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二日目は車ではなく徒歩で移動。京都の街は慣れればさほど広くない。市街地はおおかた徒歩圏内である。ただ、そう思うのは比較対象の問題であって、普段暮らしている東京が巨大すぎるのかもしれない。京都の中心部からタクシーに乗って、1000円を超えるような観光地は嵐山や伏見と言った郊外、いや“洛外”が殆どである。私がかつて銀座でへべれけになって帰宅した頃のタクシー代は5000円前後だったが、こちらの運転手さんに言わせれば「そんな人、滅多にいまへんで」。
ところで個人的な話だが、京都に来た際に必ず足を運ぶ寺がある。場所は洛東、平安神宮と哲学の道のちょうど中間ぐらいに位置し、真如堂の南に隣接する。正式名称は金戒光明寺、地元の人は「くろ谷さん」と呼ぶ。あまりアクセスが良くないのと、特に観光地でもないので訪れる人は少ない。
なぜそんな寺に毎度通うのかというと、私が会津藩士の末裔だからだ。母方は代々藩医であった鈴木家の血を引き、その中には白虎隊士として自刃した鈴木源吉(享年17歳)もいた。源吉の甥は幼い時分に戊辰戦争で荒廃した会津の城下町に遊び、家に帰るとしきりに「えび、えび」と母親に訴えたという。会津には海がないから海老など滅多に見ることはない。そこではたと気がついた。その時町中に、誰のものやら知れぬ生首が無数に転がっていたのである。
「くろ谷さん」は幕末、京都守護職であった会津藩の本陣だった。藩主・松平容保を筆頭に6年もの間藩兵1,000人が常駐し、1年おきに交替した。守護職の管轄下にあった新選組の数々の逸話も、壬生の屯所とこの地が舞台。戊辰戦争の緒戦となった鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍約110名、幕府軍約280名が戦死、他にもさまざまな理由で命を散らした会津藩士352名の墓所がこの寺にある。
上は金戒光明寺文殊塔。真ん中は墓所の石仏。“アフロ仏”として一部マニアには有名な下の写真は正式には五劫思惟阿弥陀仏像といい、阿弥陀如来の異形のひとつで、48の大願を成就するために永い間、剃髪もせずに坐禅・思惟していたので、このような髪形になったという→
会津藩の中間部屋頭としてこの寺で藩士達の世話を焼いていたのが侠客・上坂仙吉であった。背中には小町桜の刺青、全身に無数の刃傷があり、右の小指がなく、左の指も2本を残すのみ。傷はすべて壮絶な斬り合いの名残であり、少なくとも5人を殺害した経歴を持つ。この荒くれ者が、新選組の密偵として暗躍し、鳥羽・伏見の戦いでは自らも参戦、子分200余名と共に戦死したまま放置された会津藩士を弔い、官軍の跋扈する会津に命がけで潜入、遺族に遺品を手渡した。
そういった経緯から、仙吉は「会津小鉄」と呼ばれていた。いわゆるヤクザではなく、本物の侠客がいた時代の話だ。小鉄の墓は、会津藩士が眠る「殉難者墓所」の途中にあり、死してなお藩士たちの亡骸を見守っている。極道の親分が生涯恩を忘れず忠節を誓ったというのだから、松平容保と会津藩士にはそれだけ人を引きつける何かがあったのだろう。墓のすぐ先には法然ゆかりの紫雲石が安置された西雲院。他にも熊谷直実が出家した草庵・蓮池院や、直実が鎧を洗い、それを掛けたという言い伝えのある見事な枝振りの松も。歴史好きなら半日かけて全塔頭を巡るのも一興か。
さて、私事はこのくらいにして、吉井勇の世界に戻ろう。「寂しければ」というのは勇お気に入りの発句で、歌集『天彦』では19首もの連作が見られる。お気に入りと言えば、この首に詠まれた大徳寺は私の京都お気に入りトップ3に入る名刹。20数カ所の塔頭それぞれに独自の個性があり、それぞれが実に味わい深いのである。
←上は加藤清正が寄進したという黄梅院の鐘楼。下は興臨院の中庭
秋の特別公開ということで、まずは黄梅院へ。実は何度も訪れているのだが「撮影お断り」は今回が初めてだった。何しろ信長、秀吉というふたりの天下人の面影を残す塔頭である。いろいろと見どころも多く、ぜひ紹介したかったのだが、写真がないと説明しずらいので断念。通常は非公開なので、公開の際は見逃さないでいただきたい。直中庭、破頭庭、作仏庭と3つの枯山水があるが、どれも甲乙付けがたい。
さらにもうひとつの特別公開、興臨院は前田家の菩提寺。「昭和の小堀遠州」中根金作の手によって復元された方丈前庭は、近年の作とは思えない趣。織部好みの茶室、涵虚亭も一見の価値あり。こちらも紅葉の時期は過ぎていたが、足元が寒くなければ、いつまでも佇んでいたい場所。
さていつもなら、ついでに大仙院におられる尾関宗園師を訪ね、元気を分けていただくのだが、朝から何も食べていなかったせいか、猛烈に腹が減ってきた。近くに自然食の旨いランチを食わせるカフェがあったことを思い出し、そそくさと門を出る。
ところがお目当てのカフェは本日お休み。そう言えば、たまに寄る「おはりばこ」もお休み。どうやらこの近辺は水曜が定休日のようだ。今まで何度も来ているくせに知らなかったというのは恥ずかしい。そういえば、かつて「おはりばこ」で、さる女性への土産を買い揃えたことがあった。「よーじや」のあぶらとり紙も定番ではあったが、やはり手作りの魅力には代え難い。その女性も今は去り、土産を渡すあてもない…。とまぁ、柄にもなく感慨にふける。どうもここに来るといろんな事を思い出す。“かにかくに”追憶は重し。財布は軽し。
ひとまず腹ごしらえは後に回し、この日の取材を先に終えることにした。次の目的地は、前日スケジュールが押して行けなかった大覚寺。時代劇ロケの定番、大沢池の秋景色はいかがなものか。「紅葉の回廊」ができることで有名ではあるが、これまでの経緯からすると過度な期待は禁物…。
伝え聞いた話では大覚寺で「1200年の風に乗せて」という、5000本もの風車を使ったイベントが行われているという。風車の意味はイマイチわからないが、絵柄としては悪くない。果たして吉と出るか、凶と出るか、結果は愚作を御覧あれ。<第四章へ>
大沢池近辺はかろうじて赤い色が残る(写真右)。風車のイベントの撮影は今回大活躍のPOPモードで。なかなか幻想的な世界が撮れたかも(写真下)