第四章〜誰か先祖を思わざる

予備兵まで駆り出した総力戦

 続いては、いよいよ会津観光のクライマックス、飯森山である。山と言っても標高314m。小高い丘と言った方がいいかも。ここには栄螺堂という螺旋構造の珍しい仏教建築があって(かつては東京の亀戸にもあった)、正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)。右回りに上る斜路と左回りに下りる斜路が別々に作られており、登る人とすれ違うことなく、降りることができるという寛政8年(1796)創建の特異な建築物で、設計の起源はレオナルド・ダ・ヴィンチということだが、それがどう巡り巡って会津若松の山上にあるのかは定かではない。

 本来なら国の重文であるこの栄螺堂こそが、多くの人が飯森山に登る目的だった筈だ。例の事件が無ければ…。何やら勿体付けた言い方だが、例の事件とは言うまでもない、白虎隊二番隊士20名の自刃である。

←写真上から国の重要文化財・栄螺堂、飯森山・白虎隊自決の地にある隊士像、自決の地から見た鶴ヶ城付近、会津武家屋敷、西郷四郎像、頼母一族自決を再現したマネキン、柴五郎の写真

 自刃した20名のうちたった一人、飯沼貞吉だけが一命を取り留めた。その後貞吉は東京で電信技師となった後、全国各地を転々とし、日清戦争にも従軍している。最終的には仙台逓信管理局工務部長としてその職務を全うするのだが、白虎隊士としての過去については家族にも一切語らず、重い口を開いたのは晩年になってからである。電信という洋風の、しかも最先端の職業に就き、長身で日本人離れした風貌の貞吉に、武士としての重い過去があったことを、当時は誰も想像できなかったであろう。

 会津戦争がいかに悲惨なものであったかは、今後の「八重の桜」で描かれると思うので、ここで多くは語らずにおこう。会津戦争は白虎隊に限らず、八重や中野竹子など女子供もすべて動員(というより志願)した総力戦であり、最終的に鶴ヶ城に籠城したのは殆どが非戦闘員だったという、まさに会津という“国家”の存亡を賭けた戦いであった。

 しかし、まだ16歳から17歳の少年たちとはいえ、白虎隊は武家の子弟であり、日新館で学んだエリート候補生である。その下には13歳の幼少組までいたというのだから驚く。白虎隊の白虎とは風水でお馴染みの四神の白虎のことであり、当然玄武隊、朱雀隊、青龍隊もあった。ちなみに白虎隊以外の3隊は殆どが中高年、当時としては老人の部類に入る50代が中心のロートル部隊だった。要するに名前こそ勇ましいがこの4隊は滅多なことでは戦力に加わらない、非常時の予備兵力だったのである。

 そういう事情とは別に、白虎隊の自刃は会津特有のエリート教育が生んだ悲劇だったとも言える。今の世の中で仲間と差し違えたり、頸動脈を切ったり、ましてや自ら腹をかっさばいて死ねる若者がいるだろうか(刃物を振り回して他人の命を奪う馬鹿はたくさんいるが)。大東亜戦争での神風特攻隊を思い出して欲しい。少なくとも戦時中まではそういう若者が普通に暮らしていたのである。現代のイスラム圏で行われている自爆テロだって、根っこは同じだ。教育というのはそういう怖さを常にはらんでいるし、高邁な精神というのは狂気と紙一重なのだ。そのことを決して忘れてはならない。

先祖伝来の刀で

 私の血縁者である白虎隊士・鈴木源吉は医師の家に生まれ、家業を継ぐために医学を志していたという。出陣に当たって兄から先祖伝来の脇差「冬広」を与えられ、喜び勇んで家を出たという逸話が残されている。源吉はその「冬広」で割腹したに違いない。介錯もない状態で割腹すると言うことは、苦痛に悶絶しながら、何時間もかけて失血死するということである。年長とはいえまだ17歳。何とも痛々しい話である。

 源吉の甥、寅吉が幼少の頃「えび、えび(生首のこと)」と母親に訴えたという逸話は「京都編」ですでに述べたが、私の曾祖父である寅吉は結婚後男子に恵まれず、養子を迎えたため、ここで鈴木家の男系は途絶えてしまう(源吉の父も養子であったから、正確にはその時点で血脈は途絶えているのだが)。その後寅吉の養子も他県に移り、現在会津に鈴木家の痕跡はない。寅吉の娘、つまり私の祖母も、その姉妹もすでにこの世を去っており、源吉のことを語る人は、もはや会津若松にはいないと思われる(もしいらっしゃったら連絡下さい)。

 子供の頃、母に連れられて来た飯森山の印象はあまりよいものではなかった。無理もない。もともとが寺の敷地(廃仏毀釈で廃寺)であり、いまだに全体が墓地なのだから。子供にとってはとにかく陰気臭かったのである。しかも少年が揃って自害する図などというスプラッターなものばかり見せられるのだからたまらない。あやうくトラウマになるところだった。

 しかし、その陰気なエピソードがいまだに会津観光の目玉として存在しているのも事実である。会津には「小原庄助伝説」のような白虎隊的なものとは真逆の、エピキュリアン(快楽主義者)的な側面もあるし、猪苗代の生んだ偉人、野口英世だって渡辺淳一の『遠き落日』で描かれたようにメチャクチャ人間くさい御仁で、決して文部省推薦の聖人君子ではない。福島県人にはベイスターズの中畑監督や西田敏行のような突き抜けた明るさを持った人も多く、個人的には、ご先祖様には申し訳ないが「八重」効果で会津をもう少し明るいイメージに代えて欲しいような気もする。

 余談ではあるが、白虎隊に関して多くの人が誤解していることがある。白虎隊士は総勢343名。そのうち自刃して果てたのは19名。正確な数は不明だが、明治になっても多数が生き残っており、中には後に東大総長になった山川健次郎(山川大蔵の弟)やソニーの創業者・井深大の血縁者である井深茂太郎もいる。決して全員が戦死したわけではないのだ。加えて、同様の悲劇は近くの二本松藩でも起こっており(二本松少年隊)、白虎隊士よりさらに若い12歳から13歳の子供が多数戦死している。

 では、なぜ白虎隊のエピソードだけが突出して有名になったかと言えば、少年の集団自決という特異性、自決にいたるまでのドラマティックな展開もさることながら、戦前の愛国教育にうまく利用されたのではないかと思われる。会津藩は明治政府の歴史の中では賊軍であって、いまだに靖国神社に祀られることはない。それが昭和になって国家的“美談”として語られるようになったのには、何らかの意図を感じる。

 そんな小難しいことを考えながらガチガチに凍った雪の階段を、手すりにつかまりながら恐る恐る下りる。だからいわんこっちゃない。こんな季節にこんな場所に誰が来ると言うんだ? しかしジャンボタクシーはこの世にスリップなど存在しないかのように果敢に坂道を上り、平然と待機していた。そしてごく普通に坂道を下る。どんどん下る。おまけに運転手さんはスーツに革靴だ。これだからジモティは侮れない。

老けすぎの西郷頼母

 さて、次のお目当ては本日のラスト、会津武家屋敷だ。これは「八重の桜」で西田敏行が演じている会津藩家老・西郷頼母の屋敷を復元したもの。だからといって西田敏行がいるわけではない。立派な玄関で奥方が頭を下げて迎えてくれるが、これもただのマネキンであって宮崎美子ではない。

 しかし、もしタイムスリップして本物の屋敷に行くことができたら、きっと誰もが驚くことだろう。容保の京都守護職就任に大反対した時、頼母はまだ32歳。家老といえどぴかぴかの青年である。西やんには悪いが、ドラマでの役柄はちょっと老けすぎである。家老と言っても年寄りと決まったわけではないのだ。江戸時代にはほとんどの藩で重要な役職は世襲制だったから、特に問題がない限り、家老の子は家老になるのである。

 しかし、ドラマでは相当重要な役どころなので、若者であってはイメージが合わないのであろうか。テレビでは里見浩太朗や北大路欣也といった重鎮が演じているが、どう見ても30代には見えなかった。会津戦争の時でさえまだ38歳。八重の兄・覚馬と比べても2歳しか違わない。それはさておき、この青年家老の屋敷は実にゴージャスである。かつての会津藩の豊かさが偲ばれる。

 実はこの頼母にも白虎隊同様「悲劇のエピソード」がある。会津戦争中に母や妻子など一族21人が「敵の辱めを受けず」という思いから自害して果てた。一人、死にきれずに血の海の中で苦しんでいた長女を、押し入った土佐藩士が哀れに思い、味方と偽って介錯したという壮絶な逸話もあり、その場面がマネキンで再現されている。

 館内には他にも会津藩にまつわる人々を紹介するコーナーがあり、頼母の甥であり、後に養子となった『姿三四郎』のモデルで山嵐の使い手・西郷四郎や、中国で義和団の乱勃発の際に大使館の守備に活躍し、各国から賞賛を浴びた「リュウトナンコロネル・シバ」こと柴五郎、山川大蔵の妹で日本初のアメリカ女子留学生、大山捨松(のちに大山巌の妻となる)などのゆかりの品が展示されている。

 八重の兄・覚馬を始めとして、仇敵・薩長閥の明治新政府に招かれ、活躍した会津藩士は意外に多い。京都守護職〜戊辰戦争を通じて、敵にも一目置かれる存在だったと言うことか。薩長にせよ会津にせよ、戦争が終わったらノーサイドなどというスポーツライクな雰囲気だったとは到底思えないが「国家のため私心を捨てる」という志は互いに持っていたのかもしれない。いずれにしてもこの時代は、男も女も恐ろしく懐が深い。

 そんなわけで2日目の日程も無事終了。タクシーは今夜の宿、裏磐梯猫魔ホテルへ。すでに日が落ちて周囲は真っ暗闇だが、ホテルが檜原湖の目の前にあることだけは確認できた。はてさてどんな景色が広がっているのか。明日の朝が楽しみだ。 <第五章へ続く>