第ニ章:世界の中心で愛を謳う~近江八幡とヴォーリズ

まずは湖畔の名刹から

 あと2〜3日で京都の桜も満開という時期でしたが、スケジュールの都合で後ろ髪を引かれながら琵琶湖畔へ。まずは、近江を語るにはここは外せないということで、京都から車で30分、滋賀県大津市にある三井寺に参拝。三井寺というのは俗称で、正しくは園城寺(おんじょうじ)。大津は大化の改新で知られる中大兄皇子が天智天皇として即位、大津京を開いた由緒ある土地柄。境内にその天智・天武・持統の三天皇の御産湯に使われたとされる霊泉(井戸)があることから、「御井(みい)の寺」と呼ばれるようになり、それが変じて「三井寺」になったということです。1100年以上の歴史を誇る天台寺門宗の総本山なんですよ。

                 写真上から三井寺(園城寺)金堂、三重塔→

 三井寺は桜の名所としても有名なんですが、滋賀は京都よりも少し寒いんですよね。だから開花や見頃も少し遅め。広大な境内には、咲き始めた桜に混じって、名残の椿もちらほら。とにかく広い上に、国宝や重文、名勝指定の建造物や仏像、お庭なんかが無数にあるので、一通り見るだけでも丸一日かかります。

 今回は時間も無いので、急ぎ足で金堂から三井の晩鐘、一切経蔵、三重塔、釈迦堂と、一部だけ見て回る途中「あれ?ここってどこかで見たな。初めて来たはずなのに…」と思ったら、映画『るろうに剣心』でロケ地に使われた場所だったんですね。他にもいろんな時代劇の名場面に登場するので、興味のある人はチェックしてみて下さいね。

 すぐ近くには『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』に登場、さらには紫式部がこの地で『源氏物語』を着想したと伝えられる石山寺もあります。こちらも見所満載の名刹なので、ぜひ三井寺とセットで参拝してくださいね。桜と紅葉の名所でもあります。私はパスしちゃったけど…。

「のこぎり商い」で全国制覇

 三井寺から車で40分ほどで、ヴォリーズが愛した近江八幡市に着きます。ここは近江商人発祥の地としても有名ですよね。じゃあ、近江商人って何だ?って聞かれると私もあんまり自信がないので、ちょっと調べてみました。

 近江商人というのは、鎌倉時代から戦前ぐらいまで、近江の国から外に出て活動した商人たちの総称で、地元で家業を継げなかった次男坊や三男坊が国外に活路を求めたのではないかという説もあります。最初の頃は近隣で行商をしていましたが、やがて「のこぎり商売」と呼ばれる商法、近江の品物を持参して他国で売り、その売上で行商先の商品を仕入れ、近江のほか京都、大坂といった大商圏で売るというやり方でどんどん売上を伸ばしていったそうです。

←写真上から近江八幡の町並み、風情ある瓦屋根、旧近江兄弟社地塩寮と八幡教会、白雲館(旧八幡東学校)

 しかも、行商先では商品サンプルを持参するだけで契約をまとめ、あとは近江から発送させるというのが普通に行われていたそうです。今では当たり前のように聞こえますが、この「押しても引いても」儲かるという合理性は、当時としては画期的で、現在でも商社や物流企業などに受け継がれていますよね。

 その後は大都市や地方都市に進出して、その地に根付いて商売を始めたり、航路開発や北前船の登場など物流手段の発達に伴って、商いの規模を広げていったようです。その結果、高島屋、セゾングループ、伊藤忠商事、日清紡、トヨタ自動車といった日本を代表する企業の前身となりました。

ヴォーリズにも影響?「三方良し」

 「のこぎり商売」の良い所は、地元にも行商先にも利益がもたらされて、地域経済を発展させること。その背景には、売り手の都合だけで商売をしない、買い手も満足させ、その上で商売を通じて社会に貢献するという「自分よし、相手よし、世間よし」の「三方よし」という哲学があるそうです。

 江戸では、近江商人や伊勢商人のあまりの商売のうまさに「近江泥棒伊勢乞食」なんて陰口を叩かれたそうですが、「三方よし」の規範は厳格に守られ、商家で代々受け継がれてきました。ヴォーリズが近江の地を愛し、この地にこだわって事業を成功させたのは、この「三方よし」の精神が、彼の経済活動を伴った布教に少なからず影響を与えたからではないかと思います。

 「三方よし」のひとつ「世間よし」の一例として、病院建設があります。大正7年(1918)年、当時不治の病として恐れられていた結核患者を救うため、ヴォーリズはアメリカの篤志家による寄付を元手に療養所「近江療養院」(現ヴォーリズ記念病院)を開院しました。ヴォーリズの、利益を「社会に還元する」姿勢は、この頃から自然と近江八幡の市民に受け入れられていったようです。

「あさ」の自宅設計が縁で結婚

 NHKの朝ドラで大人気だった「あさが来た」のモデル、広岡浅子(彼女もクリスチャンであり、YMCAを通じてヴォーリズと知己になったようです)の自宅設計もヴォーリズが手がけたのですが、それを手始めに、ヴォーリズは大同生命肥後橋ビルの設計も任され、浅子の娘婿だった大同生命社長・広岡恵三の自宅設計も任される事になります。そしてその際に、恵三の妹でアメリカ留学の経験もある子爵令嬢、一柳満喜子と運命的な出会いをするのです。

 才能あふれる開明的な女性でありながら、当時の保守的な男性社会に馴染めず、35歳まで独身を通していた満喜子でしたが、浅子の後押しもあってヴォーリズのプロポーズを受け入れました。満喜子は結婚の翌年に働く女性のための保育所を開設、その後もヴォーリズと二人三脚で女子教育に生涯を捧げ、その努力が現在では「近江兄弟社学園」として結実しています。

上から近江兄弟社前のヴォーリズ像、旧八幡郵便局、同内部、吉田邸、旧ミッションダブルハウス→

 設計の仕事が軌道に乗ると、ヴォーリズは東奔西走、やがてはドアノブや蝶番といった日本では入手困難な建築金物の輸入も始めるようになりました。ちなみに国会議事堂で使われている立派なドアノブもヴォーリズが輸入したものだそうです。この輸入業も成功して、商品も当時は高級品だった自転車や、教会や学校で演奏されるハモンドオルガンなどが加わり、ヴォーリズはこの事業を建築設計とは分けて、実務をスカウトした日本人に任せ、「近江セールズ株式会社」として扱うことにしました。

 貿易を通じて里帰りすることも多くなったヴォーリズですが、故郷で、生涯を通じて援助を得ることになる実業家と出会います。その実業家とはA.A.ハイド。メンソレータムの開発者であると共に、ヴォーリズ同様、熱心なクリスチャンでした。意気投合した2人は数年後、日本でのメンソレータム販売の契約を結びます。

 最初は怪しげな薬ということで、誰も取り合わなかったそうですが、当時の主婦や水仕事に携わる人にとって深刻な悩みであった、冬のひびやあかぎれに良く効くという話が口コミで伝わり、やがて爆発的なセールスとなります。取り扱いを始めてから10年後の昭和6年(1931)には、近江八幡で自社製造するまでになりました。

 ここまで、絵に描いたような成功を収めてきたヴォーリズですが、稼いだ分、どんどん社会貢献や信者のために使ってしまうので、経営は大変だったようです。そもそも彼の目標はあくまで商売を成功させることではなく、近江に理想とする「神の国」を建設し、「琵琶湖畔のユートピア」を実現することでした。利益を得ることで生活困窮者や病人を助け、全ての人に教育の機会を与える。また、事業を拡大することで信者に仕事を与え、生活不安をなくす。昭和9年(1934)に設立した「近江兄弟社」の経営方針も社名通り「みな兄弟」ということで、上司も部下もなく、給与も一律、教育費、住宅費は会社持ちという夢のようなものでした。

八幡掘で江戸時代にトリップ

 そんな理想的すぎる経営方針と蓄財の禁止という姿勢が仇となり、のちに近江兄弟社の倒産、再興というドラマを生むのですが、ヴォーリズの生涯についてはまた後でお話するとして、ヴォーリズが愛した近江八幡市の魅力についてお話したいと思います。

 近江八幡市に来て真っ先に感じたのは町並みの美しさ。商家の並ぶ一帯は江戸時代にタイムスリップしたみたい。特に八幡掘界隈は江戸の昔をそのまま伝える名勝地として、『暴れん坊将軍』『鬼平犯科帳』『剣客商売』といった時代劇のロケでも頻繁に使われています。この八幡掘、もともとは“悲劇の関白”豊臣秀次が八幡山城の外堀と物流用の運河を兼ねて開削したものですが、琵琶湖水運の中継基地になったことから大阪と江戸を結ぶ重要な交易地として発展していったそうです。

 一時は役目を終えて荒れ放題だった八幡掘ですが、かつての景観を愛する市民の努力によってよみがえりました。特に桜の季節と紅葉の季節には観光船も行き来して、風情ある情景を見せてくれます。平成18年(2006)には、八幡掘・長命寺川・西の湖一帯が全国で初めて重要文化的景観に指定されたんですよ。また、日牟禮八幡宮を中心とした地区も重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

 もちろん、ヴォーリズの本拠地だけに、彼の設計した建造物も多数残されています。こちらに関しては詳しいサイト(こちらをクリック)があるので参考にしてください。特に、大きな経済的成功を収めた人物とは思えないほど地味で目立たない夫妻の“終の棲家”(現ヴォーリズ記念館)には感動すること間違いなし。

近江といえばやっぱり牛肉

←上から近江牛レストラン ティファニーのカウンター席、ランチの近江牛ステーキ

 昭和15年(1940)、日本では日中戦争の拡大、欧州での第二次世界大戦開戦を機に、対米英戦争への機運が漂っていました。メンソレータムの販売は好調でしたが、軍部は在日アメリカ人であるヴォーリズを敵性外国人として疑い、近江兄弟社もスパイ組織と見るようになっていました。ヴォーリズはこの謂れ無き嫌疑を晴らすため、日本人として帰化する決心をします。この時ヴォーリズ50歳、「米国より来たりて留まる」という意味で「米来留(めりる)」と名乗ることにしたのです。

 当然、これだけ日本に、近江八幡に尽くしたヴォーリズですから、危険を避けてアメリカに帰るという選択肢もあったはずですし、その判断を誰も反対しなかったでしょう。しかし、ヴォーリズは日本を、そして日本人を、何よりこの地が神より与えられた「世界の中心」であると宣言した近江八幡を、心から愛していたのだと思います。

 戦時中は軍部の執拗な検閲を避け、軽井沢の別荘で過ごしていたヴォーリズですが、戦後、再び近江八幡に戻ってきます。そして昭和39年(1964)、日本人・一柳米来留として83歳でその生涯を終えます。その功労を讃え、近江八幡市民葬と近江兄弟社葬の合同葬が行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園に収められています。単身、琵琶湖畔の「今まで通ってきた中で、一番小さな駅(自伝より)」に降り立ってから59年、自ら道を切り開き、ひたすら信仰と慈善のために捧げた生涯でした。

 さてさて、話はガラッと変わりますが、近江といえば何を連想しますか?「赤こんにゃく」なんて言うへそ曲がりの人もいるでしょうけど、やっぱり近江牛(おうみうし)でしょ。正真正銘の黒和牛ですからね。味は食べる前から保証付き。ちなみに、神戸ビーフというのは神戸産の牛ではなくて、明治以降、神戸港に運ばれてきた近江牛(または但馬牛)を食べた当時の在留外国人が名付けたのだそうです。

 今回は地元の超人気店(平日なのに行列の大盛況でした)、近江牛レストラン ティファニーさんにおじゃましました。肉屋さんが経営しているレストランなので、肉質も良くてリーズナブル。もちろん、ランチで近江牛ステーキをいただきましたよ。柔らかくて舌の上でとろけそうでした。
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