第ニ章:新選組と幕末人斬り伝(後編)

恨みを募らせた禁門の変

 池田屋事件の奮闘ですっかりその名を全国区にした新選組でしたが、宮部、吉田らの有為な人材を失ったことで維新が10年遅れたという人もいれば、むしろ恨みのエネルギーが尊攘派に火をつけ、早まったのだという人もいます。同年8月の禁門の変(蛤御門の変)は、表向きは「武力をもって八月十八日の政変の冤罪を晴らすべし」ということでしたが、実質的には長州藩による幕府・会津藩への“復讐”とも言えるものでした。

 京都出兵を主張する長州急進派の中心は来島又兵衛、真木保臣ら。桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞といった慎重派がこれを抑えようとしますが、将軍後見職・徳川慶喜以下、雄藩による長州処罰に関する参預会議が物別れに終わると、これを好機とみた久坂が一気に急進派に転じます。その折も折、怒れる長州藩士の火に油を注いだのが池田屋事件でした。仲間の仇を討てということで、藩論は一気に京都出兵に傾きます。新選組というわずか30数名の“非正規警察”が、日本の歴史を大きく変えた瞬間でした。

 朝廷内部でも親長州派と反長州派に別れ、なかなか結論が出ませんでしたが、最終的には会津藩に対する信頼が厚かった孝明天皇の決断で長州掃討が決まります。久坂はこの決定に従おうとしますが、来島、真木らの決意は変わらず、御所の蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が武力衝突、一時は長州藩優勢でしたが、“西郷どん”率いる薩摩藩兵が会津側の援軍に加わったことで形勢逆転、来島は戦死、久坂は自害、真木は天王山で自爆という結果に終わりました。

 理由はどうあれ、御所に発砲したことで長州藩は「朝敵」という決定的な烙印を押されます。この時期の長州藩は、やることなすことすべて裏目に出ていたような気がしますよね。そして何よりも深傷だったのは、吉田松陰門下ナンバーワンと言われた若手のリーダー・久坂玄瑞を始め、多くの若き指導者を失ったこと。

 その歴史的現場にもちろんワタクシ、行ってきましたよ。蛤御門は9つある御苑外郭門のひとつで、西側のちょうど真ん中あたりにあります。正式名は新在家御門(しんざいけごもん)というのだそうですが、それがなぜ蛤御門になったのかといえば、普段は“開かずの門”なのに、火事の時だけ開くということで、焼き蛤がパカっと開く、あれと同じというわけ。ちなみに大阪商人が昔から使うというお客への隠語に「夏の蛤」というのがあって、夏場の蛤は貝殻はそのままでも中身は腐ってしまうことから「身(見)いくさって、貝(買い)くさらん」ということなんですって。全然関係ないけど。

ワタシの妄想を壊さないで…

             上から京都御所蛤御門の弾痕、伊東甲子太郎肖像画→

 蛤御門には、今でも長州が発砲した際の銃弾跡がたくさん残っています。それをまじまじと見ていたら、横にいたおじさんが「これは実は違う跡なんですよ〜」なんて夢のない事を言ってるのが聞こえてきました。人の妄想の邪魔をしないで〜! ワタシはもちろん、当時の弾痕と信じています。

 さて、池田屋事件以来、禁門の変では長州藩士の鎮圧に加わるなど、新選組の評価はうなぎのぼり。逆に朝敵となった長州藩は、履物に「薩賊会奸」と書いて踏みつけるほど、会津、薩摩両藩へ深い遺恨が残りました。のちの薩長同盟が難航したのも、ここに原因があったようです。実はこうした事態を最も恐れていたのが会津藩で、池田屋への出動が遅れたのも、他藩とのトラブルを避けたかったからだといいます。新選組の決死の活躍を否定できない反面、内心では「余計なことを…」という気持ちがあったのかもしれません。

 そんな複雑な事情を反映した悲劇が、池田屋事件の直後に起こった明保野(あけぼの)亭事件。東山の料亭に長州藩士が潜伏しているという情報を得た新選組と会津藩士が踏み込むと、逃げようとした男がいたため、柴という若い藩士が手傷を負わせますが、その男は長州藩士ではなく麻田という土佐藩士でした。これが誤認であるということがはっきりしたため、会津藩は土佐藩に詫びを入れ、そこで終わるはずだったのですが、土佐藩側は麻田の行為を「士道不覚悟」という理由で切腹させます。このことが土佐藩内部の尊攘派に火を付け、一時は一触即発の事態に。

 この事態に苦慮したのが松平容保でした。土佐藩との無用な対立を避けるには、喧嘩両成敗として柴に切腹を命じるしかないのですが、柴には何の落ち度もありません。しかし、悩める主君の様子を伝え聞いた柴は、自ら腹を切ります。何の罪もない若者2人が、つまらない理由で死ななければならなかったこの事件は、勤王、佐幕と世論が二分していた当時の複雑な状況を今に伝えています。

 池田屋、禁門の変を経て朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜され、我が世の春を謳歌し始めた新選組ですが、もともとは日野の百姓の倅に過ぎなかった近藤が、今をときめく新選組局長ということで、夜遊びも派手になり、他の隊士に対する態度もだんだん傲慢になっていったようです。しかし、もとを正せば殆どが同年代の道場仲間でしたから、その分隊士の平等意識も強く、禁門の変の翌8月には、永倉ら6人が連名で、近藤の増長ぶりを訴える書面を容保に送っています。

伊東の加入と山南の切腹

 加えて土方による厳しすぎる隊律や締め付けも密かに反発を招いていました。不穏な空気の中で近藤と土方は、豊富な資金をもとに募集をかけ、新選組に“新たな血”を受け入れることにします。そのひとつが江戸・深川で北辰一刀流の道場を開いていた伊東甲子太郎一派の入隊でした。近藤たちは、試衛館出身者以外の隊士を増やすことによって、新選組を仲間うちのグループから、開かれた組織に変えていこうとしたのかもしれません。

 文武両道にして細面の美男、しかも弁舌さわやかという伊東の加入は、狙い通り新選組に“新しい風”を吹き込みます。近藤も一目置いていた伊東の魅力は多くの隊士を引きつけ、近藤・土方体制に対する不満のはけ口としてうまく機能していたようです。しかし、土方は当初から伊東を危険人物と見ていたようで、図らずもその予感は的中してしまうのですが…。

 翌、元治2年(慶応元年)1月には土佐勤王党の残党による大坂城乗っ取り計画を阻止(ぜんざい屋事件)するなど、組織拡充と共に活躍の幅を広げた新選組ですが、2月に予期せぬ悲劇に見舞われます。それは試衛館以来の同志であり、当初ナンバー3であった山南敬介の脱走と、局中法度に則っての切腹処分でした。

 この事件には謎が多いのですが、一説には隊士の人数が200名を数えるに至って、手狭になった壬生から新たな屯所候補を探す際に、広大な敷地と伽藍を持つ西本願寺に白羽の矢が立てられたことが原因とも言われています。西本願寺は長州藩と親しく、勤王派支持と目されていたため、その影響力を削ぐ狙いもあったようです。

 本来佐幕派の旗頭であるべき新選組にあって、山南は勤王思想の持ち主でした。その点では、後に分裂する伊東一派同様、近藤たちとの対立は避けられない運命でした。西本願寺側との交渉過程で、温厚で心優しい山南は板挟みになって苦しんだとも考えられますが、真実は定かではありません。山南切腹から2週間ほど経って、新選組屯所は予定通り西本願寺に移転されました。

なんでも大きい!西本願寺

 というわけで、西本願寺にも行ってきました。と、その前に、東京在住の皆さんなら本願寺って言うと何を思い浮かべますか? そう、築地本願寺ですよね。これが本当にお寺?って思うような国籍不明の独特な建物。あれによく似た建物が西本願寺の近くにあるんですよ。建物の名前は旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)。よく似ているのは建築家が同じ人だから。平安神宮や湯島聖堂といった数々の作品を残した伊東忠太。築地本願寺がどうしてあんな建物になったかについてはこちらのホームページ(ここをクリック)を読んでくださいね。

←上から本願寺伝道院、太鼓楼、大銀杏と阿弥陀堂

 伊東忠太作品がユニークなのは、本人がデザインした空想上の動物や妖怪の彫像がいたるところに散りばめられていること。もちろん、こちらの建物でも羽の生えたゾウさんとか、可愛い珍獣?たちにたくさん会えます。そんな“伊東忠太動物園”を楽しんでいたら、不意にのっぺりした金色の大きな顔が…。出たな妖怪! と思って思わず後ずさりしたら、それは西本願寺前門前町・ご縁まちのゆるキャラ、おりんちゃんでした。妖怪なんて言ってごめんなさい。

 ご存知のように本願寺には東と西がありますよね。でもそれはあくまで俗称であって、正式には東は真宗本廟、西は龍谷山本願寺。あまり知られていませんが、京都にはこの他に山科区と右京区にそれぞれ「本願寺」があります。ついでに言うと築地本願寺は、もともとは西本願寺別院、浅草にあるのが浄土真宗東本願寺派本山東本願寺(旧東京本願寺)。東西本願寺は大阪にもあって、北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)が沿道にあるから道の名を「御堂筋」…。うわ〜、なんだかややこしい。要はもともとひとつだった本願寺が2派に分裂、さらに4派に分かれたということなのですが、そのへんの事情を説明するとこの第二章を全部を使うことになるのでこのへんでやめておきます。

 西本願寺に来てまず最初に向かったのが、北東の角にあって、堀川通からも見ることができる太鼓楼。時報代わりに太鼓を鳴らしたというこの建物こそ、新選組の拠点のひとつです。内部は非公開ですが、柱には隊士による刀傷が残っているそうです。

男所帯に蛆がわく

 そこから南に向かって美しい築地塀を眺めながら阿弥陀堂門をくぐると、正面に阿弥陀堂、右手に大きな銀杏の木が見えてきます。少し奥へ進むと、左手に御影堂、そして、さらに巨大な銀杏の木が…。この大銀杏、樹齢約400年ということで、銀杏という木のイメージが根底から覆されそうな、怪物級の大木です。

 そんな巨木に負けず劣らず巨大なのが御影堂と阿弥陀堂。世界最大級の木造建築で、いずれも国宝&世界遺産。中に入ると、とにかくスケールの大きさに圧倒されます。確かにこれなら200名程度の新選組を受け入れても、余裕があったのかと思いきや、実際のところはそうでもなかったようです。

 新選組が使用していたのは先に紹介した太鼓楼と北集会所(きたしゅうえじょ)の2箇所で、近年発見された西本願寺の文書には、北集会所が1畳に1人が寝るほど手狭で、あまりの夏の暑さに耐えかね、病人も出ているとして(土方から)南隣の阿弥陀堂の一角を拝借したいと訴えがあったため、本願寺側は北集会所の板敷きの部分に畳を敷くなどの工事に翌日から取りかかると返答、「惟亦忝仕合(これまたかたじけなきしあわせ)」とする土方からの礼状が書き写されていたそうです。

   上から阿弥陀堂と御影堂をつなぐ廊下、床板の修復に施された可愛い埋木→

 そんなエピソードを知ると、実際のところ新選組も西本願寺も、お互いにかなり気を使っていたことがわかります。しかし「男所帯に蛆(うじ)がわく」の例え通り、狭い場所での雑魚寝と不衛生がたたり、感染症が蔓延していたようです。そこで「肉を食べさせて滋養をつけさせるように」という、近藤と親しかった名医・松本良順の勧めで豚や鳥を飼うようになり、境内で日常的に屠殺も行われるようになったので、西本願寺側もほとほと困り果てたそうです。

 加えて、隊士の切腹や斬首、広い境内を使っての大砲訓練なども行われていたそうで、さすがに我慢の限界に来た西本願寺側が、費用はすべて持つという条件で退去を要請するのですが、その話はまたあとで。ちなみに、屯所として使われていた北集会所は現在移築され、兵庫県姫路市亀山にある本徳寺(亀山御坊)の本堂となっています。ここにも数箇所刀傷が残っているというのですから、ちょっと呆れますよね。

油小路の決闘

 200名を超える大組織となって、傍目には組織を強化したかに見える新選組でしたが、実際には統制に苦心していました。西本願寺に移転してから松原、河合、谷と3人の隊士が死亡していますが、原因はよくわかっておらず、内部粛清という説も多々あります。そして、統制の乱れが表面化したのが、伊東甲子太郎一派と伊東を慕う隊士による御陵衛士の結成と、それに伴う新選組除隊でした。

 当初から勤王思想だった伊東と佐幕を旨とする新選組は水と油。決裂は当然の帰結でしたが、一応表面上は薩長の動向探索と御陵警備任務という名目で、伊東側は平和的な独立を図ったようです。伊東らは高台寺に拠点を構え、当初のメンバーは新選組側のスパイとして潜入した斎藤一を含む15人でしたが、後を追う隊士がどんどん増え、10名が会津藩へ直訴する事態に。このうち脱走の罪で4人が切腹という事態に及んで(諸説あり)、いよいよ近藤たちも静観できない状況に追い込まれていきました。その後、やはり伊東に合流しようとした武田観柳斎が暗殺されると、いよいよ御陵衛士側も身の危険を感じるようになります。

 慶応3年11月、それは現実のものとなりました。近藤は相談事があると伊東を妾宅に呼び出します。そこでさんざん酔わされた帰り道、油小路の本光寺前で待ち伏せていた大石鍬次郎らに討たれ、伊東は絶命。新選組は、わざと伊東の遺体を油小路七条の辻に放置。御陵衛士の仲間が駆けつけるのを待ち伏せます。罠とわかっていながら、放ってはおけぬと集まったのは藤堂、服部ら7名。

 対する新選組は永倉、原田など少なくとも17名以上。目撃談によると40〜50名という説もあります。勝敗はすでに見えていましたが、二刀流の剣豪・服部武雄が奮戦、新選組数名に手傷を負わせますが、大刀が折れると同時にメッタ斬りにされて死亡。近藤は試衛館時代からの仲間であり、池田屋事件など常に先陣を切ることから「魁先生」と呼ばれていた若手の藤堂平助を密かに逃がすよう永倉らに指示しますが、事情を知らない他の隊士に斬られ、藤堂も絶命します。結局、服部の奮戦もあって死亡は3名に留まり、4人はなんとか逃げ延びました。

龍馬と伊東、運命の糸

 逃げた御陵衛士の残党のうち、篠原泰之進らはのちに伏見街道に待ち伏せして近藤を狙撃、重傷を負わせたほか、のちに大久保大和という偽名を使って新政府軍に投降した近藤の正体を見破ったのも、元御陵衛士の加納鷲雄でした。因果は巡る、ということでしょうか。

←上から本光寺の伊東甲子太郎暗殺現場、河原町通の近江屋跡、ホテルリソル京都(後藤象二郎寓居跡)の記念ギャラリー

 今回はこの血なまぐさい現場にも行ってきました。伊東が討たれた本光寺は、京都駅中央口から西へ向かい、油小路を北に進んで7〜8分ほど。こじんまりしたお寺です。門から入った右手すぐに供養塔(墓所は東山区の戒光寺)がありますが、まさにそこで絶命したそうです。なんだか凄くリアル。藤堂ら3人が死亡した七条の辻はさらに北に向かって5分ほど。今は結構交通量も多い上に信号もないので渡るのに苦労しますが、死闘が繰り広げられた往時の面影はありません。

 しかし、近辺には新選組ファンとおぼしき若い女性がちらほら。さすが土方と肩を並べる男前だった伊東甲子太郎、人気あるんですねぇ。それはそうとこの伊東が暗殺されるわずか3日前に暗殺された超有名人がいます。それは誰あろう坂本龍馬。実は龍馬と伊東には接点があるんです。龍馬の暗殺当日、伊東は龍馬の滞在先だった近江屋を訪ね、新選組が狙っているから土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたそうです。

 龍馬にしてみれば、元新選組のアンタが何いってんの? という感じだったようで、龍馬はご忠告痛み入ると言うばかりで相手にしなかったそうです。この時伊東の忠告を聞いていれば龍馬は死なずに済んだし、伊東も尊攘派から信用されていたでしょうに。運命というのは皮肉なものですね。

 この近江屋、今は回転寿司に姿を変えていますが、その前の滞在先だった酢屋の2階は現存しており、龍馬ファンの聖地になっていますよね。実は今回の取材で宿泊した出来たてホヤホヤのホテルが、当時土佐藩士で龍馬との縁も深かった後藤象二郎の屋敷跡に建てられていて、ちょっとした記念ギャラリーが併設されています。そこにはあの有名な龍馬の肖像写真で使われていた台が再現されていたので、思わず似たようなポーズでパチリ。ついでにセピア色に加工してみました。えっ? 似合わないって? フン、余計なお世話ですよ。

幻の屯所

 話は伊東暗殺の現場に戻りますが、この辻からさらに5分ほど上がる(京都っぽいでしょ)と、右手に小さなお地蔵さんの傍らにひっそり石碑が立っています。これに気がつく人は相当注意深いか歴史好きなのかどっちかでしょうねぇ。かつてこの地にあったのが天満屋という旅籠。龍馬に詳しい方ならご存知だと思いますが、ここが天満屋事件の現場です。当時は海援隊士で、龍馬を慕っていた後の外務大臣・陸奥宗光は、龍馬の暗殺犯が「いろは丸事件」以来龍馬に多額の弁済金を払わされた紀州藩だと誤解。紀州藩公用人であった三浦休太郎を討つ計画を立てます。

上から天満屋事件の石碑、この付近に最後の屯所があったとされる不動堂、京都駅前のホテルにある屯所跡の石碑、壬生寺の近藤勇像→

 その動きを察知した紀州藩は会津藩経由で新選組に護衛を依頼。斎藤一、大石鍬次郎ら7名がその任に就きました。慶応3年の暮、海援隊・陸援隊士ら15〜16名が天満屋で宴会中の三浦らを急襲します。この乱闘で襲撃した側の中井庄五郎と、新選組隊士2名が死亡。ほか数名が重軽傷を負いました。実際に龍馬を暗殺したのは幕府直属の見廻組というのが定説で、紀州藩も新選組も関わってはいなかったのですが、見廻組のリーダー、佐々木只三郎は新選組創設の大元である清河八郎を暗殺しており、新選組とは本来仲間でありながら、身分の違いなどから対立していたと言われていて、ここにも不思議な因縁があるような気がします。

 そこから今度は油小路を引き返し、駅方面に向かうと、駅前の塩小路を少し過ぎたあたりの右手に小さな不動堂が見えてきます。この付近(不動堂村)にあったのが、最後の新選組屯所。ファンには「幻の屯所」なんて呼ばれています。

そして終焉へ

 この頃にはすでに幕府から直参旗本に加えられていた新選組幹部ですが、隊士たちの行状に我慢の限界となった西本願寺が、費用を全額負担するという条件でこの地に大名屋敷並みの屯所を新築。しかし、この豪華な新屯所で近藤らが過ごした時間はわずかに半年。慶応3年10月の大政奉還、翌年1月の鳥羽・伏見の戦いと、時代の風はどんどん新選組とは逆の方向に吹いていきました。そして、隊士たちは戦闘の中で次々と戦死、脱落していき、流山で捕縛された近藤は板橋刑場で斬首、その首は三条河原に晒されました。

 宇都宮、会津、函館と転戦していった土方も弁天台場で狙撃されて戦死。その一週間後に旧幕府軍は降伏し、ここに新選組は終わりを告げます。文久3(1863)年の創設から明治2(1869)年まで、足かけ6年。栄光の頂点と、その後の坂を転げ落ちるような転落。時代の転機にあっても無用な内ゲバに終始し、先を読めなかったといえばそれまでですが、武士に憧れ、武士よりも武士らしくあろうと精一杯背伸びをしながら、ただ戦いに命を賭けることにしか自分たちの存在意義を見いだせなかった若者たち。そんな愚直なまでのひたむきさが、時代を超えてわたしたちの胸を打つのかもしれませんね。

 隊士たちの合祀墓(壬生塚)は最初の屯所があった壬生の地にあります。正暦2(991)年創建という歴史ある律宗の古刹、壬生寺です。ここには近藤勇の銅像もあって新選組ファンがひっきりなしに訪れていますが、かつては沖田総司がこの境内で子どもたちと遊んだり、隊士たちが揃って壬生狂言を鑑賞したり、芹沢局長の頃、大坂の北新地でトラブルがあった力士を招いて奉納相撲を企画、放生池の魚やすっぼんを捕まえて料理し、力士に振る舞った等々、たくさんの逸話が残されています。

 明治維新で政治の実権を握った旧長州藩士にとっては不倶戴天の敵だった新選組ですから、生き残った隊士たちにとってその後の人生は表舞台には出られない、辛い日々だったと思います。恐らく仲間たちの墓参りすら難しい状況だったでしょう。数々の証言を残した永倉新八や、近年写真が発見された斎藤一といった有名隊士たちのその後の逸話は、ここではご紹介できませんが、ご興味のある方はぜひ調べてみてくださいね。というわけで、ワタシの新選組ストーリーは、これでおしまい。

町人出身の刺客

 さてここからは、幕末に横行した要人暗殺事件のお話。新選組もある意味公認の“暗殺集団”だったわけですが、その敵方に当たる尊攘派の志士たちにも、負ける劣らず血の気が多い連中がいました。ここでは、「幕末の四大人斬り」と言われる人たちを中心に、主な暗殺事件とその現場について検証してみようと思います。

←上から木屋町通沿いにある本間精一郎の暗殺現場と石碑、同木屋町通沿いの武市瑞山寓居跡

 「四大人斬り」のまず一人目は田中新兵衛。いわゆる“天誅”の火付け役として有名な刺客です。生い立ちについての詳細は資料に乏しいのですが、若き西郷や大久保ら「精忠組」の支援者に、商人出身でありながら後に武士となった森山新蔵という人物がいます。新兵衛はその奉公人で、主人が武士になったことで下級武士の序列に加えられたようです。文久2(1862)年4月に薩摩藩主・島津久光が兵を率いて京に向かった(伏見義挙)際、森山は物資輸送の任に就いたのですが、奉公人である新兵衛も同行したと考えられます。しかし、先発隊の西郷らが久光を待たずに先に入京したことから久光が激怒。西郷と行動を共にしていた森山は西郷、村田新八と共に捕縛され、薩摩に強制送還されます。

 不運は続きます。久光の上洛に希望を託していた在京過激派の薩摩藩士たちは、「倒幕ではなくて公武合体」というのが久光の真の目的と聞いて憤激、公武合体派の関白・九条尚忠と幕府の京都所司代を殺害し、その首を奉じることで久光の奮起をうながそうという、「既成事実を作っちゃえばもう逃げられないだろう」的な、かなり無理筋の計画をたてます。その決起を阻止しようと派遣された薩摩藩士9名が、過激派の志士たちと“同士討ち”になった悲劇が「寺田屋騒動」です(龍馬が伏見奉行に襲撃されたのは寺田屋事件)。話し合いは物別れになり、双方合わせて7名が死亡するという痛ましい結末でしたが、過激派の中には森山新蔵の息子がおり、事件後に切腹を命じられます。

 父の新蔵もこれに連座して切腹。その際新兵衛は薩摩には帰らず、京都に残っていたのですが、主人を失って途方に暮れていたところを精忠組の同志であった海江田信義らに拾われたのか、その後身を寄せていた薩摩藩京都留守居役・藤井良節の命で京に留まったのか、理由は定かではありません。この時、新兵衛は30歳。特に重要人物でもない新兵衛が、なぜ京都に留まったのか。その謎を解く鍵は、新兵衛の類まれな剣の腕にあったようです。

“鉄砲玉”の哀しみ

 これはあくまでワタシの妄想ですが、幼少の頃から武芸に秀でていた新兵衛を知る薩摩藩士が「あれはいい鉄砲玉になる」と藤井らに伝えたのではないでしょうか。しかも町人出の田中であれば、仮に暗殺が露見しても藩とは無関係と切り捨てられる。主人に忠実だった飼い犬が主人の死によって野良犬になり、やがて拾われたと思ったら闘犬にされ…。そんな悲しいストーリーを想像してしまいます。

 それからわずか3ヶ月後、新兵衛が突然幕末史にその名を刻んだのが島田正辰(左近)の暗殺でした。島田は大老・井伊直弼配下の長野主膳に協力し、14代将軍家茂の継嗣や安政の大獄、和宮降嫁など朝廷絡みのさまざまな裏工作で暗躍した京都のフィクサー。

 直弼の威を借り、安政の大獄で尊攘派に情け容赦ない弾圧を行使したほか、直弼の死後も「今太閤」と称され、京都で隠然たる権力を行使していた島田は、その一方で高利貸しや賄賂による蓄財に励むなど、幕府や朝廷に限らず、広く一般庶民にまで忌み嫌われていたようです。そのため常に居場所を転々としており、動向を掴むのが困難でしたが、同年6月、伏見にいるという情報が入り、新兵衛ら6名が追いますが、この時は逃げられてしまいます。

 その後約一ヶ月間、新兵衛らは島田を執拗に追い続け、木屋町の愛妾宅へ忍んできたところを3名で襲撃、島田は木屋町から二条通り付近まで必死に逃げ回りましたが、やがて追い詰められ、高瀬川の上流付近で斬殺されました。新兵衛らはしばらくその首を隠していましたが、暗殺現場がたまたま長州藩邸付近で、そこに首のない遺体が流れ着いたため、島田暗殺が長州の手柄になると危惧した新兵衛らは、犯行声明代わりに、その首を先斗町付近の鴨川河畔に晒します。

 この一件が、その後続発する“天誅”事件の最初だと言われています。翌8月、土佐勤王党の武市瑞山と引き合わされた新兵衛は武市に心酔、義兄弟の契りを結ぶと、武市に師事していた岡田以蔵らと徒党を組み、武市の手先となって暗殺を繰り返すようになります。

 そのターゲットとなったのは同志であるはずの越後出身の勤王の志士・本間精一郎(8月に三条木屋町で暗殺)や、安政の大獄では弾圧の実行部隊であった京都御番所組与力の渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞(天誅を避けるため9月に転任の途上、東海道石部宿で全員殺害)といった面々。

殺害理由は「嫌いだから」?

 今回は、本間精一郎の暗殺現場を実際に訪ねてみました。木屋町通り沿いの、三条通と四条通の間。周囲は飲食店が軒を並べる繁華街なので、うっかりすると通り過ぎそうな場所にひっそりと「本間精一郎遭難の地」と刻まれた石碑が建っています。以前はそこから先斗町につながる小道があって、軒先に刀傷なんかもあったようなのですが、私有地ですので、現在中の様子を伺うことはできません。この本間という人は、かなり早くから尊皇攘夷・倒幕を説いていた才人なのですが、裕福な家のお坊ちゃまな上に才気を振り回し、自己PRが過ぎるということで、仲間からはあまり好かれていなかったようです(だから殺していいとは思えませんが)。

 暗殺を指示したと思われる武市の寓居跡は、そこから北へ5分ほど、こんなに近いところに? と思うような位置にあります。先にご紹介した島田正辰の暗殺現場も、後でご紹介する佐久間象山、大村益次郎の襲撃現場も、新選組の池田屋も、竜馬暗殺の近江屋も、晒し首の鴨川河畔も、すべて徒歩5〜6分程度の圏内。ついでに言うと、長州藩や土佐藩の藩邸もこのあたり。当時の京都って、本当に狭い一角でいろんなことが起こっていたということが実感できます。

 “暗殺者”田中新兵衛の活動は短いものでした。翌文久3年5月、朝議を終えて帰途についていた若き尊攘派の公家・姉小路公知が、御所の猿ヶ辻付近で覆面をした刺客3人に襲われ、自宅に搬送されますが重傷のため絶命。事件現場には、犯行に使われたと思われる刀が遺棄されており、その刀には「奥和泉守忠重」の銘があり、薩摩風の拵でした。

         上から京都御所猿が辻の凹んだ築地塀、軒下の魔除けの猿→

 その2日後には、薩摩藩邸に潜伏していた土佐浪士の那須信吾が姉小路邸を訪れ、刀は新兵衛のものであると証言します。新兵衛は捕縛され、京都町奉行の取り調べを受けますが、僅かな隙に脇差を抜いて自害。事件は迷宮入りします。公知はよく知られた尊攘派であり、武市とも同志と言える関係だっただけに、公知の変節が原因ではないか等さまざまな説がありますが、新兵衛が一切自供を残さないまま死んでしまったので、真相はわかっていません。しかし、証言した那須は土佐で吉田東洋を暗殺した実行犯の一人であり、武市の腹心でしたから、何らかの意図があって武市が新兵衛を“捨て石”にしたとも考えられます。

 姉小路公知の殺害現場、御所の猿ヶ辻にも行ってきましたよ。この地は御所の北東、「鬼門」にあたるため、ここだけ築地塀が凹んだ形になっていて、軒下には烏帽子をかぶった木彫りのお猿さんが鎮座しています。このお猿さん、日吉山王社の神のお使いのなのだとか。金網が張ってあるので、てっきり保存のためかと思ったら、実はこのお猿さんが夜な夜な抜けだしては通行人にいたずらをするため、封じ込めたんですって。

剣は強いが痛みに弱い?

 次にご紹介するのは田中新兵衛同様、武市瑞山の配下として最も多くの暗殺を実行したと思われる岡田以蔵。この人は勝海舟や龍馬のボディガードとしても有名ですよね。土佐藩の下級武士、いわゆる郷士の出身で、武市に師事したのは土佐時代から。常に武市の行き先に追随し、江戸、中国地方、九州などで剣の腕を磨きました。文久2年6月、参勤交代の衛士に抜擢されたのを機に武市とともに京に上ります。

 最初の暗殺と目されるのは土佐藩下目付の井上佐市郎殺害。続いて田中らと徒党を組んでの本間精一郎暗殺、島田左近関係者では宇郷重国(異説あり)、目明し・猿(ましら)の文吉、森孫六ら与力4人、長野主膳の愛人であった村山加寿江の子・多田帯刀(加寿江は生きたまま晒された)、賀川肇を殺害。他にも尊皇派の儒学者・池内大学暗殺と、関与が疑われるだけでも11人。但し、すべて集団での犯行で、単独犯と思われる事件はありません。ただ、これらの事件を時系列(文久2年8月〜文久3年1月)で追っていくと、この時期ほぼ毎月のように誰かの首や遺体が鴨川の河原にさらされていたことになります。時代が違うとはいえ、京都の人たちはさぞ気持ち悪かったでしょうね。

 その後八月十八日の政変で政局が一変、土佐藩前藩主・山内容堂の命で武市が投獄されると、土佐勤王党は一気に衰退。居場所がなくなった以蔵は酒色に溺れ、一時は龍馬の紹介で勝海舟の護衛なども務めていましたが、武市を失ったことで凧の糸が切れたのでしょうか、転落は止まらず、商家への押し借りの罪で捕えられ京を追放され、土佐へ搬送されます。土佐藩での取り調べで以蔵は拷問に耐えられず、自分が関わった暗殺をあっさり自白。慶応元(1865)年5月に打ち首、獄門となりました。享年28歳。

 勝海舟の自伝『氷川清話』には、勝が3名の刺客に襲われた際、以蔵はたちまち一人を斬り捨て、他の二人を一喝して追い払ったというエピソードが出てきます。それほど強かった以蔵が、女性でも耐えたという拷問に泣きわめき、師の武市が呆れて「以蔵は誠に日本一の泣きみそである」と言っていたというのですから、本当に意外ですよね。

見た目とのギャップがすごい!

←上から高瀬川一之船入にある佐久間象山・大村益次郎の遭難碑、下御霊神社門前付近にある横井小楠殉節の碑

 続いては、田中新兵衛や岡田以蔵とは違って一人しか斬っていないのに、なぜか「四大人斬り」に数えられている河上彦斎(げんさい)。この人は、暗殺した相手が大物なんですね。その相手とは、幕末最大の知性・佐久間象山。しかも単独犯でした。加えて、斬った理由が「西洋の馬の鞍を使って神聖な京都の街を闊歩していた」から。

 彦斎は写真も残っているのですが、小柄で女性っぽい印象。これで伯耆流居合・逆袈裟斬りの達人だったというのだから人は見かけによりませんよね。実はこの人、新選組とは浅からぬ因縁があります。熊本の下級藩士の生まれで、兵学の先生は池田屋で殺された宮部鼎蔵。尊攘派として活動するようになってからは、あの清河八郎とも親交がありました。京に上ったのは、宮部の仇を討つためで、新選組隊士を斬るつもりが、なぜか衝動的に佐久間象山を斬ってしまったということになります。

 見た目のギャップ同様、犯行理由の不可解さがこの人の魅力でもあるのですが、明治の新時代を迎えてから熊本で「有終館」を設立し、兵士たちに兵法と学問を教えたり、交易事業にも携わるなど、文武両道の才人でもありました。しかし、徹底した尊王論者であったと同時に、頑ななまでの排外・攘夷論者であったため、開国を進める新政府側に疎まれ、参議・広沢真臣暗殺などの嫌疑を一方的にかけられた末、明治4年12月、日本橋小伝馬町にて斬首されました。享年38歳。

 佐久間象山の暗殺現場は、高瀬川一之船入のあたり。同じ場所に大村益次郎遭難の碑もあります。この地にあった旅館で食事中だった日本陸軍の父・大村を襲ったのは大村と同じ元長州藩士・団伸二郎、神代直人ら8名。大村は一命はとりとめましたが、治療中に敗血症になり死亡。

 ちなみに、彦斎の犯行ではありませんが、象山と肩を並べる知の巨人で、龍馬にも大きな影響を与えた儒学者・横井小楠の暗殺現場(明治2年1月、十津川郷士ら6人組の犯行)も、象山の現場から徒歩10〜15分ほど、寺町通りの下御霊神社門前近くにあり、石碑が残っています。

誰が半次郎に斬らせたか?

 さて、最後は薩摩の中村半次郎(桐野利秋)。この人は、NHKの「西郷どん」でも頻繁に出てくるので、ファンの方にはおなじみですよね。下級武士の三男坊として生まれ、10歳の時に父が流罪、家禄を召し上げられた上に18歳の時には頼みの兄も病没と、若い頃は百姓仕事をしながら相当苦労したようです。それでも剣の腕は確かだったようで、文久2年(1862年)3月には、主君の島津久光に随行して上京、尹宮(朝彦親王)付きの守衛となっています。その後、誰にでも愛される人柄の良さもあって小松帯刀や西郷など重臣から可愛がられるようになり、徐々に頭角を現していきます。

 さらに寺田屋事件後、薩摩藩邸に庇護されていた竜馬とも知己となり、長州の桂小五郎にも信頼されるなど、藩の枠組みを超えて豊富な人脈を築くようになります。ところが、そのイメージに反して、半次郎が生涯唯一と思われる暗殺を行ったのはこの頃で、慶応3年9月、英国式軍学の第一人者で、薩摩藩士にも兵学を教えていた赤松小三郎を、田代五郎左衛門と共に白昼斬殺。

上から若き日の半次郎、恋人とのツーショット、赤松小三郎暗殺現場に建てられた石碑→

 この赤松という人は、薩摩ばかりではなく、敵対する会津藩にも招かれて兵学講義や軍事教練を行っており、私塾で教えていた時代の門弟には新選組の隊士もいたというのですから、藩籍や出自、イデオロギーには一切こだわらず、学びたい者には門戸を開くという開明的な学者だったことがわかります。実際、半次郎自身も門下生の一人で、他にも後に帝国海軍の重鎮となる東郷平八郎や上村彦之丞も赤松のもとで学んでいました。

 半次郎は「幕府のスパイだから斬った」と述べていますが、周囲の人物評を見ても、半次郎が独断で暗殺を企てるような男でないことは確かです。内戦を避けるために薩摩と幕府の間を取り持ち、尽力していた赤松の存在が、どうしても武力による倒幕を実行したい薩摩側にとって邪魔だったというのが実際のところではないかと思います。そうなると、誰が半次郎に暗殺指令を出したのかということになりますが、これは謎のまま。ワタシはたぶん“あの人”だと思いますけどね…。

 その後の戊辰戦争での活躍や、会津若松城明け渡しの際に会津側の心情を思って「男泣きに泣き」、松平容保から宝刀を送られたエピソードなど、すべてご紹介するにはスペースが足りませんが、最終的には西郷に従う形で西南戦争に参加、西郷の自決を見届けた後、壮絶な戦死を遂げます。

 赤松の暗殺現場は、五条通から東洞院通りを下がった右手、駐車場の一角に石碑が残されています。それにしても、今とは時代が違うとはいえ、意見や立場が違うというだけで、どうして殺さなければならなかったんでしょうね。それだけ国の将来に対して真剣、純粋だったからかもしれませんが、幕末の16年間、いったいどれほどの有為な人材が失われたのでしょうか。その後の明治政府による富国強兵政策は軍部の力を強め、文民統制のバランスが崩れた結果、対外進出への歯止めが効かなくなった末路として、太平洋戦争での悲惨な敗戦につながったことを思うと、もしかしたら誰かが生き残っていればそんな方向には行かなかったんじゃないかな、なんて夢想してしまうワタシなのでした。

 そんなわけで、血で血を洗う幕末編はここまで。お次はぐっと時代をさかのぼって、平安京の闇にご案内します!! <第三章へ>