第三章:冥界・怨霊・魑魅魍魎(前編)

六道の辻とは…

 人は死んだらどこへ行くのかーー。それって人類永遠のテーマですよね。仮に死後の世界があるとしても、そこに行けるのは現実の肉体ではありませんから、スマホとかビデオカメラ持参でレポートできるわけじゃないし…。科学万能の現代ですら解明されていないテーマですから、800年〜1200年以上前の平安時代なら尚更です。

 そういった“人智の及ばない”問いに対して、答えを出してくれるのが宗教というもの。日本の場合、最初の宗教というのは古代神道が考えられますが、死というものを“穢(けが)れ”というような一種の概念として捕らえていたのに対して、ある程度理論的、体系的に答えを出していたのは仏教でした。

  仏教が日本に伝わったのは6世紀の中頃、インドから中国、百済を経由して伝わったとされています。当初から神道勢力との間で激しい論争があり、それがそのまま物部氏(神道派)と蘇我氏(仏教派)の政治的対立につながっていったようです。最終的には仏教派の蘇我馬子・聖徳太子が権力を集中させたことと、天皇家が代々国家鎮護のために信仰したことが決め手となって、仏教は急速に普及していきました。

 そんな経緯があって平安京では、死生観に関しては仏教の影響が強く、今でもいろんな場所にその名残を見ることができます。例えば「六道の辻」。簡単に言えば“あの世”と“この世”の境界線ということ。当時伝わった仏教の教えでは、命あるものは無限に何度も生まれ変わり(輪廻転生)、迷いのある者(解脱できない者)は生まれ変わっても6つの世界のいずれかに行くことになり、どこへ行くかは生まれ変わる前の行いによって決まるということです。

←写真上から六道珍皇寺山門前の石碑、小野篁像、閻魔大王像、冥界に続くという井戸、境内の地蔵や石仏

 その6つの世界とは、天道、人間道、修羅道(以上3つが三善道)、畜生道、餓鬼道、地獄道(以上3つが三悪道)の六道。ここでは各道についての詳しい説明はしませんが、よく「悪いことをすると地獄に堕ちる」なんて言いますが、それがここで言う地獄道のことです。

 京都の東山区にある「六道珍皇寺」の山門前には、六道の辻と彫られた大きな石がドンと置かれています。これは、ここから先が“あの世”だよ、という道標みたいなもの。じゃあ、この辺に住んでいる人たちはあの世の住人なのかと言えばそういうわけではなく、平安時代、この辺りは「鳥部野(とりべの)」と言って、墓所になっていました。墓所と言っても、現代のように火葬して墓石を建てたわけではありません。身分の高い人は火葬されましたが、身分の低い人はそのまま放置された(風葬)ので、墓所と言うよりは死体置き場といった方がいい状態でした。

 京都にはこういった場所が大きく分けて3箇所あり、東の鳥部野、北の蓮台野、西の化野(あだしの)と、それぞれの場所に境界線、つまり六道の辻があったと考えられます。六道珍皇寺の創建は平安京遷都と同じ時期と伝わっていますから、遷都と同時期にほぼ墓地となる地域は定められていて、このお寺はそういった公共墓地に対する何らかの目的があって建てられたのかもしれません。

死後の世界を知る男

 というわけで、その真相を探りに行ってまいりました、六道珍皇寺。六道の辻の石碑を横目に境内に入ると、右手に閻魔・篁堂と書かれた建物が。ここには小さなのぞき窓があって、中を見ることができるのですが、向かって右手には小野篁(おののたかむら)像、左手には閻魔大王像が鎮座しています。閻魔大王というのはいかにもこの地にふさわしいのですが、小野篁って誰?

 小野篁は平安時代の官吏で、百人一首や古今和歌集に登場する歌人としても有名な人だそうです。この人、在職中に副遣唐使に選ばれるのですが、2度失敗。3度めの乗船を拒否した末に隠岐に流罪になったり、復帰後に出世して要職を歴任したりと、結構山あり谷ありの人生なのですが、それとは別に、不思議な伝説を持つ人なのです。

 それは、昼間は普通に官吏として働きながら、夜になるとあの世に行って、閻魔大王のもとで裁判の補佐(閻魔庁の第二冥官)をしていたというもの。今流行りのダブルワーカー? しかも、“あの世”への入り口が、この六道珍皇寺にある井戸だというのです。どんな井戸なんだろ〜? という野次馬根性で、その井戸を探していたら、中庭の方にあって一般人は入れないようだったので、建具越しにそ〜っと覗いてみたら、まぁ、普通の古井戸でした。

 では、帰りの出口はどこかと言えば、かつて嵯峨野にあった福生寺の井戸だったそうです。井戸というのは地下水の通り道ですからどこかにつながっているという発想はわからなくもないのですが、なぜ小野篁だけがそこを通れるのか、というのは謎ですよね。そこでワタシなりに考えてみたのですが、唐に渡ろうとして2度も失敗しているということは、2度も難破したのに2度とも生還したということですし、一度隠岐の島に流されたのに、復活して出世したという経歴を見ると、何度死んでも蘇る、つまり閻魔大王と何らかの取引をしたとか、個人的に仲がいいに違いないとか、そんなイメージが元になったのでははないかと思います。

 加えて、188cmもの長身だったことも(当時としてはまさに巨人!)、それでいて並外れた教養人だったことも、この世の者ではないというイメージを増幅させたような気がします。そんなワタシの妄想はさておき、宇治市に六地蔵という駅がありますが、これは小野篁が六体の地蔵菩薩像を彫って、伏見の大善寺に納めたということが由来となっています(現在は6箇所に分けられています)。なぜ6体なのかというと、六道それぞれで苦しむ衆生を救済するためなのだとか。六道珍皇寺にも、大小様々なお地蔵様が置かれていました。この時代、人々は誰かが死ぬとその遺体をこの地に運び、このお寺で最後のお別れ(野辺の送り)をしたのだと思います。その後、どんな世界に生まれ変わっても、そこでで苦しまないように、お地蔵様に救っていただけますように、という願いが素朴な石仏に込められているような気がしました。

救済の寺から武家の拠点に

 かつての鳥辺野界隈には6つのお寺があったそうですが、現存するのは3つ。その2つ目が六波羅蜜寺。口から6体の阿弥陀仏が飛び出している鎌倉時代の超モダン・アート「木造空也上人立像」や、教科書にも登場する「伝・平清盛像」でも有名なお寺です。寺名の由来は、転生を繰り返す迷いの世界を抜け出し、悟りの世界に行くことを波羅蜜(パーラミー)といい、そのための修行徳目が6つあるということで六波羅蜜というそうです。このお寺ができたことでこの地を「六波羅」と呼ぶようになり、平安時代後期に平氏が拠点を置くと、清盛の時代には六波羅が政治の中心地となります。

←写真上から六波羅蜜寺の一願石、石仏

 鎌倉時代になって武家社会になると、朝廷勢力を監視するための拠点が置かれました。これが「六波羅探題」です。で、話をお寺の方に戻しますが、六波羅蜜寺の基となる道場、西光寺を開いたのが空也。平安中期、天皇の皇子として生まれながら、十一面観音像を車に載せて引き歩き、踊りながら念仏を唱え、疫病に苦しむ人々に茶を与えたという市聖(いちひじり)・空也上人。立派な人ですよね。おびただしい数の遺体が投棄された鴨川河畔に600人もの僧を集め、大般若経供養会を行ったのが、西光寺の始まりとか。

 「六波羅」の語源については、この地がもともと「六原(六道の原)」と呼ばれていたからという説もあります。それを物語るように、ここにもたくさんの野仏が安置してあります。「木造空也上人立像」などの国宝、重文の数々は宝物収蔵庫で公開されているので、是非見に行ってくださいね。ワタシも拝見しましたが、見る角度によって空也像の表情が生き生きして見えたり、辛く悲しい表情にも見えるんです。これは実物を見てみないとわかりませんよ。若い女性の間でちょっとしたブームになっている「開運推命おみくじ」も有名ですよね。これは、売店ではなくて本堂で購入できます。待つのが嫌なら平日が狙い目。ワタシはというと、仏様そっちのけで、金色の文字を正面にして、三回手前に回してお願いすると一つだけ願いが叶うという「一願石」に夢中。あ〜あの時のお願い、叶うといいなぁ…。

絶世の美女もいつかは…

 六波羅蜜寺と目と鼻の先にある小さなお寺が西福寺。これが現存する3つ目。このお寺がある町名を轆轤(ろくろ)町というのですが、その由来については下のコラムを読んでくださいね。京都では、盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事を旧暦に合わせて行うので、お盆と言えば7月13日から16日の4日間になります。この期間に、六道を輪廻する先祖の霊を「迎え鐘」で現世へ迎え入れるのが「六道まいり」。3つのお寺が一年で最も賑わう季節です。

 その時期限定で西福寺で公開されるのが熊野観心十戒図(地獄絵)と、九相図(九想図=くそうず)。地獄絵についてはその名の通りで解説不要かと思いますが、九相図というのは、うち捨てられた死体が次第に朽ちていく様を九段階にわけて描いたというグロテスク芸術。生前はどんなに美しい姿でも、死ねば醜く朽ちていくということで、肉欲などの煩悩を打ち払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと、その絵を見て学ぶためのものだそうです。

           写真上から西福寺の子育地蔵、みなとや幽霊子育飴本舗→

 中でも、西福寺にある「檀林皇后九相観」は、それを実際に行ったという伝説に由来するもの。檀林皇后こと橘嘉智子は、嵯峨天皇の皇后で小野小町と並び称される絶世の美女。嵯峨野に日本最初の禅院・檀林寺を創建したことで檀林皇后と呼ばれるようになったそうです。この女性、あまりに美しいので恋い焦がれる若い修行僧が跡を絶たず、それではアカンということで、戒めのために自分が死んだら、どこかの辻(下のコラム参照)に捨てるように命じ、朽ちていく様子を画家に描かせたのだとか。道理でめちゃくちゃリアル…(実際の画像はこちらを参照)。

 この西福寺には、ご本尊の阿弥陀如来坐像の他に子育地蔵が祀られているのですが、お寺の真向かいには、その子育てに関する悲しくも美しいエピソードが残されていました。それが「みなとや幽霊子育飴本舗」。創業450年以上!という飴と宇治茶の老舗です。こちらのメイン商品「幽霊子育飴」の説明書きによれば「慶長4(1599)年にある女性が亡くなり埋葬され、数日後にその土の中から子どもの泣き声が聞こえてきたので掘り返すと、亡くなった女性が生んだ子どもであった。ちょうどそのころ、毎夜飴を買いに来る女性があったが、子どもが墓から助けられたあとは買いに来なくなったので、この飴は幽霊子育ての飴と呼ばれるようになった。その時助けられた子どもは8歳で出家し高僧となった」とのこと。

 ご主人の話では、創業者(初代。現在20代目)が実際に体験した話とのこと。以来、幽霊子育飴として有名になり、この地の名物になったそうです。とはいえ、この“子育て幽霊”の話は全国各地にあって、起源は中国の古い怪談に遡るそうです。「幽霊子育飴」の由来が慶長4年とされているのは、モデルとなった子供がその後六道珍皇寺の高僧となり、寛文6(1666)年に68歳で亡くなったという記録から逆算したようです。真偽の程はともかく、いかにもこの地にふさわしい逸話ではあります。この飴、実際に買って食べてみましたけど、添加物など一切使っていない、昔懐かしい味でした。パッケージの文字だけでも、ちょっと変わったお土産として喜ばれること間違いなし。ちなみに、この「幽霊飴」は落語にもなっていて、舞台となったお寺がそのままオチになっています。お寺は西福寺ならぬ高台寺。なぜなら「こおだいじ=子を大事」だから。

 鳥辺野の面影は、京都ナンバーワンの観光地、清水寺でも見ることができます。舞台を降りて、音羽の滝へ向かう道を注意深く見ていると、道の傍らに、たくさんの石仏があることに気がつくと思います。それはその地に打ち捨てられた遺骸を供養するためのもの。えっ、聞かなきゃよかったって? そう言わずに、今度行ったらそっと手を合わせてくださいね。

西陣織VS東陣織?

 次のテーマに行く前にちょっと寄り道。京都に来るたびに一度は行ってみたかったのですが、なかなか時間がなくて行けなかった場所に、今回やっと行くことができました。とはいってもお寺や神社じゃないんですよ。「手織ミュージアム 織成舘(おりなすかん)」という着物のミュージアムです。えっ? 意外でした? ワタシ、こう見えて着物が大好きなんです。今回も猛暑の中、汗だくになりながら浴衣で過ごしましたけど、実は洋服より浴衣のほうが楽だなぁと思えるほど、普段からよく着物を着ています。

←写真上から「手織ミュージアム 織成舘(おりなすかん)」の外観と内観

 昔から「(正装は)染めの着物に織の帯、(趣味着は)織の着物に染めの帯」というように、着物は友禅、帯は西陣織というのが最上格。西陣織は染色した糸を使って模様を織り出すため、工程が多岐に分かれ、膨大な手間と時間がかかります。現在ではデザインをコンピューターで処理したり、織りの工程を機械化するなど大量生産化を図っていますが、それでも主要な工程は熟練した職人さんに委ねられていて、そんな伝統工芸としての最高峰が爪掻本綴織。ジャガード織り機を使わず、昔ながらの綴機(つづればた)を使う織物は、表裏が同じ文様になり、繊細で高い芸術性が保たれています。

 「手織ミュージアム 織成舘」では、西陣織はもとより、日本各地の手織物や時代衣装、絢爛豪華な復原能装束を間近で見ることができます。この日はお盆休みでしたので見ることはできませんでしたが、工場が稼働している時期は、お向かいにある渡文大黒町工場で手織り作業の見学もできるそうです。

 それはそうとこのミュージアム、石畳の道に建つ建物も素敵なんですよ。「織屋建て」と言って、1つの棟の中に、住居と工房がある独特の造り。内部は現代風にリニューアルされていますが、それでも数々の美しい織物と一緒に、お座敷やお庭を楽しむことができます。一通り見学した後は、美味しい京番茶と季節のお菓子が待っていますよ。

 西陣という地名は、応仁の乱の時に西軍(山名宗全側)が本陣を置いたことに由来するのですが、本格的な織物の生産が始まったのは応仁の乱が集結して、戦火を逃れていた職人さんたちが少しずつ戻ってきてから。当初は「東陣」(西陣があるのですから当然東陣もあります。場所は現在の上京区烏丸通り付近)でも織物が作られていたようですが、営業権を巡る争いの末、足利将軍家の下知により西陣側の勝利となったそうです。もしこれが逆の結果になっていたら、西陣織ではなくて東陣織というブランドになっていたかもしれませんよね。西陣織の最盛期は江戸時代の元禄〜享保年間で、ちょうど武家文化から町人文化へと移行する時期。西陣は裕福な町人層によって支えられていたそうです。今はどうかというと、着物ニーズの激減でどんどん生産箇所も減り、かつては織屋さんが軒を並べていた町並みも普通の住宅街に変わってしまったそうです。ワタシも頑張って着ますから、良いものをいつまでも残して欲しいですよね。あ、その前にお金が必要か…。

閻魔さまにお願い!

 平安京の3大風葬地として、最初に鳥辺野をご紹介しましたが、次は北の蓮台野。現在の船岡山北西から紙屋川にかけての地域と言われています。上のコラムでもご紹介していますが、船岡山から南に伸びる道がかつての朱雀大路で、現在の千本通。平安初期には幅82メートル!という南北を貫く都一番の大通りでした。これは、唐の使節などを招いた際に、洛陽などと比べて見劣りしないように造ったわけですが、遣唐使の休止に続いて唐自体も滅んでしまったため意味を成さなくなります。加えて疫病や水害による右京の荒廃と、度重なる火事による大内裏の衰退に伴って中心道路としての役割を失い、いつしか蓮台野に遺体を運ぶ道路になってしまったようです。

 芥川龍之介の短編「羅生門」は今昔物語がベースになっていて、舞台となった羅生門(羅城門)は、朱雀大路の南端、いわば京の入り口にあった大きな正門です。小説では飢饉や自然災害で荒廃しきった平安京の様子が描かれていますが、これは朱雀大路が千本通になった時期とほぼ一致するのではないかと思います。鳥辺野同様、この千本通界隈にも“あの世”と“この世”の境界を暗示するお寺がいくつか残っています。

 まず最初にご紹介するのが千本ゑんま堂(せんぼん えんまどう)。小野篁の創建という説もあります。そうですよね。閻魔様といえば小野篁。もしかするとあの世では「小野ちゃん」「閻魔兄さん」と呼び合う仲だったかも。あ、脱線してスイマセン。正式には引接寺といいますが、京都市民にはゑんま堂の方が一般的。本堂には名前通り巨大な閻魔様が鎮座しています。ワタシは迫力といい威厳といい、ここの閻魔様が一番かと思いますが、織田信長とも接見した宣教師ルイス・フロイスは「嫌悪すべきもの、身の毛もよだつ」なんて書き残しているそうです。ワタシはそうは思いませんが、とりあえず「将来お世話になる際はどうぞお手柔らかに」と、そっとお願いしておきました。この日はお精霊送り(8月16日)の日だったので、送り鐘を撞く人たちで大盛況。あまりに人が多くて写真が撮れませんでした。ごめんなさい。

    写真上から千本釈迦堂本堂にある刀や槍の傷、同じく釈迦堂のおかめ像→

悲しき“おかめ伝説”

 生前の罪を裁くのが閻魔様なら、その罪を救ってくださるのがお釈迦様というわけで、次に行ったのが千本釈迦堂。こちらも通名で、正しくは大報恩寺といいます。創建は奥州藤原氏・藤原秀衡の孫である義空(ぎくう)上人。こちらもお精霊送りで大混雑。このお寺が混雑する日はもうひとつあって、それは12月の風物詩・大根焚きの日なのだそうです。何やらご利益がありそうなお大根、一度は食べてみたいですよね。本堂は鎌倉時代の創建ですが、実は京都の寺社はほとんどが応仁の乱で焼けてしまって、当時のまま残っている建物はほとんどないのだそうです。そんな中、奇跡的に残ったこちらの本堂は洛中最古の建造物として国宝になっています。

 ほんとに昔のママだ〜! ということが一見してわかるのが本堂内部の太い柱。ここには大小様々な傷があるのですが、それは応仁の乱で戦った兵たちが残した刀や槍の傷。お釈迦様の目の前でなんてことするんだ! と思いますが、当時はそれどころではなかったんでしょうね。

 ところで、このお寺には創建にまつわる悲しくも美しい話が残っています。その話のヒロインは誰もが知るあの特徴的な顔の女性、そう、おかめさん。本堂造営工事の際に、大工の棟梁だった高次が柱の寸法を間違えて切ってしまい、代わりの材料がないので困っていました。それを聞いた妻のおかめさんが、アンタ斗組(ますぐみ)で作ったらどう、とアドバイス。そのおかげで無事に竣工できたのですが、おかめさんは自分ごときのアドバイスで責任を果たせたということが誰かに知れては夫の恥になると、自害。以来、おかめさんは建築関係者から信仰されるようになって、現代でも上棟式の際には、お多福のお面を着けた御幣が飾られるそうです。えっ? ワタシに似てるって? 勘違いしないでね。わざと似せてるんです!

釘抜きってこんな形?

←写真上から釘抜地蔵門前と本堂に貼られた釘抜きの絵馬

 さて、千本通のラストは通り沿いにある釘抜地蔵。巣鴨にあるのはとげぬき地蔵ですが、こちらはもう少し痛そうな釘抜き。正式名は石像寺と言って、伝承では空海が唐から持ち帰った石を刻んだ地蔵菩薩が御本尊とのことです。お地蔵様と言えば六道の苦しみを救ってくださる有り難い存在。当初は苦しみを抜き取るという意味から苦抜(くぬき)地蔵と呼ばれ、それが訛って釘抜地蔵になったとか。こちらのお寺、そのネーミングどおりとてもユニーク。本堂の外壁に、本物の八寸釘と釘抜きを貼り付けた絵馬が無数に貼り付けられているんです。これは、苦しみ(釘)を抜いていただいたお礼、ということらしいのですが、あれ? 釘抜きってこんな形だったっけ? これって釘抜きっていうよりペンチじゃない? なんてどうでもいいことを考えていたら、本堂の回りをグルっと一周、手を合わせてはまた一周という人が続々と…。しかも、凄い速さで。

 よくわからないけど、独特なお参りの仕方なんだろうということで、近くにいたおじさんに聞いてみたら「箱の中の竹の棒を歳の数だけ手に持ち、地蔵堂を一周する毎に願いを込めて一本ずつ箱の中へ棒を納めていく」のだそう。やり方はわかったけど、それじゃお年寄りは大変じゃないですか。80歳だったら80回も回るの? 苦痛が消える前に目が回って倒れそう…。でも昔からある「お百度参り」というのは同じことを百回も繰り返さないといけないわけですから、そう考えると、こちらのお地蔵様はご利益に比べたらちょっと優しいのかも。

絶対怖そうな千灯供養

 そしていよいよ、3大風葬地のラスト、化野です。化けるっていう字からして不気味ですよね。場所は嵯峨の奥の方にある小倉山のふもと。化野というのはお化けが出るっていうことではなくて「無常の野」という仏教的な意味のようです。そしてこの地を象徴するお寺が化野念仏寺。嵐山の各駅からタクシーで10〜15分程度。歩いても30〜40分ぐらいで着きます。今回は第四章でご紹介する清涼寺や宝筐院に向かう前、嵯峨野の最初の目的地として行ってきました。

 創建は、空海がこの地で野ざらしになっていた遺骸を集めて葬ったことが始まりとされ、その後法然が念仏道場を開いたことで、念仏寺となったそうです。このお寺の代名詞になっているのが、全部で8000体と言われる無縁仏。京都には地蔵盆という独特の風習があるのですが、その期間(8月23、24日)には境内の西院の河原(さいのかわら)にある無縁仏の一体一体にロウソクを立て、一斉に灯をともして供養する千灯供養という行事が行われるそうです。誰でも参加できるそうですが、幻想的で美しいと言われても、あまりにも怖い情景。参加するとか言う以前に、ワタシにはとてもそんな勇気はありません。

 写真上から化野念仏寺境内の無縁仏、五山送り火の「大文字」と「舟形万灯籠」→

 実際に来てみると、結構観光地化していて、海外からのお客さんもちらほら。それほどおどろおどろしいムードではありません。お庭もよく手入れされているので、季節の花や紅葉も楽しめるとのこと。ただ意外だったのは、お寺自体の歴史は古いのですが、無縁仏がここに集められたのは明治時代の中頃で、千灯供養も比較的歴史の新しい行事なのだそうです。でも、逆に考えれば、明治になるまではこの地のいたるところに8000もの無縁仏があったということですよね。タイムスリップする技術ができたとしても、その時代の化野にだけは来たくない…。そんな思いを胸に嵯峨野を後にしました。

「大文字焼き」ではありません

 盂蘭盆の期間に現世にお迎えしたお精霊(しょらい)さんを、今度はあの世へ送り届ける、そのお精霊送りのラストを飾るのが「五山送り火」です。ワタシは関西に13年くらい住んでましたが、実際に見るのは初めて! 毎年8月16日に、20時の「大文字」を皮切りに、5分おきに「松ヶ崎妙法」「舟形万灯籠」「左大文字」「鳥居形松明」の順に点火して行きます。関東出身の私は何もわからず「大文字焼き」なんて呼んでいましたが、京都の方に聞くとそんな風に呼ぶの観光客だけだそうです。あ〜知らなんだ。ついでに言うと、今回取材するまで、死者を送る厳粛な行事だということすら知りませんでした。ライトアップ的お祭りイベントなのかと…。そんな浅はかなワタシをよそに、送り火を見ながら泣いている方もいました。きっと亡くしてしまった誰かの事を想っているんですね。

 送り火はたとえ土砂降りの雨が降っても必ず行うそうです(一昨年がそうだったとか)。そうですよね、この火がないとお精霊さんはあの世に帰れなくなる。最も有名な「大文字(右大文字)」は、如意ヶ嶽前方の峰(大文字山)の山腹に設えられた火床に薪を積み上げるのですが、その薪には、銀閣寺などに奉納された、参拝者の願いなどを記した護摩木が含まれています。これは他の山も同じで、送り火には護摩焚きの意味も含まれているようです。

 ところで、今年はこの送り火に関する新発見のニュースが報道されました。現在は途絶えている「い」の文字の火床らしきものが安養寺山で発見されたというニュースです。実は江戸時代頃の資料を見ると、送り火は五山だけではなく、「い」「一」「竹の先に鈴」「蛇」「長刀(なぎなた)」など、全部で十山ほどあったというのです。そもそもこの送り火という行事がいつ頃始まったのかすらよくわかっておらず、「大文字」の起源についても諸説あってよくわからないらしいのです。

 でも、そういうミステリアスな部分がいかにも千年の都、京都らしくていいんじゃないかと思うのです。だって、起源や意味はどうあれ、地元保存会のみなさんが、大変な苦労をなさって毎年私達を楽しませてくださるのだから。それは祇園祭も同じ。昔からの行事は理屈をこねる前に、ただ守り抜くもの。親子代々やってきたことだから、意味があろうとなかろうとオレたち、ワタシたちはやり続けるし、子どもたちにも伝えていく。京都に限らず、日本中にいる“伝統の火”を消さないために頑張る人たち。そういう人たちには、そんな熱い心意気があるんでしょうね。<第四章へ>