第五章〜花咲く会津へ 緑の東北へ

雪に感動し 雪に遊ぶ

 何はともあれ朝風呂である。ここ、裏磐梯猫魔ホテルの露天風呂は開放的で実に素晴らしい。目の前は檜原湖、のはずなのだが一面真っ白で良くわからない(夜は真っ暗でさらに良くわからなかったのだが、この季節は、ところどころにワカサギ釣りの小さな明かりが見えるんだとか)。それにしても全てが白い。まったくもって白い。こんなにクリーンな世界はなかなかお目にかかれないだろう。壮大な自然を前にしてこちらも一切隠すモノは無い。

 猫魔ホテルは、若松市内から車で30分ほど。我らがジャンボタクシーは、まずここに宿泊している私達を拾ってから、東山温泉にいる一行を乗せて目的地に向かうということで、私達の出発時間も30分早い。朝5時に起きて夜が白々と明けるのを楽しんだ後、急いで朝食を済ませ、ロビーで待機。ところが、約束の時間になってもタクシーが現れない。少し心配になって外を眺めると、昨晩の到着時には気がつかなかった純白の物体が目に飛び込んでくる。

 「かまくら」である。しかもかなり大きい。エントランスにいたホテルの女性に声をかけると、すぐに案内してくれた。この女性、ハイヒールなのに雪の中をズンズン進む。やはりジモティ、東京でたまに降る雪に対処できず、むやみに骨折するギャル達とは一線を画す、見事な歩行術である。こちらは付いて行くのが精一杯だ。

 雪国・福島出身ではあるが、私はかまくらを作った記憶がない。子供の頃、それらしきものをこさえようとしたことはあるのだが、壁を作るのが精一杯で、屋根まで到達しないのである。まぁ、屋根を作ったところで、一瞬のうちに崩壊したであろうが…。少年時代、家の前にこんな立派なかまくらがあったら、私は寒さを忘れ、一日中ここに籠もっていたであろう。クラスメイトが皆、校庭ではしゃぎ回る昼休み、私はただ一人図書室に籠もり、すべての書物を独占する愉悦に浸っているような変な少年だった。思えばそんな“孤独癖”が、いまだに続いているのだが…。

写真上から猫魔ホテルの露天風呂、同ホテル玄関前に設置されたかまくら、筆者の労作?「八重の桜赤べこ」、『番匠』2階で乾燥中の赤べこ胴体、大龍寺本堂、同寺の毘沙門天、鐘楼、日新館南門、磐梯山をバックにした大成殿と大学、館内で「什の掟」を解説する職員さん、一番下は元祖わっぱ飯『田季野』のエントランスで見つけた「八重の桜」のポスターと巨大な男根→

歴史の視点 表か裏か

 ホテルを後にして、タクシーは雪道を駆ける。3日目のスタートは八重が少女時代を過ごした山本家の跡地から。跡地と言っても、そこには普通の民家があるだけで、門前の小さな石碑に「山本覚馬 新島八重 生誕の地」と刻まれている。ここでふと、若松市内には殆ど何も残っていないのだという現実に気がつく。会津戦争が全てを焼き尽くしたのである。鶴ヶ城も、武家屋敷も、これから訪問する日新館も、昭和になってから復元されたもので、会津藩の痕跡が残されたのは初日に訪問した御薬園ぐらいなものである。それも、戦争中に官軍の傷兵診療所として使われたためであって、文化を残そうという意図からではない。

 戦争とは異文化の衝突であり、否定でもある。自らのアイデンティティーを正当化するために、他を徹底的に破壊する。私の理解では、破壊しないまでも自然に駆逐していく行為、或いはそれを促すことを、グローバリズムと呼ぶ。前にも触れたが、幕末期であっても「日本」という単一国家を意識していた人間はごくわずかしかいなかった。会津と長州は互いに全く「別の国」であるという意識で戦っていたのである。許す、許さないは別として、破壊も殺戮もレイプも、そういう意味では自然な行為だったのかもしれない。

 そして歴史は勝者のものとなる。開明的でスピーディーな薩長と保守的で愚鈍な会津という図式はこうして出来上がった。歴史を表から見るか裏から見るか、それは個人の自由だが、肝心なのは誰が「表と裏」を決めたたのかということだ。近年になって特定の史観を持たず、歴史は「表裏一体」という見方をする学者が増えてきた。昨年の大河ドラマで再評価された平清盛も、幕末の外交に奔走した岩瀬忠震などの若き幕臣たちも、今回の新島八重も、そうした「表裏一体」の見方から浮かび上がってきた人たちである。ただ八重の場合、大震災が原因で取り上げられたというのも事実だが…。

 とはいえ、裏の歴史、敗者の歴史を発掘するのは難しい。前述のように、すべてを破壊し尽くされた上に、勝者の都合で事実が歪曲され、敗者が沈黙を余儀なくされるからだ。会津も長い間沈黙してきた。戊辰戦争後、藩士達が故郷を追われ、北の“不毛の地”で暮らさなければならなかった歴史を知る人は少ない。そういう意味では、再建された鶴ヶ城も、武家屋敷も、日新館も観光のシンボルという表向きの役割とは別に、昭和になってやっと開封された、会津人アイデンティティーの復活作業に他ならないのである。

最も会津らしい場所

 とまあ、そんな自説に酔っている私を尻目に、タクシーは次の目的地へ。会津の郷土玩具「赤べこ」に自分で絵付けできる“体験ひろば”が人気の、赤べこ製造元『番匠』である。「赤べこ」とは、一言で言えば首を振る張り子の牛である。東北地方では全般的に牛のことを「べこ」と呼ぶ。全体を覆う赤(朱)は神社に良く見られるように魔避けの効果があり、斑点は痘を表しているといわれる。要するに天然痘に対する疫病よけの意味があったらしい。

 今では想像できないと思うが、武士が出現し、馬を使役する習慣が根付くまでは、平安時代の牛車のように、牛がもっぱら移動手段、運搬手段であった。菅原道真を祀った天神に必ず牛のオブジェがあるように、中世以前の日本で牛は最も身近で愛される生き物だったのである。そう考えると、この赤べこの由来が、大同2年(807)に柳津町の円蔵寺建立のために最後まで働いた赤牛だという説明書きも、多少の脚色はあるだろうが、かなり信憑性が高い。

 ふと気がつくと、取材陣一同は「そんなウンチクはどうでもいい」と言わんばかりに、黙々と絵付けに励んでいる。仕方がないので私も黙って筆を動かすことにした。赤は既に塗ってあるので、色は黒と白のみを使う。失敗しても修正できないので意外に難しい。それでも30分ばかりで写真のようなオリジナル赤べこが出来上がった。デザインは『八重の桜』にちなんで桜赤べこ。評判はイマイチだったが…。

 続いてタクシーは八重の先祖が眠る山本家の菩提寺「大龍寺」へ。こちらは信濃の戦国大名であり、一時蘆名氏の客分であった小笠原長時によって創建された桂山寺をルーツとする由緒正しい寺。かつて小笠原家の子孫が長州藩預かりの小倉城を守ったという史実があり、主君の祖先・長時の墓所があるという理由で長州藩の焼き討ちを免れ、御薬園同様、野戦病院として使われた貴重な遺構でもある。一般的には八重役の綾瀬はるかちゃんがNHKの番組で訪れ、元気な住職の奥さんが全国的に有名になったと言えば思い出す方も多いだろう。

 八重は、亡くなる前年の昭和6年(1931)、各所に点在していた山本家の墓を高祖父時代からの菩提寺であったこの寺にまとめ、墓標を建立した。墓標の表には彼女が書いたといわれる「山本家之墓」の文字があり、裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻まれている。さすがハンサムウーマン、なかなかの達筆だ。

 敷地内には迫力満点の毘沙門天が祀られた毘沙門堂や、番組ではるかちゃんも突いていた鐘楼がある。本堂裏には目黒浄定の手による庭園(御薬園の試作品とも)や「てくの坊」という小さな資料館もあるらしいが、積雪のため見学は断念。ただ、この寺の気取らない素朴な雰囲気は、会津らしいといえば最も会津らしいのではないか。八重が有名になるまでは観光地という認識すらされていなかった場所である。団体客の手垢が付く前にぜひ訪れてみて欲しい。

敗れざる魂

 さて、次に向かったのは、いよいよ今回のツアーのラスト、会津藩校日新館である。元々の建物は、かつては鶴ヶ城の西隣にあったが会津戦争で消失、唯一石組みの天文台だけが残っている。現在の日新館は当時の図面をもとに昭和62年に河東町の高台に復元されたもの。高台にあるから会津盆地が一望できて眺めも良い。実際に運動部の合宿等で使われるという弓道場や武道場の他に、日本最古と言われる水練場、つまりプールも再現され、テレビや映画のロケでもお馴染み。

 会津藩の上級藩士の子弟は数えで10歳になると日新館に入学。15歳までは素読所(小学)に属し、礼法、書学、武術などを学ぶ。素読所を修了した成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、さらに優秀な者には江戸や他藩への遊学が許された。日新館の名声は全国に及び、かの吉田松陰も東北旅行の際に訪れたというエピソードは「八重の桜」でも描かれていたが、東北の一地方都市にあって、この教育水準の高さというのは異例中の異例であったと思われる。

 とはいえ、現代の日新館はあくまで観光施設である。栃木県足利市の足利学校などもそうだが、もともとが学校なのだから、美術的な装飾や面白いアトラクションがあるわけでもなく、規模はなかなか大きいが、観光施設としては地味で真面目過ぎるほど真面目。それが悪いとは言えないが、どことなく中途半端なのである。これは、会津が観光地として飛躍するための今後の課題と言えるだろう。

 さて、以上が「復興ツアー」の一部始終だが、会津若松が京都や沖縄のような“全国区”の観光地になるためには、文字通り「復興」が鍵となるはずだ。今までのイメージは良くも悪くも「歴史の被害者」という位置づけであり、白虎隊のような悲劇を過剰にクローズアップすることで成り立っていたように思う。

 しかし、会津若松の真価は八重が持っていた“敗れざる魂”にあるのではないか。戊辰戦争の敗戦にも下を向かず、常に前を向き「ならぬものはならぬ」と自己の信念を貫き通してきた会津人の歴史こそ、日本全国に、いや世界に誇れる遺産なのではあるまいか。国破れて山河あり。物質は失われても魂は残る。

 そういう意味で、会津を「悲劇の敗戦地」から「敗れざる魂の地」「日本人の誇りを取り戻せる場所」として、震災復興のシンボルにしていくことも可能なのではないかと思う。街の開発やインフラ整備も重要だが、もっと大切なのは復興へのモチベーションである。誇りを失ったままでは人は立ち上がれない。東北人としての誇りを取り戻すことこそ、最大の原動力になるのだ。政治や行政にばかり頼らずに、今こそアテルイの時代から何度も中央権力に踏みつぶされながらしたたかに生き残ってきた、東北人の底力、敗れざる魂を見せる時ではないだろうか。そして、私達にできるのは東北をバックアップすること。最も手っ取り早いのは、現地に行って、お金を落とすこと。そして、地元に暮らす人たちを少しでも笑顔にすることだと思う。さあ、待ちに待った春もやってきた。花咲く会津へ、緑の東北へ行こうではないか。<次回へ続く>

↑最後に会津のグルメをご紹介。初日の昼食から。写真上段左からわっぱ飯、会津の代表的な郷土料理こづゆ、まんじゅうの天ぷら、下段左は大内宿名物・生の葱を箸代わりに食べるねぎそば(以上元祖輪箱(わっぱ)飯『田季野』)、2日目の昼食は風情ある町並みが印象的な七日町にある渋川問屋で。下段中央は大正ロマンの香りを残す「開化亭」、右は祭り御膳「鶴」。内容は食前酒・棒タラ煮・ニシンの山椒漬・こづゆ・ニシンの天ぷら・ニシンの昆布巻・そば粒がゆ・季節の混ぜごはん・水菓子