第一章:風さそふ花よりもなほ我はまた

 季節ごとにテーマを決め、ゆったりしたスケジュールで古都を歩く。日本の原風景を求めて…。そんな旅こそ“アラカン世代”にふさわしいのではないだろうか。22回目は5度目の登場でファンも急増中?の、元宝塚歌劇団娘役・春花きららさんが案内する関西お花見ツアー。

夏日続きで桜も“早起き”?

 皆様お久しぶりです! やっと春が来たと思ったら、一足飛びに夏のような陽射し…。「もしかしたら近い将来春がなくなってしまうのかしら」などと、勝手に心配している春花きららです! さて今回は、お城と言えば桜、桜と言えばお城といっていいほど、全国各地、城下町の数だけ桜の名所がありますが、それぞれじっくり見ようとしても開花期間が短いのが悩みのタネ。そこで今回はあまり欲張らず、かつての播州、現在の兵庫県を中心に、お花見スポットとしても有名なお城をいくつかご紹介したいと思います。それだけではありませんよ。アラカンではお馴染みの京都。この季節、市街地も郊外も桜一色に染まりますが、中でも外せない定番スポットと穴場スポットをご紹介したいと思います。

 今回はスカイマークで羽田空港から神戸空港、そこからレンタカーで西へ向かい、また引き返すという段取り。取材時期は3月の末だったのですが、神戸に着くなり感じたのはとにかく暑い(汗) 3月とは思えない暑さ…。「この分だと取材もアツいものになりそうだぁ!」な〜んて言葉にすると変な人だと思われるので、心の中でそっと気合いをいれながら、まずは“日本さくら名所100選”に選定された明石城へ。

 現在、明石城の城跡は兵庫県立明石公園として整備され、市民の憩いの場になっています。歴史を紐解けば、明石城ができる以前に、当地には明石川と明石海峡に面した水城・船上城(ふなげじょう)があり、キリシタン大名であり、城作りの名人としても有名な高山右近が築城したと伝えられています。

 やがて秀吉のバテレン追放令で右近がこの地を追われ、領主不在となりますが、関が原の戦い以降、播磨全域は姫路藩52万石の所領となり、姫路城の支城となった船上城は池田氏の所有となります。さらに江戸時代になると、幕府の「一国一城令」によって支城は破却されることになり、池田氏の鳥取転封に伴って播磨は明石藩、姫路藩、龍野藩、赤穂藩、平福藩、山崎藩、鵤藩、林田藩といった中小の藩に分割されます。

あの剣豪にも関わりが…

 初代明石藩主となった譜代大名・小笠原忠真は、当初船上城に入城しますが、2代将軍秀忠の命によって、西国の外様大名への監視を目的に新たな城を建設することになりました。これが明石城築城の由来。

 余談ですが、その時忠真の客分として同行していたのがあの剣豪・宮本武蔵で、武蔵は城下町の町割り(都市計画)を担当したり、「樹木屋敷」という庭園を設計したそうです。武蔵って絵も描くし、マルチな才能があった人で、ただ強いだけじゃなかったんですね。

 明石城をぐるりと散策すると、まず目に飛び込んでくるのは2つの美しい櫓。そして、石垣だけが残る天守台。かつて櫓は城の四隅にあって、そのうち巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)が現存、国の重要文化財に指定されています。天守は建設予定だったようですが、結局作られなかったそうです。

 明石城の建材は、かなりリサイクルされていたようで、巽櫓は船上城から、坤櫓は伏見城から移築されたことがわかっています。道理で何となくデザインが違うような…。でも、2つの櫓の間から見渡せる明石海峡大橋の眺めは最高でしたよ。

 さて、肝心の桜ですが、この日、東京や大阪では昨年より10日も早い満開でしたが、こちらはまだ三分咲き程度。そりゃまだ3月だもの、本来ならまだ全開ではないわよね。でも個人的には、蕾を開いたばかりの桜さん、思春期の少女のように、ちょっと照れているような「まだ全部は見せないわよ」ってもったいぶってるような感じが好きなのです。

←上から巽櫓より望む明石海峡大橋、「江洋軒」の中華そば、赤穂城三の丸大手門隅櫓、大石内蔵助邸長屋門、同庭園、赤穂大石神社の義士像

明石市民のソウルフード

 それはそうと、明石城と聞くと、なぜか私の頭の中によぎるのは明石焼き(笑) こちらでは「玉子焼き」というのが一般的なのだそうですが、私の場合、神戸で初めて食べて以来病みつきに。食いしん坊の私をよくご存知の編集長はスケジュールに入れてくださってました! やっほ〜い!と思ったのも束の間…。お目当ての人気店は昼前なのにまさかの大行列。あ〜、またリベンジしたい! 編集長様宜しくお願いしまっす(笑)

 気を取り直して今度は“ラーメン大好きっこ”な私をよくご存知の編集長さまがリサーチしてくださったラーメン店へ。ちなみにラーメン好きな方はこの後も何店か出てきますのでお見逃しなく(なんのこっちゃ)! というわけで、この日お邪魔したのは老舗「江洋軒」さん。全席赤いベンチシートのテーブル席で、ザ・中華そば屋さんというレトロな佇まい。しかも、メニューは中華そば、焼きそば、わんたん(麺)しかないという、まさに明石市民のソウルフード。具もほとんど乗っていないシンプル過ぎる中華そばを一口すすると、懐かしい昭和の味。本来私はこってりなのが好きなのですが、こういう原点の味もまたいいですよね! ごちそうさまでした。

気分は四十八人目の義士?

 食後の眠気をこらえながらドライブすること約1時間半。次に向かったのは赤穂城。「殿中でござる!」から無念の城明け渡しに至る、忠臣蔵序盤の舞台としても有名ですよね。明治時代に破却されるまでは兵学の大家・山鹿素行がアドバイスしたという実戦向きの城でした。禄高に合わないスケールだったため予算が足りず、結局こちらも天守が作られずに天守台だけが残ったとか。

 現在は忠臣蔵人気もあって、徐々に再建が進み、本丸庭園や 大手門枡形、本丸門、本丸門枡形、本丸厩口門などが完成。往時の姿が次第に明らかになりつつあります。

 この城内には、なんとあの大石内蔵助が暮らしていた屋敷の一部(長屋門と庭園)が現存しています。さすが筆頭家老のお屋敷、どちらもご立派。そして明治時代に赤穂神社と合祀する形でこの地に祀られたのが赤穂大石神社。大石内蔵助ら四十七士と、忠義と義理の板挟みの末自害した萱野重実(三平)が主祭神で、浅野家とその後の藩主森家の先祖も合祀されています。境内の入り口には、神社を守るように義士の石像が並んでいて、なかなかの迫力。

 神門を通って境内に入ると、正面に本殿と拝殿が。赤穂浪士の神社ということで、大願成就が叶うとのこと。大願があるかないかは別にして、ここはお参りせねば。お参りついでに赤穂ならでは、という感じの「お清めの塩」を購入。そこでふと目に飛び込んできたのが山鹿流陣太鼓を模した大きな板。そこには「忠臣蔵」の文字が。実はこれ、浪士たちの遺品などを陳列した義士宝物殿の看板。入場料を払って早速行ってみると、中にはテレビや舞台でお馴染みの羽織があって一気にテンションアップ!早速「大高源吾」の羽織に袖を通しました。

国許での花見も叶わず…

            上から義士宝物殿内部、大石内蔵助像、神社境内の桜→

 気分はすっかり四十八人目の義士。そんな浮かれ気分をよそに、宝物殿には赤穂事件をリアルに感じさせる貴重な品々が展示されていて、思わず背筋が伸びました。主君の無念を晴らすだけではなく、当時の片落ちとも取れる裁定に不服を申し立てるため、忠誠心と武士の意地からおきた仇討ちではありますが、自分たちの命を顧みず、吉良家だけではなく、背後にある名門上杉、さらには強大な幕府そのものに、老人や少年を含め50人に満たない小藩出身の浪人たちが立ち向かったという事実に今更ながら驚かされます。

 いつの時代でも、どんな理由があっても殺人は最大の罪。しかしそこには、討つ者、討たれる者それぞれの立場があり、それぞれの正義があるんだと、考えさせられるものがありました。

 古都めぐりをしながらこういったさまざまな歴史的背景に出会い、その頃の人達の生き様に思いを馳せるのは本当に勉強になります。あ、すっかり忘れてましたけど桜もきれいでしたよ。こちらは五分咲きと言った感じ。場所によって咲くタイミングが違うなんて桜さんは行く先々で色々楽しませてくれますよね。

 思えば、浅野内匠頭が殿中で刃傷に及び、その日のうちに切腹したのが今から317年前の旧暦3月14日。現在の暦なら4月21日です。すっかり桜も散っていたでしょうね。そして、その人生最後の日に詠んだと伝わる、あまりにも有名な内匠頭辞世の歌がこれ。

 風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん

 (風を自ら誘って散る桜の花よりもなお急いで散ろうとしている私は、この春の心残りをどうしたらいいのだろうか)

 あまりに出来過ぎということで、後世の創作という説が強い歌ではありますが、万感胸を打つものがありますよね。刃傷事件がなかったら、国許に帰って大石や家来たちとのんびり桜を楽しむこともできたのに…。

 そんなことを想像しながら、内蔵助の銅像にひざまずいて一礼。もちろん気分はまだ“四十八士”のまま。「御家老、雲母助(きらのすけ)で御座います。ただいま江戸より国許へ帰って参りました」「おお、左様であったか。大儀であった。ところでその方、見かけぬ顔じゃが誰であったかの……」

懲りずにまたもコスプレ!

 そんな小芝居もほどほどに、お次は約40分のドライブで龍野城へ。別名「霞城」とも呼ばれるこの城の歴史は古く、室町時代に当地の豪族、赤松氏が鶏籠山城を築いたのが始まり。その後、一時破却されたものを江戸時代に龍野藩主となった脇坂安政が再建。その際、実戦的、防御的な色彩はなくなり、合理的な行政庁舎として陣屋形式の本丸御殿が建てられました。現在の本丸は1979年に再建されたもの。

 城下町らしいクランクの多い細い道を登って本丸付近の駐車場へ行くと、観光客はほぼゼロ。の〜んびりゆ〜っくり見学できました。瓦屋根が美しい古い町並みが一望できる隅櫓まで行くと、そこにはほぼ満開の八重桜。先ほどまで見てきた明石や赤穂のソメイヨシノもかわいい桜でしたが、八重桜の濃いピンクも、ほんのり色気があって素敵。

←上から龍野城本丸にてコスプレの準備、本丸奥の座敷、龍野市内の觜崎屋本店、姫路の居酒屋遊膳

 八重桜の横には石垣をくり抜くように造られた埋門。これまたご立派。そこからちょい先に本丸が。靴を脱いで入ってみると、案内役の市の職員?と思われる人が待ち構えていて、いきなり「兜かぶってみます?」

 返事をするや否やあれよあれよと言う間に兜を被せてもらい陣羽織を着せていただき、本日2度目のコスプレ(笑) この兜、かなりホンモノに近いそうで重さ2.8㎏! 私も宝塚の現役時代、何度か重い鬘を被った経験がありますが、舞台を降りても肩は凝るし、体の自由がきかなかった記憶が…。そう考えると当時のお侍はこれを被って戦っていたんだから凄い。

 貸切状態だったのをいいことに、本丸の中まで入って、見学ついでに殿様の御座所でコスプレ撮影。どう? 結構サマになってるでしょ?

 龍野城を満喫したあとは高級そうめん「揖保乃糸」で知られる揖保川のほとりにある古い町並みへ。曜日のせいか、たまたまお休みのお店が多かったのですが、そんな中で江戸時代そのまんまのような、1742年創業の老舗和菓子店「觜崎屋」(はしさきや)さんが開いてました! 本当は季節柄さくら餅が食べたかったのですが、残念ながら売り切れ。その代わり、手作りの美しい和菓子があったのでそちらをいただくことに。あんこが程よい甘さで絶品。疲れた体に沁み渡りました。和菓子って食べるアートなんだなぁと、その繊細さに感動。伝統を受け継いだ職人さんの技は素晴らしい。

 龍野はそうめん以外にも醤油の町としても有名で、童謡「赤とんぼ」で知られる三木露風の生家や、かつての武家屋敷など趣ある古い町並みも残っています。今回は時間の都合であまり見ることができませんでしたが、機会があればまたゆっくり散策してみたいなぁ。

 龍野からさらに30分のドライブで姫路市へ。ホテルにチェックインして時計を見ると、そろそろ夜ご飯タイム☆ 荷物をそのままにホテルを出て徒歩5分。ジモティお勧めの「居酒屋 遊膳」さんへ。明石焼きに未練タラタラな私は早速明石焼きを注文! 姫路で? というツッコミは心の中にしまっといてくださいまし(笑) 他にメニューで気になったのは「特大ホタルイカ」。ワタシ、ホタルイカが大の好物でございまして、ちょっと妄想しすぎて20㎝くらいの大きさを期待していたのですが、まぁ、割と普通のホタルイカでした。でも、ぷりっぷりで身が引き締まってて本当に美味しかった!

 そして“もちのろん”で日本酒もいただきましたよ! 「大手門セット」「三の丸セット」といった風に、姫路城にちなんだ地酒3種類の飲み比べセットが5種類もあって、色んな味を楽しめました。中でも私のおすすめ銘柄は「乙女」。「男酒」もなかなかイケましたけど…(結局、全部飲んだのかい!)。とまぁ、このままだとご飯の事ばかりで文字数がオーバーしちゃいそうなので、初日から波乱の第一章はここいらでおーしまい!
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