。他国の人は、落葉は掃除が大変だということで疎ましく思うらしいが、勇の歌にあるように「心和む」のは、やはり“虫聞き”を風流とする日本人ならではの感性か。木漏れ日に和み、踏みさくむ音に和む。

上の2枚は常寂光寺。下は化野念仏寺。こちらは意外と空いてました。→

 二尊院には、かつて何度も訪れているのだが、かのJRのTVCM効果で、今年の人出は凄まじかったらしい。そう言えば今年の春、花見に行った醍醐寺もCM効果でお祭り騒ぎだった。その時詠んだ一句が「今競う花に負けじと姥桜」。御多分に洩れずこちらの紅葉もあらかた終わっていたが、それでも人出は多く、撮影は断念した。勇が「秋の深さにおどろきにけり」なら、こちらは「人の多さに驚きにけり」である。人がいない時の風景が見たいという我が儘な人は、こちらの映像で確かめて欲しい。

 以前、夏真っ盛りの時に、角倉了以の取材で二尊院の墓所を訪ねたことがある。墓所は山の上にあり、息を切らし汗だくで登った記憶があるのだが、実はここの通称「紅葉の馬場」は青モミジの季節も美しい。何より観光客が殆ど立ち寄らないのが良い。そういう意味で初夏もまたお勧めである。和歌好きなら門をくぐってすぐ左手にある「西行の庵跡」も見逃せないだろう。下記は西行の歌。

我がものと秋の梢を思うかな 小倉の里に家居せしよ里

 嵯峨野の締めくくりは「化野念仏寺」。かつては京都でも有数の不気味なスポットだったが、今ではすっかりメジャーになり、若い女性客も多い。平安時代には東山の鳥辺野、洛北の蓮台野と並んで、風葬の地、つまり死体を遺棄して野ざらしにする場所であった。「残酷な」などと思うのは現代人の感覚で、この時代にはまだ庶民を埋葬する習慣がなく、ごく当たり前のことだったのである。

 そんな野ざらし状態を憐れんだ空海が遺骸をまとめて埋葬したというのが念仏寺創建の由来。実は由緒正しい寺なのである。不気味感をことさら演出している境内の8000体もの石仏や石塔は、化野一帯にバラバラになって風化していたものを明治になってから1カ所に集めた、いわば無縁仏の区画整理みたいなものだ。

 しかし、古くから京都に住んでいる人はこうした場所を忌み嫌い「人の住むところではない」と言う。そういう場所は他にも多々ある。実はこれが古都の「もうひとつの顔」である。現世で起こる災いはすべて前世に原因があるという考え方が脈々と受け継がれている。「侘び住まいもいいが、京都に住むなら場所をよく考えろ」と、ありがたい忠告を何度かいただいた。まぁ、自分自身の境遇を思えば、妻もなく子もなく定職もなく、どちらかと言えば無縁仏に親近感を覚える身の上ではあるのだが…。<第三章へ>