第ニ章:ニシン漁の栄枯盛衰

小樽にもバブル期があった…

 さてさて、前章の洋館っていうのは、建築オンチの私でも何となくわかるけど、今回のもうひとつのテーマである『石狩挽歌』って何? 私、歌手の端くれではありますが、その曲に関しては全く無知なのでした。そこで歌謡曲に詳しい方にお聞きしたら「1975年に大ヒットした北原ミレイさんの代表曲で、作詞家・なかにし礼さんの代表作でもある」とのこと。

 そこで今回、いろいろ調べてみたら、日本作詩大賞を受賞したという歌詞にはかつての北海道経済を支えていたニシン漁や、そこに関わったいろんな人の人生、そしてなかにし礼さん自身のエピソードも秘められていることがわかって、話がニシンだけに“目からウロコ”でした。そんな名曲『石狩挽歌』の世界について、私なりにご紹介したいと思います。

 小樽運河から北に10分ほど車を走らせると「にしん御殿 小樽貴賓館」という看板が見えてきます。案内に従って祝津の海が見下ろせる小高い丘の上に登れば黒塀と大きな日本家屋が…。これは、ニシン漁で巨万の富を築いた青山家の別邸で、国の登録有形文化財にも指定されています。中に入れば、洋間1室・和室17室という広さ、その豪華さに息を呑みます。ひのきの一本柱、美術品と言った方がいい調度品や建具、大理石と御影石を使った工芸品のような洗面台や有名画家・書家の襖絵、それぞれに趣向を凝らした庭園など、どれをとっても美術館並みの美しさ、豪華さに驚かされます。

上から北原ミレイさんが歌う『石狩挽歌』(動画)、にしん御殿小樽貴賓館(旧青山家別邸)と敷地内にある石狩挽歌記念碑→

 それもそのはず。完成まで当時のお金で31万円(同時期の新宿・伊勢丹デパートの総工費が50万円)の費用と6年半の歳月をかけたというのですから、ニシン漁ってどれだけ儲かったの?って不思議に思いますよね。大正12(1923)年の竣工の際には、お披露目の宴ということで山形と小樽から芸者さんを呼んで、お客さんを三日三晩、百畳敷きの大座敷でもてなしたというのですから、大金持ちもここに極まれりって感じです。

ニシンは魚にあらず?

 ニシンって言うけど、ただの魚でしょ?しかも高級魚でもないし…。と思うのが普通ですよね。でも、当時の北海道ではニシンを「鰊」とは書かずに「鯡」と書いたそうです。つまり、ニシンは魚にあらずということ。そう、当時の感覚ではニシンはお金そのものだったんです。

 かつてはニシンが産卵のために北海道沖に押し寄せ、春になれば海が白子(精子)で海岸が白く染まるほど。苦労しなくとも大量の漁獲高を誇っていたのは確かなのですが、食用としてだけでは、そんなに儲かるはずはありません。実は、ニシンは豊富な脂肪分を灯油などの燃料油として、その絞ったかす(〆粕)を肥料として売っていたのです。江戸時代の後期ぐらいから、西日本を中心に稲作よりも付加価値の高い綿や藍、菜種といった商品作物の栽培が盛んになっていきます。その肥料として栄養価の高いニシンの〆粕は最適だったのです。

←写真上からニシン(参考写真)、全盛期のニシン漁の様子、「竜宮閣」の絵葉書(小樽市総合博物館蔵)と貴重な8ミリフィルム

 そこに目をつけた近江商人が北前船を駆使して北海道の各漁港から大量のニシン油と〆粕を買い付け、それを全国の寄港地で販売、飛ぶように売れたそうです。網元からすれば、ほとんど原価ゼロで、捨てるところのないニシンはまさに「お金」そのものでした。贅沢な豪邸を造った青山家の初代、青山留吉も最初は山形の貧しい漁民のひとりでしたが、単身北海道に渡ってからニシン漁に関わり、大成功を収めたそうです。

 じゃあ、ニシンは食べなかったの?美味しいのに…と思ったアナタ、もちろん食用としてのニシンもありました。数の子とか子持ち昆布なんか今では高級品ですもんね。ただ、生のニシンは脂が乗っている分、腐るのも早かったので内臓や頭を取り除いて天日干しすることで、なんとか商品化しました。これが身欠きニシン。身欠きニシンは北海道産の昆布とともに関西に運ばれ、大阪や京都で一品料理に。それがニシンの昆布巻きやニシンそば。京都でニシンそばが名物なのはそんな理由からなんですね。

個人的体験から生まれた名作

 さて、ここにきてようやく『石狩挽歌』のお話。旧青山別邸の敷地内には「石狩挽歌記念碑」が建っていて、その土台部分には、なかにし礼さん直筆の歌詞が石版に彫られています。別邸内にはなかにしさん、北原ミレイさんを招いての除幕式の様子も写真で見ることができます。言うまでもなく『石狩挽歌』はニシン漁全盛期と現在を対比した小樽の栄枯盛衰がテーマ。

 その歌詞には聞き慣れない言葉がたくさん出てくるので、私を含めて「?」な部分が多いのですが、調べられる限り調べましたので、歌を聞きながら参考にしてくださいね。まず「ごめがなくから」の「ごめ」とは「ウミネコ」のこと。「赤い筒袖(つっぽ)」とは漁民の作業着で綿入り半纏のようなもの、「やん衆」とは主に北東北からの出稼ぎ漁民、「番屋」は漁民の宿泊所兼作業場、「問刺し網」はニシンの群れを予想して配置する定置網。「笠戸丸」はニシン漁とは直接関係ありませんが、明治から終戦にかけて移民船、商船、漁船などに使われ、最後にはソ連に爆破されるという数奇な運命をたどった船です。たぶん、日本が近代化される過程で戦争や恐慌に翻弄されてきた一般庶民の心情をなぞらえているのではないかと思います。

現存するニシン御殿と番屋。上から旧青山家漁家住宅(札幌市・北海道開拓の村)、現在では旅館として使われている小樽銀鱗荘、小樽市鰊御殿→

 「オタモイ岬のニシン御殿」というのは、実際にはオタモイ岬という地名はなく、オタモイ海岸の岩場の突端ではないかと思います。そしてそこにあったのは「ニシン御殿」ではなく、「竜宮閣」という料亭でした。他にも演芸場や相撲場、弁財天を祀った白蛇弁天堂、食堂弁天閣など、オタモイ海岸の絶景を活かした一連の施設(今で言うテーマパーク?)は、小樽市内で割烹「蛇の目寿司」を経営していた加藤秋太郎が27万円の私財を投じて建設されたもの。

 清水寺を思わせる(相当危険な工事だったと思いますが)ような断崖絶壁の上に建てられた「竜宮閣」は、当時の建築技術の粋を集めたものだということが、当時の絵葉書や貴重な8ミリフィルムから偲ばれます。そんな優秀な職人を集められたのも、旧青山別邸同様、ニシン漁の財力があったからこそ、日本中の一流職人が集まったのだと思います。

 しかし、「竜宮閣」は太平洋戦争の開戦とともに休業を強いられ、戦後、やっと再開の目先がたった直後に火災に見舞われます。現在、この一帯は施設の老朽化で立ち入りを禁止されているようです。もったいないですよね。そして栄華を極めたニシン漁も、昭和30年代に入ると突然の不漁に。乱獲のせいだとか水温の上昇が影響したとか諸説ありますが、原因はいまだに良くわかっていません(最近では全盛期にはとても及びませんが、徐々に水揚げ量が増えてきています)。

 なかにし礼さんがこの詩を書こうと思ったきっかけは、同氏の小説「兄弟」に詳しく書かれています。なかにし礼さんの一家が昭和21年、満州から小樽の祖母の家に引揚げてきた時、なかにしさんはまだ小学生でした。一緒に引揚げてきた特攻隊崩れの兄が、祖母の家を勝手に抵当に入れて、漁業権を三日間だけ買います。それは一家の全財産を賭けた大博打でしたが、その賭けが当たって見事に大漁。しかし、なかにしさんの兄は、ニシンを本州まで運べば三倍の値がつくと教えられ、家族の反対も聞かずに輸送船を雇います。結果は大しけに見舞われてすべてがパー。

 その後もなかにしさんは無軌道な兄の借金に苦しめられ、いくらヒット曲を出しても家計は火の車だったそうです。『石狩挽歌』はそんななかにしさんの積年の思いを吐き出した、歌謡曲というジャンルを超えた一種の文学作品であると同時に、過酷な低賃金労働で日本を支えてきた、かつての多くの日本人賛歌でもあるような気がします。

 というわけで『石狩挽歌』の世界、わたしの拙い説明でも少しはわかっていただけたでしょうか。それにしても男女の愛とか恋とかが一切出てこない歌謡曲(しかも大ヒット曲)って珍しいですよね。改めて、昭和歌謡の奥の深さを実感した私でした。 <第三章へ>