第一章:花と散った志士たち・高瀬川

 季節ごとにテーマを決め、ゆったりしたスケジュールで古都を歩く。日本の原風景を求めて…。そんな旅こそ“アラカン世代”にふさわしいのではないだろうか。記念すべき第10回目は、本コーナー3人目の宝塚OG、華月由舞さんが案内する春爛漫の京都。

行く春を惜しみつつ…

 アラカン読者の皆様、はじめまして。華月由舞(はなづき・ゆま)です。宝塚では89期生。所属は花組でした。2011年に退団してから、歌に、踊りに、お芝居に、自分の可能性を広げようと日々精進しております。そんな折にいただいた「古都逍遥」のレポーター役。編集長のお話では、少なくとも1年間は全国を飛び回って役に立つ情報を仕入れてこい! との事。皆さんの期待を裏切らないように頑張りますので、応援してくださいね。

 今回いただいたテーマは「春うらら 京の水辺」。具体的には桜のきれいな京都の水辺、特に京都人の心のオアシスになっているという2つの運河について取材するようにとのお話でした。日程は4月の6日から8日まで。例年なら「お花見には最高の時期」だったはずなのですが、今年は3月下旬から暖かい日が続いたせいで桜が一気に開花、4月の1日頃には見頃を迎えてしまいました。しかも天気予報では3日間とも雨。初めての取材なのについてないなぁ…。

←写真上から半木の道を彩る枝垂れ桜とその北側に続く桜並木。観光名所というより、京都市民の憩いの場所

 さて、取材初日。京都駅に着いたら、今にも泣き出しそうなお天気。しかも、真冬のような寒さ。ここで凹んではいけないと気を取り直して、まずはホテルに荷物を預けてフロントで桜の開花状況について聞いてみることに。すると、市街地や観光名所はほぼ散り始めているとの事。あ〜、やっぱり…。東京を出る時もほとんど散っていたからなぁ。

 でも、桜の神様は私を見放してはいませんでした。今ちょうど見頃の場所があるという情報が。聞いてみると、「半木(なからぎ)の道」という、賀茂川の北大路橋と北山大橋の間(東側)にある散策路だとか。賀茂川沿いって言ったら、今回のテーマ「京の水辺」にぴったりじゃないですか♪ 一応見頃だとは聞いたけど、このお天気じゃいつ散ってしまうかわからないから、とにかく急がなきゃ。

 半木の道は、北側から行くなら地下鉄北山駅から徒歩10分、市バスなら北山橋東詰から2分。京都府立植物園が見えたら、ちょうどその裏側にあります。寒いせいもあって、私はちょっと急ぎ足。前のめりになって北山橋のたもとまで来ると、目の前にパーっと鮮やかなピンク色が…。

 あ〜、良かった。ホントに満開。夢見るように可憐な枝垂れ桜のトンネルが、遥か先まで続いています。季節外れの寒さに凍える私を優しく迎えてくれたみたい。思わず桜の枝に「ありがとう」って言葉をかけたら、ちょっと風が吹いて、枝が柔らかく揺れました。まるで「どういたしまして」って返事をするように…。

 北山橋の北側にも美しい桜並木が続いています。残念ながらかなり散ってはいましたが、時折舞い落ちる桜吹雪も凄く綺麗。桜って、一年に一度だけ、この上なく美しく咲くのに、何の未練も残さずあっという間に散ってしまう。そういう感覚を昔から「春の名残」って言うんですよね。

あの名作は実話だった…

 そんな“名残”を残したまま、次のテーマである京の2つの運河、その1つ目に向かいます。場所は京都市役所の東側、二条通と御池通の中間にある「一之船入」。そう、ここが高瀬川の起点となる最初の船入(荷揚げや荷降ろしをする船の接岸場所)です。

 高瀬川は、江戸時代初期に、京都の豪商だった角倉了以(すみのくら・りょうい)・素庵(そあん)父子によって開削された運河です。1611年から1920年まで、約300年もの間、京都の中心部と伏見を結ぶ物流の要として使われていたそうです。角倉父子については、4月中に姉妹サイトの「大江戸四方山話」で取り上げるそうなので、詳しいことはそちらで読んで下さいね。

 高瀬川の水は、東側の鴨川と平行して流れる「みそそぎ川」から取水、旧角倉別邸(現がんこ高瀬川二条苑)のお庭から木屋町通の下を通って流れこんでいます。一之船入には観光用に、当時使われた高瀬舟が再現されています。ところで、高瀬舟ってどこかで聞いたことありませんか? そう、教科書にも載っている有名な森鴎外の小説ですよね。

写真上から高瀬川一之船入、角倉邸跡を示す石碑、料理旅館「幾松」、佐久間象山・大村益次郎遭難碑→

 どんなお話か忘れてしまった方は改めて青空文庫<こちらをクリック>で読んでみてくださいね。私は宝塚時代に同じ鴎外作品の『舞姫』に出演した際に読み返したのですが、「安楽死」とか「知足(足るを知る)」といった、むしろ私たち現代人にとって身近なテーマが隠されていて、その先見性に驚いた記憶があります。

 このエピソード、てっきり鴎外のオリジナルだと思っていたのですが、実は江戸時代中期に京都の与力だった神沢杜口(かんざわ・とこう)という人が書き残した『翁草』という200巻に及ぶ膨大なエッセイ集に載っていた話で、与力在任中に部下の同心から直接聞いた話、つまり実話なのだそうです。

 その高瀬舟が往来していた高瀬川の周辺ですが、今から150年ほど前の幕末期には多くの藩邸や維新の志士たちの住まいがありました。例えば一之船入の西側にあったのが、かつての長州藩邸(現ホテルオークラ・木戸孝允の像があります)。斜向かいには長州藩控屋敷があって、木戸孝允の桂小五郎時代の恋人で、後に妻となった藝妓・幾松(木戸松子)がここで晩年を過ごしたため、現在では料理旅館「幾松」となっています。ここには今でも、不意の襲撃に備えた抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井といったさまざまな仕掛けが残されていて、希望すれば見学もできるそうですよ。

事件はすべて近くで起こった

 「幾松」の真向かいにあるのが、この付近で佐久間象山と大村益次郎が襲撃されたことを示す遭難碑。その象山の屋敷跡は、御池通を少し南に下った木屋町通り沿いで、武市瑞山(半平太)や吉村寅次郎もすぐ近くに住んでいました。そしてここから少し南、三条通に出てすぐの西側に「はなの舞」という居酒屋があるのですが、ここがあの新選組で有名な池田屋の跡です。

 池田屋のシーンは映画やテレビで何度も見ましたが、その場所が実際にはこんな繁華街の真ん中にあって、しかも今は居酒屋になっているなんて…。それまで抱いていたイメージとのあまりのギャップに、私は不謹慎とは思いつつ笑ってしまいました。だって、長州藩の屋敷から歩いて5分もかからないところですよ。そんな場所で秘密の会議なんかやって、見つからないっていう自信があったのかなぁ? でも、何かあったら藩邸に逃げ込めるっていう理由もあったかもしれませんよね。

 三条通から一本南の路地には、2階に坂本龍馬が潜伏していた材木商「酢屋」が現在も営業中です(店のお母さんが木を使った商品について優しくいろいろと教えて下さいました)。いくら便利な場所だからといって、京都奉行所や新選組が目を光らせているはずの地域にアジトを構えるんだから、龍馬もなかなか大胆ですよね。龍馬はこの2階から高瀬川の船入に向けて射撃練習をしていたんだとか。そんなことしたらかえって見つかりそうな気もしますが…。

←写真上から池田屋跡の石碑、龍馬が潜伏した「酢屋」、木屋町通にひっそりと佇む瑞泉寺、一之船入近くで見つけた筆の看板

 龍馬が本拠地である伏見に帰る際には、夕刻から夜間に運航する高瀬舟の下りを利用したそうです。確かにそれなら人目にもつかないし、歩くよりずっと早く帰れますよね。その龍馬の古巣である土佐藩邸は木屋町通のちょうど三条と四条の中間あたり。そこからほんのすこし南東の河原町通沿いにあったのが、龍馬が暗殺された近江屋です。今はコンビニの脇に石碑と説明板が建っているだけなので、ちょっとわかりにくいかも。

 近江屋跡から四条通りに出る手前、河原町通の少し東側には龍馬とともに散った中岡慎太郎の寓居跡、一本南側の通りには池田屋事件の際に新選組・土方歳三の激しい拷問を受けた後、非業の死を遂げた古高俊太郎の寓居跡があります。

 というわけで、一之船入に始まり、高瀬川沿いを北から南へテクテクと歩いてきたわけですが、徒歩30分程度の圏内にたくさんの血生臭い事件現場や、そこで散っていった志士たちの生活の痕跡があるのには本当に驚かされます。私たちが暮らす今の平和な日本は、大勢の人たちの尊い命の上に成り立っているんですね。そんな気高い魂を弔うように、高瀬川沿いには美しい桜が咲き誇っています。

何気ないトコロに歴史あり

 余談ではありますが、木屋町通と三条通の交差点、三条小橋のすぐそばに小さなお寺があります。繁華街の中心部にありながら、誰もが通りすぎてしまいそうな目立たない、とても静かな空間なのですが、ここに秀吉によって自害させられた悲劇の関白・豊臣秀次の一族郎党が眠っています。実子に恵まれなかった秀吉は当初、甥である秀次に関白の座を譲ったのですが、秀頼の誕生によって秀次が疎ましくなり、冤罪を着せて自害に追い込んだというのが一般的な説。でも、真相はいまだによくわかっていないそうです。

 三条河原で処刑された幼い若君4人と姫君、側室、侍女、乳母ら39名の遺体はひとつの穴に投げ込まれ、長い間放置されていたそうです。その痕跡を、後に河川改修工事の際に角倉了以が発見、供養のために建てたのがこの瑞泉寺でした。京都って、こういう何気ない場所にも重い歴史がありますよね。

 そしてもうひとつ、一之船入を少し北に歩いて、二条通を左に曲がったところで、素敵な看板を見つけました。看板と言っても平面の板ではないんですよ。店先に下がっているのは大きな筆。そう、ここは筆や書道用品を扱うお店なんですね。江戸時代には履物屋さんに大きな下駄が下がっていたり、お茶屋さんには茶壺の看板があったり、こうしたわかりやすい屋外広告があちこちで普通に見られたそうです。そう言えば、三条通の、例のかに道楽の動く看板の前で外国人の観光客がしきりにシャッターを切っていました。もしかしたらあの看板も、その“遺伝子”なのかもしれませんね (^^ゞ
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