第ニ章:実現した楽百年之夢・琵琶湖疏水

京都人長年の「宿願」

 「京の水辺」2つ目の運河は、琵琶湖疏水。先日テレビの『ブラタモリ・京都編』でも取り上げていましたから、ご覧になった方も多いかも。山を挟んで京都のすぐ隣にある巨大な水瓶・琵琶湖。ここから水を引けたらどんなに便利だろう。古くは平清盛、豊臣秀吉もそう考えたそうです。江戸時代には高瀬川を開削した角倉了以も壮大な工事計画を立てています。水を引くには山にトンネルを掘ればいい。ただそれだけのことなんだけど、莫大な費用がかかる上に岩盤が硬いので難工事は必至。結局、誰も踏み出せなかったそうです。

 明治維新によって首都は東京に移りました。“空き家”になった京都からは、商人も役人も御所の関係者もみんな東京に移って行きました。残ったのは、戊辰戦争ですっかり荒らされた京の町と、仕事を失った貧しい人たちばかり。そんな京都を蘇らせるには、近代産業を振興させるしかない。そのためには動力源が必要だ。そうだ、今こそ琵琶湖から水を引いて水車工場を作るべきだ。他にも飲料水から灌漑用水、防火用水、工業用水と、用途はいくらでもあるし、日本海〜琵琶湖〜京都という舟運のルートも確保できる。

 そう考えたのが3代目京都府知事・北垣国道でした。ところが、当初は反対の嵐。隣の滋賀県では断固、琵琶湖の水は渡さないというし、大阪では、今は山がダム代わりになっているのに、そのダムがなくなったら大阪は水没すると主張。市民もまた税金が増えるのかと戦々恐々。しかし、周囲を地道に説得しながら北垣は疎水の実現に着手しました。しかも、その大計画の中心に若干23歳の若者を抜擢したのです…。

観光地になった水路閣

 というわけで、南禅寺にやって来ました。もちろんお花見のためじゃありませんよ。琵琶湖の水はトンネルを通って、ここ蹴上から京都市内に流れてきているんです。そしてこの南禅寺境内にあるのが、全国から観光客が見物にくる人気スポット・水路閣です。長さ93.18m、幅4.06mのレンガ造り。上に登ると、今でも琵琶湖から引かれた水がここに流れているのがわかります。

 琵琶湖(高い)と京都市内(低い)の高低差を活かして、そのまま南から北に水を流す(京都の川は疎水以外すべて北から南に流れています)ために作られた水道橋なのですが、これを建てるときも「西洋かぶれ」と罵った福沢諭吉を始めとして、「お寺の景観を汚す」ということでたいへんな抵抗があったそうです。でも、いざ完成すると、ひと目見ようと大勢の見物客で賑わったとか。

写真上から南禅寺の桜と水路閣、水路閣を上から眺めたところ。今でもちゃんと水が流れています→

 この水路閣を含む壮大な計画を立案し、実際の指揮を執ったのが工部大学校(現・東京大学)を卒業したばかりの田邉朔郎。彼が卒論として書いた「琵琶湖疏水工事計画」が北垣の友人でもあった、工部大学校校長・大鳥圭介の目に止まったことから、北垣と田邉は知遇を得ます。親子ほども歳の違う2人でしたが、すぐに意気投合、社会人経験ゼロの田邊でしたが、卒業と同時に世界でも有数の大工事を任されることになったのです。いくら優秀だからといって新入社員に今のお金で1兆円ものプロジェクトを任せるなんて、今だったら絶対にありえませんよね。そう考えると、20代〜30代の若者が社会の中心にいた明治時代ってプレッシャーも凄かったとは思うけど、ある意味羨ましい時代ですよね。

 工事は一切海外の技術を頼らず、ダイナマイトやコンクリート以外は国産の材料のみで進められました。水路閣だけでなく、長いトンネルの内壁を固めるためには1400万枚という大量のレンガが必要だったのですが、当時の日本にレンガ工場はなく、その工場建設から始めなければならなかったそうです。疎水には船が航行できる第1と、全線トンネルを通る水道と動力用の第2、そして灌漑・防水用の疎水分線の3本があるのですが、最大の難関が第1疎水の第1トンネルだったそうです。長等山を貫通させる2.4キロの大工事が終わるまでに400〜600万人の人手と、4年4ヶ月もの歳月を必要としました。この間、5人の尊い命が失われています。

←写真上から桜の名所にもなっているインクラインの坂、復元された台車と船、インクラインから望む蹴上浄水場(ツツジの名所としても有名)、田邊朔郎の像(左手に見えるのが蹴上発電所取水口の水門)

 また、当初は水車による動力を想定していたのですが、アメリカの最新技術を研究していた田邊は、当時はまだ未知の領域だった電気を動力源として使うことを思いつきます。早速建設中だったアメリカの水力発電所を視察、最新技術をそのまま日本に持ち帰りました。こうしてできたのが日本初の水力発電所、蹴上発電所です。そのおかげで京都〜伏見間に日本最初の路面電車が走るなど、京都はいっぺんに近代化の足場を得ることになるのです。

その落差をどうする?

 トンネルも無事開通して、これですべての問題が解決したように見えましたが、まだ大きな課題が残されていました。琵琶湖から蹴上まで三十石クラスの船が通るルートは確保できたのですが、その先にある南禅寺の船溜まりまでは35mもの高低差があります。そのまま船が進もうとすれば巨大なスプラッシュマウンテンみたいになって、物を運ぶどころではなくなってしまいます。さて、これをどう解決するか?

 その答えを見つけるには、南禅寺の境内を出て、とある桜の名所に行く必要があります。そこには小高い丘とゆるやかな坂があり、坂には2本のレールが敷かれています。そして内外から大勢の観光客が訪れるこの場所が、かつて問題を解決するための何かがあったことを匂わせています。

 若き天才技術者が考えた秘策。それが「インクライン」でした。トンネルの出口で船を水中から台車に掬い上げて、いったんレール上にロープで引き上げます。そして船を載せた台車がレール上を下の船溜まりまでゆるやかに下降、そのまま着水します。これを往復で行うことで船が荷物を積んだままスムーズに琵琶湖側と京都側を行き来できるわけです。しかも、この動力は水力発電の電力で賄われました。

 「京都の桜の名所」とでもガイドブックに書かれているのでしょうか、インクラインは中国からの観光客で大賑わい。桜並木の向こうには浄水場と蹴上発電所の赤いレンガ壁が…。そして、丘の上にある小高い公園を登っていくと、第2疎水から流れ落ちる水音と共に、発電用の2本の大きな鉄管と水門が見えてきます。昔の人はどんな気持ちでこんな設備を造ったんでしょうね。欧米の連中になんか負けるものかっていう当時の若者たちの声が聞こえてくるような…。

 そこからふと目をやると、若き日の田邊朔郎の銅像がひっそりと立っていました。そうか、さっきの声はここから聞こえてきたのね。中国の人たちの嬌声と聞き間違えたのかもしれないけど (^_^;)

まだまだ続く「100年の夢」

写真上から名庭の誉高い無鄰菴の庭園、見学のついでに抹茶がいただける座敷(別料金)、今年から始まった疎水の桜を楽しむ観光船、北垣知事の落款が残るインクライン下の隧道、毎年大勢の花見客で賑わう哲学の道下流付近→

 南禅寺の船溜まりから道路を隔てた三角形の土地に、明治の元勲・山縣有朋の別荘「無鄰菴」があります。歴史好きな方には、日露戦争開戦前の「無鄰菴会議」でも有名ですよね。疎水が引かれてから、南禅寺界隈にはその水を使ったお庭と別荘がたくさん作られました。無鄰菴にも七代目小川治兵衛作の美しい名庭があります。こちらでは庭が見渡せる座敷でお抹茶とお菓子をいただくこともできます。普段はコーヒー党の私、濃茶を久しぶりにいただいたけど、寒かったせいもあって美味しかったなぁ。

 ちなみにかつて「第二無鄰菴」として使われていたのが、前にご紹介した角倉了以の別邸(現・がんこ高瀬川二条苑)。なんだか不思議な縁を感じますよね。

 その「無鄰菴」を出て、蹴上駅に向かう途中、船溜まりの方を見たら、観光船を待つ行列が…。この船、この春から始まった京都の新たな観光名物「岡崎十石舟巡り」なんだそうです。船から疎水(鴨東運河)の桜を眺めるなんて、なかなか洒落てますよね。今日に限って言えば、風情があるという以前に、かなり寒そうですけど…。

 そこから蹴上の駅に向かう途中、インクラインの下を通ると、レンガ造りの隧道・通称「ねじりまんぽ」があります。そこに北垣知事の落款が残されているのですが、こんな風に記されています。「楽百年之夢」。百年の夢を楽しむという意味ですよね。北垣知事の疎水事業にかけた溢れんばかりの思いが伝わってきます。

 そんなわけで、今回の京の水辺を巡る小さな旅のラストは桜吹雪の舞い散る「哲学の道」。この道沿いの流れは、疎水分線の中間地点にあたります。予想通り全国(全世界?)から集まった花見客でごった返していましたが、第1疎水完成からすでに125年。100年をとうに過ぎても、疎水は京都の重要な水源であり、風情ある日々の散歩道でもあります。そして、毎年春になると桜の名所、初夏には青葉の名所、秋には紅葉の名所としても今なお人々に夢と安らぎを与え続けているんですね。
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