第一章〜若松は今日も雪だった

 季節ごとにテーマを決め、ゆったりしたスケジュールで古都を歩く。日本の原風景を求めて…。そんな旅こそ“アラカン世代”にふさわしいのではないだろうか。第3回目はNHK大河ドラマ「八重の桜」の舞台となり全国的に注目度がアップしている福島県会津若松市。

28年ぶりの再訪

 連載の1回目でも紹介したが、会津若松は母の故郷である。従って祖父が健在だった頃には(祖母は若くして亡くなった)幼い頃から何度も母に連れられて“里帰り”しているし、今でも祖父母の墓があるのだが、上京して新聞社勤務になってからは一度も行く機会が無く、思えば28年ぶりの再訪である。

 再訪に至ったきっかけは、夕刊フジの編集委員・K氏の一言である。ANA主催の「福島観光復興プレスツアー」に参加して記事を書かないかという、表向きは名も無きフリーライターへの原稿依頼なのだが、おそらく私が飯森山で自刃した白虎隊士の血縁者であるという、酒飲みの他愛ない自慢話を覚えていてくれたのだろう。綾小路きみまろではないが“あれから28年”若松はどう変わったのか。また、現地で「八重ブーム」は盛り上がっているのか等々、いやがおうにも期待はふくらむ。

 とはいえ、今回は複数のマスコミが集団で行くパッケージツアーなので、いつものように勝手に行き先を決めるわけにはいかず、時間も制限される。当然、墓参りなどできるわけもなく、心の中で祖父母に詫びながら1月22日、東京8時40分発の新幹線に乗った。

 さて、おまかせツアーの上に良く知っている土地なので、本来なら何の不安もないわけだが、唯一気がかりなのは雪である。会津は豪雪地帯。同じ福島県でも私が生まれ育った福島市と会津若松市では雪の量が違う。おまけにすっかり東京暮らしが長くなって寒さに対する抵抗力が弱くなっている。そこで当日はとにかく着込むことにした。ヒートテックの下着上下にヒートテックの靴下、タートルネックのセーターにコーデュロイのジーンズ、ダウンジャケットに防水ブーツ。雪が深い場合、靴はゴム長靴が最適なのだが、さすがに格好悪いのでやめた。

 東北人である我々にとって、真冬に豪雪地帯に旅行するなんざ狂気の沙汰と言ってもいいのだが、NHKの「八重」関連番組を見ると観光客が多いのに驚かされる。やはり「八重ブーム」なのか? 昨年の「清盛」がコケたせいか、今年の「八重」に対するNHKの意気込みには圧倒される。これに「震災復興」の大義名分も加わって、年末年始の番組は連日の“会津オンパレード”である。

 しかし、冷静に考えると会津は震災被害も原発被害も被っていない。唯一、風評被害だけなのである。福島県は東西に広く、北海道、岩手に次ぐ面積を誇る。従って、浜通り(太平洋側)で事故が起こっても、間に中通りをはさんだ会津地方はほぼ無関係である。しかし、世界中に広がった「フクシマ=原発」のマイナスイメージは福島県全域が危険であるような錯覚を起こさせたのだ。

 そう考えると、怖いのは「無知」ということである。黒澤明の名作『赤ひげ』で三船敏郎演じる赤ひげ先生が語っていた「全ては、貧困と無知から来ているのだ」という問題提起はIT化して情報が氾濫する今でもあまり変わっていないのではないか。問題は情報の量よりも正確さと、それを咀嚼する側の知識レベルにあるのだ…。新幹線の車中でそんなことを考えていたら、いつの間にか郡山駅に着いていた。東京駅から80分。通勤時間並みの早さである。

 郡山からはワンボックスカーのジャンボタクシーがお出迎え。ここから磐越西線という手もあるのだが、私は“鉄ちゃん”ではないので「こっちの方が楽ちん♪」という率直な感想。実際のANAスカイホリデーツアーにも観光タクシーやレンタカーの料金が含まれているというから、至れり尽くせりである。

まさに純白の鶴

←上から見事なつらら、雪の鶴ヶ城、戊辰戦争で傷ついた当時の天守写真、観光案内のお二人(西郷頼母と八重さん…らしい)、鶴ヶ城内で“ご先祖”白虎隊士の肖像と対面する筆者、茶室「麟閣」入り口の門

 車窓からの風景でまず目に止まったのは郡山駅周辺に建てられた大規模な仮設住宅である。会津観光のついでに、こうした現状を見てもらうのも意味があると思う。特に今回お世話になったANAスカイホリデー主催の「新島八重ゆかりの地会津をめぐる旅」では、特に関西など西日本の観光客を誘致したいということなので、復興が進まない現状を全国の人にアピールするいい機会ではないだろうか。

 高速に乗れば郡山から会津若松の市街地まで約1時間。途中、猪苗代湖や磐梯山の雄大な景色も楽しめる(この日は雪で何も見えなかったが…)。今から30数年前、大学を卒業した私は市ヶ谷に本社のあるD日本印刷に営業職で入社したのだが、すぐに仙台の支社へ配属を命じられ、2年後には「問題が多く勤務態度が悪い(実際悪かったのだが…)」ということで郡山営業所に配転、会津地区担当になった。それから約半年、週に2度ほど車で郡山と会津を往復した。当時はまだ高速道がなく、国道一本だけだったから、先頭に大型車でも走っていればノロノロ運転を強いられ、事故でもあれば大渋滞というアクセスの悪い場所だった。それでも、峠を越えたあとに広がる猪苗代のパノラマは美しく、地方勤務でくさりきってきた私を慰めてくれた。

 しかし観光産業が主体の会津若松にそれほど印刷の需要があるわけでもなく「いつ会社を辞めようか」という重い気持ちを抱えたまま走る夜の帰り道、街灯も少ない単調な一本道は眠気を誘い、何度も死にかかった記憶がある。要するに、社会人になってからの私にとって会津若松はあまりいい思い出がないのである。D日本印刷を退社後、28年もの間訪れなかった理由は、そこに尽きる。

 しかし、その頃の記憶もほとんどなくなり、東京暮らしにもさほど魅力を感じなくなった今、自身のルーツである会津若松に行くのは、一種の原点回帰なのかもしれない…。そんなセンチな思いを笑うかのように、タクシーは実にあっけなく若松市内に到着。予想通り一面銀世界で、小雪もちらついている。民家の軒下には見事なつららが下がり、いかにも雪国に来たな、という印象。

 到着後、すぐに昼食ということになったのだが、グルメ関係の話は次回に回すことにして、観光の一番手はやはり街のシンボル、鶴ヶ城。先に書いたような事情(北国の人は雪が嫌い)から、県内に住んでいても滅多に鶴ヶ城の雪景色を見ることはない。果たしてどんなものか。結果は写真の通りである。久々に見る天守は見事に純白。思わず息を飲む。

 名将・蒲生氏郷によって最初に造られた天守は7層だったという。“陸の孤島”とでも言うべき会津若松を都市として発展させたのは一にも二にもこの氏郷である。氏郷が秀吉の命でこの地に移封され42万石(後に92万石)を賜ったのは仙台の伊達政宗に対する“見張り番”としての役目だったらしい(会津はかつて正宗の領地だった)。氏郷は旧領の松ヶ島(三重県松坂市)から近江商人を呼び寄せ、この地に商工業を根付かせた。「若松」という地名は、氏郷の出身地日野城の近く、馬見岡綿向神社の参道付近にあった「若松の杜」に由来するとも、旧領松坂の「松」という字を取ったとも言われている。

 氏郷の死後、蒲生家は宇都宮に移され、代わりに上杉景勝が入る。その後関ヶ原で西軍についた景勝は米沢に減封、その後再び蒲生、加藤と領主が代わり、慶長16年(1611)の会津地震で倒壊した天守を建て直したものが、現在見ることができる再建天守のモデルである。

 寛永20年(1643)、加藤氏の改易に伴い、3大将軍家光の異母弟であった保科正之が入城、これが会津松平家の始祖となる。それから225年、慶応4年(1868)の戊辰戦争で天守は官軍の激しい砲撃に遭うが、何とか持ちこたえた。しかし損傷が激しく、やがて破却処分となる。旧会津藩士や市民の悲願であった天守再建(鉄筋コンクリート)が実現したのは、それから97年後の昭和40年(1965)のこと。つまり、私が子供の頃には、まだ天守が無かったのである。全然覚えていないが…。

 平成2年(1990)には千利休の子・少庵が建てたと言われる茶室「麟閣」が本丸の元の場所に移築復元され、一昨年来、黒瓦だった屋根瓦を以前の赤瓦に復元する工事も行われ昨年3月に竣工。マイナーチェンジではあるが、若松市としてはこれを観光の目玉にしようと張り切っていた。ところが例の風評被害である。一時、観光収入がどん底まで落ち込んだ。そんな折だけに、今年の大河ドラマに「八重の桜」が決まった時は、関係者としては「地獄で仏」の心境だったに違いない。<第二章へ続く>