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季節ごとにテーマを決め、ゆったりしたスケジュールで古都を歩く。日本の原風景を求めて…。そんな旅こそ“アラカン世代”にふさわしいのではないだろうか。第12回目は、もうお馴染みの宝塚OG、華月由舞さんが案内する夏本番の函館・松前。
お元気でしたか? 華月由舞(はなづき・ゆま)です。ジメジメした雨の日が続いたと思ったら、いきなり炎天下の猛暑が続いて、健康自慢の私でも体調を崩しそうな今年の夏。その点、今回お邪魔した北海道の夏はいいですよね。何しろ台風は滅多に来ないし、鬱陶しい梅雨もないんですから(実際には「蝦夷梅雨」というのが短期間あるにはあるらしいのですが…)。
前回「5月って、もっとさわやかなイメージだったんだけどなぁ…」なんてぼやいてましたけど、今回の取材でカラッと爽快な初夏の気分を満喫してきましたよ。行ったのは7月初旬なんですけどね。少しだけ過去へタイムトリップしたような気分。北海道の場合、春夏は季節が少しノンビリと、秋冬は少し急ぎ足で訪れるんですね。
実は、今回の函館取材も編集長からの指令。「こないだ北海道が長引く不景気で大変だっていうのをテレビで見てさぁ、特に函館が深刻らしいんだよ。函館と言えば、幕末にワタシのルーツである会津藩同様、幕臣たちが最後まで闘って、一度は独立国まで宣言した場所だ。その函館が困っている時に何もしないというのは、武士の名折れじゃないか。キミだって日本人である以上無関係とは言えないだろ。是非、函館に行って観光やグルメをガンガンPRして大いに盛り上げてくれ!」
編集長がいつから武士になったのか、私と函館にどういう関係があるのかは疑問でしたが、迫力に押されてついつい「わかりました」と言ってしまいました。実は「Live Airline」という舞台で先月北海道に行ったばかりだったのですが、函館に関しては音楽学校本科生時代の修学旅行で一度行ったきり。かねがねもう一度行ってみたいとは思っていたので、グッドタイミング。それより何より、北海道には私の大好物「サッポロクラシック(北海道限定の生ビール)」があるじゃないか! これはもう無理矢理スケジュールを空けても行くしかありません。
で、例によって例のごとく一夜漬けで函館の歴史についてお勉強。編集長が言っていたのは「箱館戦争」のことみたい。東京生まれ・東京育ち・青春宝塚の私には縁もゆかりもないなって思っていたら、榎本武揚を始めとする旧幕臣のほとんどは江戸生まれだし、函館で戦死した元新選組副長の土方歳三も日野市の出身と、実は東京の人ばかりだったんですね。飛行機も新幹線も十分な暖房機器も無い時代に(榎本の五稜郭入城は慶応4年11月)函館まで、しかも戦争を続けながら渡るって、言葉にならない苦労がたくさんあったでしょうね。
そんなことに思いを馳せながら10時25分羽田発のANA便で函館空港へ。空港からはレンタカーで約20分で五稜郭に到着。五稜郭が初の西洋式城郭で(佐久市の龍岡城も同時期に築城された“五稜郭”です)全体像が星形の五角形だとは聞いていましたが、普通に外側を歩いて見ても大きな公園にしか見えないので、五稜郭タワーに登って上から見てみることにしました。
←写真上から五稜郭全景、展望台にある土方歳三のブロンズ像、1階アトリウムの同ブロンズ像、復元された箱館奉行所
1階でチケットを買って最上階の展望台へ。実はこのタワー、2006年に完成した“二代目”で、塔の部分の断面は星形になっていて、展望台も五角形なんですよ。エレベーターのドアが開くと、函館の風景が全面に広がり、五稜郭の“緑の五芒星”がはっきりと確認できます。最初の印象は、想像以上に大きくて綺麗。
五角形の城郭というのは火器に対して死角のない、最も攻守に適した形なのだとか。そう言えばアメリカ国防総省の本庁舎、ペンタゴンも五角形ですよね。日本でも“五芒星”って、舞風さんの京都編でもチラッと触れていましたけど、安倍晴明が活躍した平安時代から特殊なパワーを持つ紋章として使われてきた図形なんですよね。だから、西洋的な合理性以外に、どこか東洋的な神秘性も感じます。
安政元年、日米和親条約の締結で箱館(函館)が開港されると、松前藩の領地だった箱館は幕府の直轄領になって箱館奉行所が置かれます。この奉行所を囲むように、欧米列強に対する「北の備え」として造られたのが五稜郭。しかし、完成から2年で幕府が消滅し、一時は明治政府によって箱館府が置かれていましたが、ほどなく戊辰戦争で流れてきた旧幕府軍の占領下に置かれ、旧幕府軍が敗れた箱館戦争の後は陸軍練兵場に。大正時代には公園として整備され、平成13年には、箱館奉行所の建物も再現されています。
…と、ここまではいつもの“受け売り”ですが、今回私が最も興味を惹かれたのが函館で散った2人の“美剣士”のこと。一人は、皆さんご存知の新選組「鬼の副長」土方歳三。五稜郭タワー展望台にある土方のブロンズ像は全国新選組ファンの“聖地”。旧タワー跡地にできたガラス張りの1階アトリウムにもブロンズ像があります。
新選組は宝塚でも『星影の人』や『誠の群像』といった作品で取り上げられているので、結構私的には馴染みが深いんですが、土方は歴史好きじゃない方でもご存知の人物ですし、私など足元にも及ばない熱烈なファンの方がたくさんいらっしゃるので、詳しい話は省略します。
五稜郭に集まった男たちの臨時政府がいわゆる「蝦夷共和国」。閣僚は日本初の選挙で選ばれました。そして、その閣僚で戦死したのは土方だけだったそうです。本来なら明治政府の中心にいるはずだった若者たちの命を奪ったのが新選組。長州藩の恨みは、凄まじいものがあったはず。だから仮に土方が戦場で生き残っても、その後生きていた確率は少なかったでしょうし、たぶん本人も自覚していたでしょうね。銃弾に倒れた一本木関門跡地の近く(若松緑地公園)に、土方歳三最期の地碑があります。享年35歳。
そしてもう一人の“美剣士”ですが、土方ほど有名ではありませんが、知る人ぞ知る悲劇のヒーロー・伊庭八郎です。幕末江戸四大道場のひとつ、練武館の心形刀流宗家・伊庭秀業の長男として生まれ、子供の頃は武芸よりも学問に興味があったそうですが、剣の道を志すと非凡な技量を見せ、20歳で将軍の親衛隊である奥詰に抜擢され、講武方の教授まで務めたという若き天才剣士。
将軍家茂の死後、奥詰が遊撃隊に改編されると、伊庭は戊辰戦争で鳥羽・伏見、木更津、甲府、沼津などを転戦。目覚ましい活躍を見せますが、彰義隊を援護しようと箱根の関所で新政府軍を迎え撃つ中、小田原藩兵との戦闘中にかろうじて皮一枚残した状態で左手首を斬られます。普通の人ならここで諦めるのでしょうが、伊庭は何と自分で腕を斬り落とし、片腕のまま箱館に向かいます。
写真上から松前城、皮革をふんだんに使った藩主の甲冑、天守、城内の紫陽花→
この頃、先に箱館に到着していた土方は五稜郭を奪取後、蝦夷地最大の要所・松前に進撃して松前城(福山城)を陥落させます。破竹の勢いで次の要所・江差も占領するのですが、この時に援軍として江差港に入ろうとした軍艦「開陽丸」が暴風雨で沈没。ここで海防の要を失ったことが、その後の新政府軍・箱館総攻撃を許すことになります。
土方が奪取した松前の守備を任されたのが“隻腕の美剣士”遊撃隊隊長・伊庭八郎でした。伊庭は右腕一本で奮戦しますが、新政府軍の圧倒的な近代戦力には力及ばす、松前と箱館の中間地点に当たる木古内で銃弾を受け、瀕死の重傷のまま五稜郭に入ります。そして開城の前夜、榎本武揚の差し出したモルヒネを飲み干して自害。享年26歳。
伊庭は最期まで「痛い」とは一言も言わず、片腕を失っても徹底抗戦を主張して弱音など一切吐かなかったそうです。この時代の日本人って凄いですよね。意志の強さとか、誇りとか、覚悟とか…。
国も時代も違うけどナチス・ドイツ末期のヒトラー暗殺計画、ワルキューレ作戦の実行者・シュタウフェンベルク大佐も戦場で右手首から先と左目を失った上に、残った左手も薬指と小指がなかったそうですが、貴族出身で大変な美男子だった(映画でトム・クルーズが演じています)とか。美しさ・気高さと裏腹の残酷な傷跡が、ある種の悲壮感を伴って、独特のカリスマ性を生むのかもしれませんね。
“悲劇の美剣士”土方と伊庭は江戸にいた頃から交流があったとも言われていますが、定かではありません。ただ、箱館戦争で別々に闘っていた2人が高い確率で邂逅したと考えられる場所は五稜郭と松前城。今回は旅の2日目にその松前城を訪ねてみました。函館から車で2時間30分! あ〜、北海道は広い。
この日は残念ながら泣き出しそうなお天気。ソーラン街道から見る北の海も、夏なのにどこか寂しい冬景色。それでも何とか雨には降られず、松前に到着。期待通りの、のどかな港町です。さて、松前城を築城した松前藩というのは、「鎖国」が基本の江戸時代あって、唯一アイヌとの交易が許された藩です。加えてニシン漁が盛んになると、松前、江差、箱館を中心に、北前船の船主である上方商人との取引で繁栄を謳歌していきます。
この背後には、当時の北海道で米が育たなかったため、例外として交易による利益を石高とする代わりに、幕府から北方の脅威(ロシア)への初期対応を委任されていたという事情があります。同じように薩摩藩も、南の備えへの代償として、琉球を介した交易を幕府に黙認されていたという説があります。
ところが、江戸後期に松前藩はロシア人の来航を度々無視したり隠したりしたので、幾度か幕府に領地を取り上げられています。そんなわけで、貿易黒字で裕福だった時代と、転封で貧しくなった時代があり、再建された松前城天守内部の資料館では、松前藩が豊かだった頃の片鱗を見ることができます。また、藩主の息子で家老でもあった蠣崎波響(かきざき はきょう)が描いた見事なアイヌの肖像画もあったりして、眺めていると結構飽きませんよ。
城の周囲は広々とした海の見える公園になっていて、東京では満開の紫陽花も、こちらではまだ咲き始めでした。この公園が最も美しく色づくのは桜の季節で、北海道でも有数の名所なんだそうです。咲いたら綺麗なんだろうなぁなんて想像していたらポツリポツリと雨音が…。
そんなわけで松前取材はこの時点で断念。あ〜、もっといろいろ見たかったのに…。時間があったらさらに車を飛ばして江差まで行こうとも思っていたのですが、天気が回復する見込みもなく、泣く泣く函館に引き返すことにしました。
ところで、タイトルの“散った夢”はわかったけど、“咲いた夢”は無いの?って思った方、なかなかスルドイですね。もちろんありますよ。函館に「咲いた」男の夢。幕末の豪商・高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ)です。「咲いた」っていうより、函館という街を「咲かせた」人と言った方がいいかも。ベイエリアには「高田屋嘉兵衛資料館」もあるんですよ。
この人についてごくごく簡単に紹介すると、淡路島の生まれで、一介の船頭から頭角を表し、やがて船主となって蝦夷地に進出、未開の寒村だった箱館(函館)に拠点を置いて、北の物産と上方の日用品を行き来させ、さらにはたくさんの漁場を開拓して財を為した立志伝中の人です。
←写真上から高田屋嘉兵衛像と函館山、茶房ひし伊、同店内
船頭としての勘と腕を買われ、近藤重蔵の依頼で国後島と択捉島間の航路を開拓したことが認められると、蝦夷地産物売捌方という特権を得て、苗字帯刀も許されます。しかし、そんな人生の絶頂期に、嘉兵衛は蝦夷地に上陸していたロシアの軍艦ディアナ号の船長・ゴローニンが松前で幽閉された事件が原因で、交換用の人質としてロシア側に海上で拉致されてしまいます…。
その後の波瀾万丈な物語は姉妹サイトの「大江戸四方山話」(今月中に公開)で読んでいただくとして、高田屋嘉兵衛が「箱館発展の恩人」と言われるのは、文化6年の大火で箱館市街の半分が焼けた時、被災者の救済活動と復興事業をすべて自費で行なったこと。そして翌年には港内を埋め立てて造船所を建設、兵庫から船大工を呼び寄せて箱館を造船基地にしたこと等々、とにかく箱館への貢献度が凄く高いからなんです。
そんな嘉兵衛の像があるのが函館山の麓、高田屋屋敷の跡を通る高田屋通(護国神社坂)。そしてその像のすぐ近くにあるレトロな建物が、『茶房ひし伊』さん。明治38年建造の貴重な質蔵を改装したお店で、中に入ると、向かって左手がカフェ、右手が『古きものなどなど』というアンティークや中古和服のお店になっています。カフェでのコーヒーもとても美味しかったのですが、実は私、着物屋さんの方にハマってしまいました(最近、舞台で着ることが多いので)。いいものが凄くお安いんですよ。掘り出し物多数で、和服好きの方には絶対おすすめ。
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