第二章〜真冬に咲いた?八重の桜

ジャニーズ系?の白虎隊士

 天守の内部は「若松城天守閣郷土博物館」になっているのだが、昔見た記憶とはだいぶ違っていて、若者受けを狙ったのか、展示内容もグッと今風になったようだ。昔は最上階に自刃した白虎隊士全員の肖像があったのだが、今は下の階に展示されており、心なしか画風も変わり、全員がジャニーズ系になっているような…。私の曾祖父の叔父にあたる鈴木源吉もかなり美男子に描いてある。

 最上階から一望できる会津の市街地は一面の銀世界。かつての名君・保科正之や最後の藩主・松平容保も同じような景色を見ていたのであろうか。江戸時代の城内は、現代のような暖房設備や密閉性など望むべくもなく、板張りの天守は恐ろしく寒かったに違いない。身分を問わず北国の人間は、生まれた時から長い冬の寒さに耐えることを強いられるわけだが、これは猛暑に耐えなければならない砂漠の人たちも同じ。アラブ人特有の「生死はアラーの神の御意志」というある種の運命論は、所詮自然の猛威には逆らえないという経験則から来ていると聞いたことがある。

写真上から天守最上階からの眺め、大河ドラマ館とその展示物、雪の御薬園、重陽閣、雍仁親王妃勢津子と白洲次郎のスナップ、重陽閣の重厚な階段、東山温泉・原瀧の露天風呂→

 「ならぬことはならぬものです」という有名な「什の掟」の一文が会津の地で浸透したのは、アラブ人同様、こうした過酷な環境を生き抜く上での一種の“諦念”が根底にあるような気がする。よく東北人は粘り強いと言われるが、それはいくら除雪しても降り続ける雪のしつこさに黙って耐え続けてきたDNAではないだろうか。耐え続ければいつか必ず春が来る。北国の人間にとって春というのは忍耐からの解放であり、生きる希望そのものなのである。

 城を出て市街地に出ると、案の定、街中が『八重の桜』一色である。至る所に番宣ポスターが貼られ、看板、POP、土産物などあらゆるものに『八重さん』『ハンサムウーマン』の文字が踊る。そしていかにも“八重ブーム”を当て込んだという感じの施設が「大河ドラマ館」。ドラマのセットや衣装がテーマパーク風に展示されている。悪口は言いたくないのだが、正直かなりチープな内容で、これで入場料500円はちと高い。まぁ、ドラマのファン、出演俳優のファンなら多少は納得できるかもしれないが…。

意外な場所に意外な人物

 「大河ドラマ館」は無かったことにして?次に向かったのが、鶴ヶ城と並ぶ会津観光の定番、御薬園だ。規模はそれほど大きくないが、会津若松の出身者が自信を持って推薦する名勝のひとつ。もともと葦名氏が領主の時代から霊泉の湧く別荘地だったのだが、寛文10年(1670)、二代藩主松平正経が領民を疫病から救う目的で園内に薬草園をつくったのが御薬園という名の由来。その後元禄9年(1696)に三代藩主正容が大名庭園(池泉回遊式大名型山水庭園)に改造した。

 正容は同時に当時最高級の薬草だった朝鮮人参を試植、その後栽培に成功し、朝鮮人参は漆器や絵蝋燭などと並ぶ会津の名産品になる。ちなみに名匠・小林正樹が映画化した(最近田村正和主演でテレビドラマ化)滝口康彦原作の『上意討ち〜拝領妻始末』で家臣に拝領妻を押しつけるバカ殿のモデルになったのが、この正容である。史実は、四代藩主容貞の母である本妙院が16歳で家臣・笹原忠一に下げ渡され、その後娘も生まれたが、容貞が兄たちの早世により嫡子となったため、強制的に離縁。当初離縁を拒否した笹原家は処分を受け、本妙院は23歳で病没したというもの。

 正容の代に拝領妻が多かったのは事実だが、これは継室の栄光院に気を遣ったためで、笹原父子の反逆もフィクションである(笹原伊三郎は幽閉されたまま死去、長男忠一は幽閉が解かれた後、弟文蔵に引き取られた)。ただ、栄光院(伊知)が家臣・笹原家の嫁として健気に働き、夫婦仲も良かったのは事実で、笹原父子が頑なに離縁を拒否したのは主君の理不尽に対する抵抗、武士の面目もあっただろうが、単に良い嫁を返したくなかっただけなのかもしれない。

 それはさておき「秋風に荷葉うらがれ香を放つ おん薬園の池をめぐれば」と、与謝野晶子も歌に詠んだ御薬園だが、一面の雪で殆ど何も見えない。私の場合、庭の美しさは幼い頃から目に焼き付いているので、雪景色もまた風情があって良いなどと言えるのだが、初めて見た人はどこに何があるのか全くわからないだろう。ガイドさんもちょっと困り顔で、敷地内にある「重陽閣」という重厚な建物に案内してくれた。

 この建物は松平容保の孫で秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟)の妃となった雍仁親王妃勢津子(松平節子)とその家族が昭和3年、会津若松を訪問した際に宿泊した東山温泉新瀧旅館別館を移築したもの。勢津子自体は父の恒雄が外交官だったことからロンドン生まれの“帰国子女”で、会津が故郷というわけではないのだが「逆賊」「朝敵」と呼ばれた会津藩主の孫が皇族に嫁いだという事実は会津人にとっては最高の汚名払拭であり、当時の熱狂的な歓迎振りが偲ばれる。

 「重陽閣」という名前の由来は勢津子の誕生日が、重陽の節句の9月9日であることから、勢津子自身が命名したもの。現在は1階が展示スペース、2階が喫茶・食事スペースになっており、2階へ上がる階段や建具の意匠に、大正〜昭和初期の見事な職人技を見ることができる。1階の展示スペースで何気なく眺めていた写真の中に、どこかで見た顔が…。どうやら勢津子が只見のダム建設を視察した時の写真のようだが、隣に立つ長身の美男子、なんとあの白洲次郎だった。たぶん次郎が東北電力の会長だった時に案内したのだろう。

 後で調べてみると、次郎の妻・白州正子と勢津子が学習院時代からの親友だったことがわかった。次郎ともロンドンつながりで親交が深かったに違いない。皇室と勢津子の縁を取り持ったのは、正子の父・樺山愛輔だったと言われるが、何より聡明で気品のある勢津子は貞明皇后のお気に入りだったらしい。新島八重といい、大山捨松といい、会津藩出身の女性は国際派の知識人が多い。そういう意味で、会津生まれではないが勢津子もまた会津人の誇りなのである。

東山の夜は更けて…

 そんなわけで、初日の観光はこれで終了。いわば会津若松の定番コース第一部である。宿は市街地から車で15分ほどの東山温泉。かの土方歳三も戦傷を癒したという名湯で、川沿いにあって滝が多く、原瀧、千代滝など旅館の名前にもなっている。この日選んだのは原瀧の別館「今昔亭」で、旅館スタッフの薦めでまずは本館の露天風呂に直行。滝を前にしての雪見風呂は開放感抜群で、旅の疲れも吹き飛ぶ。

 川沿いの崖には時折カモシカも現れるという。市街地の近くで味わえる野趣、それも会津若松(地元では単に若松と呼ぶが)の魅力のひとつか。長風呂でゆであがった体を冷ます前に夕食のコール。

 残念ながら冬の会津にこれといった食材はない。山菜も茸も川魚もシーズンオフである。しかし食卓に並ぶ料理は見た目にも鮮やかでバラエティ豊か。どうやら料理長は本格的な京料理がお得意のようだ。海が遠く、盆地であることから京都と会津には食の面でも共通点が多く、海産物の乾物が昔からの“ご馳走”。身欠きニシンや棒鱈を使った煮物は京料理よりずっと塩辛いのだが、お酒の供にはピッタリ。ついつい酒も進む。

 京都と会津の共通点は食材だけではない。京都人の言う「この前の戦争」が応仁の乱だとすれば、会津人にとってのそれは会津(戊辰)戦争。どちらも市街地に壊滅的なダメージを被ったため、市民にとって忘れられない負の記憶として残ったのであろう。太平洋戦争中に大規模な空襲を免れたという点でも似ている。

 幕末の一時期、京都と会津は浅からぬ因縁で結ばれていた。藩主・松平容保が京都守護職を引き受けたことで、大きな時代のうねりに会津藩は翻弄される。そんな中、会津から京都へと舞台を移しながら、敗れざる者の魂を生涯貫き通したひとりの女性がいた。それがNHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公・新島(山本)八重なのである。

 そういえば先日放送の『八重の桜』を見ていたらどこかで見た風景が…。西田敏行扮する西郷頼母が容保の怒りを買い、失意の中寺の階段を下りていく途中、覚馬と再会するシーン。それは前回取り上げた佐原(千葉県香取市)にある伊能忠敬の菩提寺・観福寺だった。どうやら当連載1回目で取り上げた会津藩の京都本陣・金戒光明寺のシーンは、京都ではなくこの寺で撮影したらしい。

 偶然とは言え、妙なところでリンクしているものだ。これもご先祖のお導きか…。さて、そんなわけで初日の夜は長湯と長酒が効いて部屋に戻るなりそのまま爆睡。28年振りの再訪初日は特に感慨もないまま更けて行ったのであった。 <第三章へ続く>