第ニ章:やっぱり本物は違う!

朝から“めで鯛”出会いが…

 旅の2日めは同じ唐津市内ですが、イカ漁で有名な呼子、朝鮮出兵の拠点・名護屋城跡を経て、有田焼の有田町へ。ここで佐賀県は終了。午後から福岡県に戻って柳川へと向かう結構ハードなスケジュールです。昨日とは打って変わって朝から気合十分のワタシ。ちょうど曳山展示場の近くを通って幹線道路へ出る途中のことでした。あれれ? どこからともなく賑やかなお囃子が聞こえてくるじゃ〜ありませんか。

←写真上から唐津くんち曳山の一つ「魚屋町の鯛」(動画)、呼子朝市の様子(動画も)

 前方を見ると、人だかりの中に巨大な赤い尻尾が見えます。あれはもしかして、昨日曳山展示場で見られなかった「魚屋町の鯛」ではないだろ〜か? でも、唐津くんちの本番はまだ先のはず…。ひょっとしてワタシは幻を見ているのだろうか? 何だかよくわからないまま、車を飛び降りて、走って追跡。目の前に次第に近づいてくる鯛の尻尾。よく見るとヒレが動いてる。あっ、初めて見るけどこれは間違いない。本物の「魚屋町の鯛」だ! 

 この日、なぜ曳山が登場していたのか、何かのイベントだったのか、後でネットなんかで調べても良くわからなかったのですが、別に頼んだわけでもないので、ワタシのために動かしてくれたのではないようです。とはいえ、実際に曳山を引く様子を生で見られるなんて超ラッキー! 掛け声も威勢がよくて朝からテンション上がりっぱなし。

 ちなみに、この鯛は1845(弘化2)年の作。弘化2年というのはペリー来航の8年前。天保の改革がうまくいかずに失脚した老中・水野忠邦が復活後再び解任されたり、江戸で大火が起きて高野長英が逃亡した年。要するに、かなり古いってこと。本番でこの鯛が引かれる順番は5番目なのですが、地元ではその順番を覚えるために「10人のインディアン」の替え歌で「赤獅子青獅子浦島太郎、義経鯛山鳳凰丸飛龍、金獅子武田上杉頼光、珠取鯱七宝丸」と歌って覚えるのだそうです。

呼子のイカす!朝市

  突然のラッキーな出会いにすっかりご機嫌なワタシ、唐津市街から車で30分ほどで、次の目的地・呼子の港に到着。こちらは古くから玄界灘の漁業基地になっていて、周辺離島への中継点の役割も担う天然の良港。そして何よりも「イカの町」として知名度は全国区。新鮮で透き通った活き造りを求めて、観光客がひっきりなしに訪れます。

 そして呼子のもうひとつの名物は「朝市」。輪島、勝浦と並ぶ日本三大朝市のひとつで、 朝の7時30分からお昼の12時まで、呼子の商店街に続々と人が集まってきます。お目当てはもちろん、新鮮な海産物。その新鮮さを示すために「朝釣り」なんて書いてあるから、本当かなと思ってのぞいてみたら、疑ったワタシがバカでした。お魚がピクピクと動いてます。こりゃ〜本物だぁ。そんなことに驚いていたら「ウニ食べていきなよ」と魚売りのおばさんがニコニコ顔。「ウニはもうこれが最後ぐらいだね」とおばさん。確かに、ウニって夏が旬ですもんね。

             写真上からサザエのつぼ焼き、鯨組主中尾家屋敷→

 値段の安さに惹かれて頼んだら、おばさんがササッと殻をむいて生ウニを手のひらに乗せてくれます。ワオ、なんてワイルドな食べ方なの! しかもおばさん「あっ、これはちょっと身が少ないね」といって、むいていたウニを捨て、また新しいのをむいてくれます。そんな贅沢な…。それで味はどうかって? 美味しいに決まってるじゃないですか。味付けなんて必要ないですよ。海水の塩味で十分。

 とにかくこの朝市、その場で日本酒でキュッと一杯やりたくなるような海の幸でいっぱい。天日干しされたイカの数も半端じゃありません。他にも自家製のみりん干しやらイカしゅうまいやら、びっくりするほど安い高級魚の数々。そんな中で目に止まったのが「サザエのつぼ焼き」。漁師らしき日焼け顔のおじさんが「うちのサザエはいい餌食べてるからね」と見せてくれたのが大きな根昆布。「この昆布が食べられてすぐなくなっちゃうんだ」

 なるほど、昆布食べてればサザエも天然の昆布出汁で美味しくなるかもね。それではいただきますか。えっ? そんなに安くていいの? 何だか値段の感覚がおかしくなりそう。焼き立ての熱々をお皿に乗せてくれると、おじさん「ウチは醤油とか使わないで出汁を入れてるんだ」。確かに、貝殻ごと一口すすると旨味がじわっと口の中に広がります。しかも、身が甘くて肝の部分に苦味がない! これは初めての経験かも。

 ウニといい、サザエといい、ワタシが今まで食べてきたのは別の食べ物だったんじゃないかと思うほど、新鮮で良質なものは味が違う。そんなことを教えてくれた呼子の朝市。いろいろお土産に持って帰りたいけど、まだ先の日程が…。

 さて、そんな朝市と同じ通り、ほんの目と鼻の先に、呼子の隠れた歴史を偲ばせる建物があります。それが鯨組主中尾家屋敷。江戸中期から明治初頭にかけて、8代にわたり鯨組主として巨万の富を築いた中尾家のお屋敷。全盛期には現在の朝市通り一帯に2300~2500坪の敷地を持っていたとか。文字通り町の“主”ですね。でも、何より驚いたのは呼子はもともとイカの町ではなくて鯨の町だったということ。鯨漁の最盛期、三代目中尾甚六の時代、鯨一頭あたりの収入は、当時の米価で換算して2000万円ほど。勘定場に千両箱が積み上げられていたそうです。まさにこの屋敷は漁師たちの“夢のあと”

壮大なスケールの無駄遣い?

 “夢のあと”と言えば、次に向かった名護屋城址も「兵(つわもの)どもが夢の跡」の句にピッタリの場所。カーナビを見ていると「伊達政宗陣跡」「上杉景勝陣跡」「前田利家陣跡」と次々に戦国オールスターの名前が登場するのに、実際にその場所を見てもそれらしきものは何も見当たらないという不思議な空間。

 豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵の際には20万5570人の兵が朝鮮半島へ渡り、 10万2415人が名護屋に在陣したという壮大なスケール。当然城も大阪城に次ぐ巨大な城で、もともと荒れ果てた土地だったのに、空き地がないほどに整備され、全国各地の大名が集結したことによって、一時は日本経済の中心がこの辺鄙な土地に移ったというウソのようなホントの話。

←写真上から博物館内ロビーから見た名護屋城址、有田町の香蘭社本店、2階の古陶磁陳列館

 大名たちにとっては、ただただ災難というか“はた迷惑”だったとは思いますが、天下人秀吉の、見果てぬ夢を感じることができる施設がこの地にある「名護屋城博物館」。展示されている名護屋城を再現したジオラマを見ると、その“本気度”がわかります。

 結局朝鮮出兵は秀吉の死と共にフェードアウト。用済みになった城は、誰かに再利用されたら危険ということで破却処分になるのですが、歴史的に見れば、壮大なスケールの無駄遣いと言えなくもないですよね。でも、その廃材の一部を流用して建てられたのが前章で紹介した唐津城。タダで?材料を調達したわけですから、ほとんどの大名にとって無駄足だったこの一件で一番得をしたのは寺沢広高かも。

有田焼と伊万里焼の違いって?

 でも、すべてが無駄だったというわけでもないんですよ。朝鮮出兵で得たものもあるんです。それが“初の国産磁器”。鍋島藩の始祖である鍋島直茂が、半島からたくさんの陶工を拉致や亡命という形で連れ帰りました。その陶工たちによって有田の地で磁器が作られたのが日本での磁器製造のはじまりと言われています。それまでの日本には国産陶器はあっても磁器の製造技術はなかったんですね。

 では、陶器と磁器はどう違うのかというと、原料となる土が違うのだそうです。 陶器はカオリンを含まない粘土を低温で焼いて作られるのに対して、磁器は石質(長石、珪石)が主成分の磁土を高温で焼くのだとか。陶器は土なので少し吸水性があって、光を通しませんが、磁器は石なので吸水性がなく、光を通します。何となくわかりました?

 そんな国産磁器の本家・本元である有田町は、名護屋城跡から車で70分ほど。重要伝統的建造物群保存地区に指定されている内山地区に入れば、ほどなく和洋の立派な建物が並ぶ古い町並みが見えてきます。

 ところで、テレビの鑑定団なんか見てると骨董品として「古伊万里」という言葉が良く出てきますよね。有田のすぐ近くにある大川内山(現伊万里市)には、藩直営の鍋島藩窯があって、ここでは献上用として最高級の鍋島焼が作られていたのですが、それ以外の磁器は、ほとんどの生産拠点が有田でした。ただ、江戸時代には有田で焼かれたものが伊万里港から出荷されていたので江戸で「伊万里焼」と呼ばれ、その名称が定着したのだそうです。従って、「古伊万里」というのは江戸時代に焼かれた有田焼で、歴史的にも骨董的にも価値を持つもの。現在「伊万里焼」と呼ばれるのは、明治以降に伊万里で焼かれたもの。なんだかややこしいなぁ。実際は近江牛なんだけど一般的には神戸牛って呼ぶのとちょっと似てるような…。

 話を有田焼に戻しますが、有田焼には、大きくわけて3つの様式があります。まずは「濁手」(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地に鮮やかな赤が特徴の「柿右衛門」様式。献上用の格調高い「鍋島」様式、そして「古伊万里」様式。その古伊万里様式にもいろいろあって、シンプルで清楚な「初期伊万里」、海外向けの華やかな「輸出伊万里」、シックで落ち着いた「国内伊万里」などがあるそうです。

 一時は他では真似のできない華やかな色絵の技術で日本の磁器市場を独占していた有田ですが、文政11(1828)年の“有田千軒の大火”で大打撃を蒙り、江戸後期から幕末にかけて、門外不出の技術が漏洩したこともあって、愛知の瀬戸焼や岐阜の美濃焼に市場を奪われていきます。しかしその後、明治新政府の殖産興業の一環として見直され、主要な輸出品のひとつとなって有田焼は復興したのです。

 その有田焼復興の要となり、世界各地の万博で名を馳せたメーカーのひとつがデパートの食器売場でもおなじみの香蘭社。創業者の八代目深川栄左衛門は、日本で初めて磁器製絶縁がいし(電柱や鉄塔に欠かせないもの)を製造した人でもあります。今回はこの香蘭社本店にお邪魔しました。

写真上から有田ギャラリー入り口に置かれた有田焼風ミニ、同店でいただける「有田名物ごどうふ定食」→

 本店は瀟洒な白い洋館。1階がショールーム、2階が古陶磁陳列館になっていて、特に2階はまるで美術館。焼き物に全然詳しくないワタシでも思わずため息が出るような名品がずらり。いくら自社製品とは言え、これだけの逸品、全部でいくらぐらいの価値があるんだろ。大きな地震が来たらどうするんだろうなんて余計な心配をしちゃうほど。近くには兄弟会社の深川製磁本店や、酒井田柿右衛門、今泉今右衛門など、有田焼の歴史そのものといった窯元・美術館もたくさんあって、焼き物好き、有田焼ファンならきっと一日中眺めていても飽きないでしょうね。

目にも舌にも美味しい!

 それにしても、ふだん慣れていないせいか、美しいものばかり見ているとどっと疲れます。ついでにお腹も空いてきたので地元の人気カフェ「ギャラリー有田」さんへ。このお店、入り口にある有田焼風の絵付け?が施されたミニと、アーチ上の大きな壺が目印。そして何より、ガラス窓を含めて壁一面に飾られた、ひとつひとつが個性的な有田焼のカップ、そこから好きなものを選んでコーヒーやお茶をいただけるというサービスが素敵。

 ランチタイムには「ごとうふ」という、もちっとした独特の食感が楽しい有田の郷土料理がいただけます。迷わず「有田名物ごどうふ定食」をオーダー。運ばれてきたお膳にはいろんなお惣菜が少しづつ。これって女子には嬉しいんですよね。それにも増して食器の色鮮やかなこと! さすが磁器の本家。まさに目にも舌にも美味しい料理です。もちろん、マイ・カップも選びましたよ、食後のコーヒータイムに。

 そんなわけで、朝から駆け足で巡った佐賀の名所、呼子・名護屋城・有田。次の予定は有田から車で約90分、“白秋の故郷”福岡県柳川市へ。翌日はかなりの雨が降るという予報だったので、撮影のチャンスは今日まで。日の暮れないうちに急がないと…。<第三章へ>