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季節ごとにテーマを決め、ゆったりしたスケジュールで古都を歩く。日本の原風景を求めて…。そんな旅こそ“アラカン世代”にふさわしいのではないだろうか。第14回目は、宝塚元トップスターによるミュージカル『CHICAGO』出演が決まり、7月からの公演に向け、意気込みも新たな華月由舞さんが案内する春の京都・滋賀。
前回から約半年ぶりのご無沙汰です。華月由舞(はなづき・ゆま)です。個人的な話で恐縮ですが、昨年の梅田芸術劇場10週年記念公演『Super Gift!』に引き続き、今年も宝塚OGによるミュージカル『CHICAGO』に出演させていただくことになりました。7月9日の横浜・KAAT 神奈川芸術劇場を皮切りに、8月31日の大阪・梅田芸術劇場メインホールでの千秋楽まで約2ヶ月間、今回はなんとニューヨーク公演(デビッド・H・コーク・シアター)もあるんですよ(詳しくはコチラ)。がんばらねば!
さて、今回の「古都逍遥」ですが、大阪の日本基督教団浪花教会や神戸の旧居留地38番館など、前回京都・大阪・神戸のレトロビルをご紹介した際に、設計者を調べると必ず名前の挙がる外国人がいるということで、その外国人について改めて取材してみようということになりました。そんなわけで、今回の第一章〜第二章はレトロビルの番外編。
←写真上から『CHICAGO』ポスター、本満寺の早咲き枝垂れ桜、相国寺庭園
その外国人とはウィリアム・メレル・ヴォーリズ。1880年、アメリカのカンザス州レブンワース生まれ。プロテスタントの伝道を目的に明治38年(1905)、滋賀県立商業学校の英語科教師として滋賀県八幡(現在の近江八幡市)に赴任、青い目の人気教師として2年間教鞭をとりました。その後、一度は断念していた建築家としての才能を開花させ、明治41年(1908)に京都で後のヴォーリズ建築事務所を開業。
ヴォーリズは旧帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトのように世界的に著名というわけではありませんし、ジョサイア・コンドルのように政府から招かれた建築学の権威というわけでもありません。むしろ、学生時代に建築を“かじった”程度のキャリアしかありませんでした。その彼が、明治39年(1906)から大正14年(1925)までの18年間に、国内で確認されているだけで住宅164棟、学校や図書館・寄宿舎118棟、病院6棟、教会・音楽堂・講堂114棟、銀行・社屋・デパートが24棟。生涯に1500件余りという膨大な数の建築物を手がけたのですから、驚くしかありませんね。
ヴォーリズはまた、日本を愛し、近江に根ざした人物でもありました。大正8年(1919)に子爵令嬢一柳満喜子と結婚。太平洋戦争が開戦した昭和16年(1941)には、アメリカ人への風当たりが強い中、敢えて日本に帰化し、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名。故郷に戻ることなく、日本人として83年の生涯を全うしました。
また近江兄弟社を設立して、全国に塗り薬メンソレータムやハモンドオルガンを普及させたことから「青い目の近江商人」と呼ばれたり、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことで「天皇を守ったアメリカ人」と呼ばれた人でもあります。
そんなヴォーリズの生涯と、今でも全国各地、特に近畿地方に残るヴォーリズ建築の一端をご紹介しようということで、まずは創業地である京都にやって来ました。時は春。取材時、まだ桜は満開ではありませんでしたが、昨年の寒さとは大違いのポカポカ陽気。早速、寺町通沿いにある日蓮宗の古刹・本満寺に早咲きの枝垂れ桜があるということでルンルン気分で行ってきました。
桜は予想通り満開で、ちょっと小さめでキュートな花が穏やかな風に揺れながら迎えてくれました。天気といい開花時期といい、今年はスタートからラッキーな予感が…。早咲きで有名な御所の糸桜はすでに散り始めということでパスしましたが、同志社大での取材途中に立ち寄った相国寺では、幽玄な裏方丈庭園と鮮やかな九重桜のコントラストに出会えました。昔の浴室も面白かったし、法堂の天井に描かれた狩野光信筆の“鳴き龍”も素敵でしたよ。
さて、もともと建築家志望で、順調に行けばその夢を実現するはずだったヴォーリズが、それを諦めてまで伝道者としての道を選んだのは、1902年初頭にトロントで開催された「学生伝道隊運動」の全米大会にコロラド州のYMCAから出席したことがきっかけでした。
その大会で聞いた宣教師ハワード・テイラー女史の中国での経験談に強い衝撃を受けたヴォーリズは、自らも海外での伝道に身を捧げようと決め、大学の専攻を建築から哲学に変え、卒業後勤務先のYMCAで、自身の希望で極東の地・日本の、しかも片田舎である近江八幡に派遣されることになりました。
彼らにとっては、赴任地がキリスト教とは無縁の辺境の地であればあるほど意義のあることだったようですが、辺境と言っても当時の日本は大国・ロシアと戦争のまっただ中で、欧米諸国と肩を並べる列強の一員となろうとしていた時期でした。
しかもヴォーリズはその意気込みとは裏腹に、プロの牧師ではない上に、建築家としても正式に教育を受けたり、プロの建築事務所で働いたこともない、一言で言えば情熱だけは熱いけれど、実際は何の専門家でもない、一介のアマチュアだったわけです。その彼がなぜ日本で多岐にわたる事業を展開したり、数多くの建築物を設計するようになったのか、理由はおいおい説明するとして、まずは京都で彼が残した現存する貴重な建築物をご紹介しましょう。
写真上から大丸ヴィラ、京都大学YMCA会館、日本基督教団 京都御幸町教会、駒井卓・静江記念館外観と内観→
上から写真の順番に説明しますね。
① 大丸ヴィラ…昭和7年(1932)、当時大丸の社長であった下村正太郎氏の自宅として建てられたもの。ヨーロッパ文化に造詣の深い下村氏のために、ヴォーリズは16世紀ごろにイギリスで流行したチューダー様式を取り入れたそうです。残念ながら現在非公開。また、ヴォーリズの代表作として、よく大阪の大丸心斎橋店が挙げられますが、もともとは大丸が京都発祥ということもあって、かつては四条通の大丸もヴォーリズの設計でした。昭和39年、平成26年と2度の改修を経て、現在では高倉通側の階段など、わずかに六芒星をモチーフとしたヴォーリズ建築の痕跡を見ることができます。
② 京都大学YMCA会館…大正2年(1913)竣工、ヴォーリズ初期の作品です。ヴォーリズの建築家としてのキャリアは、京都三条通りのYMCA会館で工事監督を任されたことからスタート。その後この京都大学YMCA会館を始め、大阪・神戸・東京のYMCA会館がヴォーリズの手で設計されることになります。すぐ隣には、同時期に建てられたヴォーリズ設計の京都府立医科大学基督教青年会橘井寮(旧京都府立医大学生YMCA橘井寮)もあります。
③ 日本基督教団 京都御幸町教会…こちらも大正2年(1913)の竣工。当初は日本メソヂスト京都中央教会として建造されました。平成10年の耐震工事以外は殆ど手を加えられず、創建当時のまま。現存する教会堂としては最古のものだそうです。
④ 駒井卓・静江記念館…昭和2年(1927)竣工。施主は「日本のダーウィン」とも称され、遺伝学の権威であった京都帝国大学理学部教授・駒井卓博士。白川疏水の河畔に佇むアメリカン・スパニッシュ様式の開放的な建物で、2階からは大文字山や比叡山が一望できるほか、婦人の着物を収納するために和ダンスを壁面にはめこんだり、1階には和室も設けるなど、和洋折衷のさまざまな工夫がこらされています。戦後は一時期米軍に接収され、不便な生活を強いられたようですが、敬虔なクリスチャンであり、コロンビア大学に留学するなど、英語に堪能な駒井博士がいたことで、米軍はとても重宝したそうです。
←写真上から同志社大学啓明館、アーモスト館
⑤ 同志社大学啓明館…同志社大学の今出川キャンパスには、西に致遠館(大正5年)、東に新島遺品庫(昭和17年)、啓明館(大正4年)、アーモスト館(昭和7年)と、計4棟のヴォーリズ作品があります。啓明館は同大学の二代目に当たる図書館で、現在は、人文科学研究所、同志社社史資料センター、施設部が利用しているとのこと。
⑥ 同志社大学アーモスト館…同志社大の創始者・新島襄がアメリカで学んだ母校アーモスト大学との交流のシンボルとして建てられた学生寮です。資金はアーモスト大学の卒業生や、その母親からの寄付によるもの。鉄筋コンクリートの2階建てですが,壁面には他の建築物との景観を考慮して煉瓦を使っています。ヴォーリズ円熟期の傑作と言われています。現在は、主に外国人研究者の長期滞在用の宿泊施設として利用されているそうです。
写真上から東華菜館エントランス、エレベーター、2階の個室→
⑦ 東華菜館…四条大橋の西詰南側にある印象的なスパニッシュ・バロックの洋館。牡蠣料理店「矢尾政」の本格西洋料理・ビアレストランとして大正15年(1926)竣工。志賀直哉の「暗夜行路」にも登場します。太平洋戦争開戦とともに西洋料理の提供が難しくなったことからオーナーが中国人の友人に譲渡。昭和20年からは北京料理店として営業しています。こちらのお店、何と現役最古のエレベーターがあるんですよ。1924年、アメリカのオーティス社製。映画でしか見たことのない時計針のフロアインジケーターもまだまだ現役。操作は手動式で、2階に行く際にもわざわざ手動で動かしてくれます。
階上には大きなフロアーもありますが、今回は2階の個室で、ほころび始めた鴨川の桜を眺めながらコース料理が楽しめました。特に春巻きや水餃子といった点心が美味しいので、ビールのお供には最高ですね。外装も内装も調度品も竣工当時とほとんど変わっていないそうです。そういえば、建物のイラストが描かれた昔懐かしいマッチ箱があったので、記念にいただきました。5月1日から9月30日までは鴨川納涼床(約120席)が設置され、6月中旬から8月中旬までは屋上ビアガーデン(約60席)も利用できますので、夏は特に賑わいそう。
⑧ ゴスペル…こちらはヴォーリズ作品ではありませんが、ヴォーリズ亡き後も大阪・東京・福岡で事業を継続している一粒社ヴォーリズ建築事務所による元個人宅で、昭和57年(1982)竣工。現在は1階部分がアンティークショップ兼喫茶店、2階がカフェ「ゴスペル」として営業しています。ヴォーリズ色はちょっと薄めですが、蔦のからまる瀟洒な雰囲気で34年前の建物にしては貫禄充分。しかも、ゴスペルにはオーディオファン垂涎の銘器、JBL製の「パラゴン」という家具調スピーカーがあるので、全国からマニアが集まるそうです。こちらのお店、コーヒーはもちろん、スイーツやカレーも美味しいんですよ。
ところで、建築家としても“アマチュア”だったはずのヴォーリズが、なぜこれだけの建築物を残せたかという疑問ですが、そもそもヴォーリズ来日の目的は建築ではなく伝道でしたから、赴任先の滋賀県立商業学校で通常の英語教育以外に、バイブル・クラスも設けました。参加については決して強制はせずに生徒たちの自主性に任せたそうです。
←写真上からゴスペル、店内に鎮座するJBLの銘器・パラゴン、紫洸のカウンター席
しかし、ヴォーリズの清廉な人間性と人懐っこさ、当時の日本人と比較しても小柄な体躯(160cmに満たなかったとか)も手伝って、すぐに人気教師となり、バイブル・クラスへの受講者も、洗礼を受ける者も次第に増えていったようです。また、当時としては破格の高給であったにもかかわらず、ヴォーリズは収入のほとんどを教材や学生への茶菓に使ってしまったそうです。こうした彼の「私財を持たない」姿勢は、生涯続くことになります。
ところが、着任から2年、契約更新の時期になるとヴォーリズは学校から更新拒否を告げられます。仏教や神道の支配する街・京都で新島襄が地を這うような苦労を強いられたように、この時代、近江八幡という保守的な地方都市にあって、海外宗教の布教は決して歓迎されるものではなかったのです。
遠い異国の地で収入を絶たれたヴォーリズでしたが、布教への情熱と近江八幡への愛が消えたわけではありませんでした。学校をクビになる前に八幡のYMCA会館建設に助力したことがきっかけとなって、アマチュアなのにプロ並みの知識と技術を持つヴォーリズの手腕がキリスト教関係者の間で評判となり、同時に地元紙などが学校側の処断を大々的に非難したことから、全国から援助の手が差し伸べられることになって、やがてYMCA会館や教会など、関連建築の設計受注に繋がったのです。当時の日本に、教会建築などのノウハウを持つ人物が殆どいなかったことも幸運でした。ヴォーリズは自伝の中でこれを「敗北の勝利」と呼んでいます。
こうしてヴォーリズは布教という目的と、一度は諦めた建築家という夢を一挙に実現することになります。そして来日5年目、30歳の若さで助っ人建築家のレスター・チェーピン、吉田悦蔵という仲間と共に「ヴォーリズ合名会社」を設立しました。
その後のヴォーリズの活躍については次章で触れるとして、今回の京都でのディナータイムをご紹介しますね。今回選んだお店は六角通にある「紫洸」さん。席はカウンターとテーブル2つ、ご夫婦で経営されている小さなお店ですが、料理は時間と手間の掛かった本格派。しかもリーズナブルで、4000円のおまかせコース(要予約)で大満足です。お酒の種類も豊富で、特に日本酒は充実。天ぷら主体のランチもおすすめですよ。
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