第四章:冥界・怨霊・魑魅魍魎(後編)

怨霊も神様のうち?

 最終章は素朴な疑問から…。普段から怖いものに対して「幽霊」とか「お化け」とか「妖怪」とか「バケモノ」とかいろんな言い方をしますけど、それって明確な区別というか、ジャンル分けというか、独自の特徴ってあるんでしょうか。そんなことど〜でもいいって言われたらそれまでなんだけど。

 例えば、幽霊って目に見えるけど実体があるのかないのかわからないものですよね。しかも幽霊はほぼ人間の姿をしているけど、お化けとか妖怪は明らかに違う。幽霊というのは現実の肉体ではなくて、霊魂、つまり精神が生前の姿になったイメージですよね。ということはまず最初に、肉体と精神は別のもので、肉体は滅びても精神は残るという考え方があるわけです。

 昔の日本人に、死んだ肉体が蘇るという“ゾンビ”的(ブードゥー教的)な発想がなかったのは、前章で触れたように、土葬より火葬や風葬が一般的だったことや、肉体は必ず滅びるという前提があったからだと思うんですよね。「朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となる」という日本的無常観は、肉体(現世)の儚さを表現していますが、精神の死を表しているわけではありません。

 では肉体が滅んだ後、精神はどこへ行くのか。それが前章のテーマでしたよね。仏教の教えでは生まれ変わって新たな肉体を得るわけですが、肉体の死を精神が受け入れなかった場合はどうなるのか。それが第四章、最初のテーマです。ちょっと前置きが長かったかな。

 肉体から離れた精神を「霊」と呼んでいますが、戦死とか事故死のように、自分で納得する前に突然肉体が滅んでしまうと、霊は行き場を失う…。それを「浮遊霊」というそうですが、これが一般的な幽霊の概念。ですから、浮遊霊の場合、見た人が勝手に怖がっているだけで、別に他人を脅かそうとか何かしてやろうという意思はないと考えられます。これとは別に、明らかに意思を持って現世で悪さをする霊を悪霊、悪さをする原因が現世での仕打ちに対する恨みであった場合「怨霊」と呼ばれるわけです。

 「怨霊」は死者(死霊)に限らず、生きている人間の恨みが肉体を離れて動く場合もあって、これが「生霊」。どうしてそんなことまで説明するのかと言うと、この「怨霊」というのが、京都の寺社を語る時に絶対外せないキーワードだからです。

 菅原道真、平将門、崇徳天皇の3人を「日本三大怨霊」と呼ぶそうですが、共通しているのは、何らかの争いごとで不遇な人生を送ったり、非業の死を遂げたということ。そして当人の死後、関係者に不幸があったり、疫病や天災が発生していること。当時の人たちは、その原因は彼らの恨みであり、怨霊が「祟り」を及ぼしたと考えたわけです。

 近世以降、仏教が大衆化してからは手厚い法要によって「成仏」していただく、つまりあの世へ行っていただくという解決法が一般的になるのですが、中世以前の社会では、彼らを神格化し、神として扱う(祟り神)ことで、怒りを鎮めていただこうと考えたようです。これを御霊信仰といい、平安時代にその端緒が見られます。

祇園祭のルーツは御霊会

 御霊信仰の面白いのは、そもそも鎮魂が目的だったのに、怨霊が天災を起こすほどのパワーを持っているのだから、そのパワーを使って、逆に災いを消してくださいという願望に転化したこと。生前は立派な人だったのだから、恨みなんか忘れて私達のために働いてくださいね、というある意味虫のいい? 発想なのですが、現代の私達も無意識のうちに御霊信仰の神社にいって身勝手なお願いをしているわけですから、笑えませんよね。

写真上から祇園会館の真裏にある崇徳天皇御廟、上御霊神社、下御霊神社、安井金比羅宮→

 例えば、受験の時にお願いに行く全国の天満宮(天神)はすべて菅原道真を祀ったものですし、御首神社、築土神社、神田明神、国王神社は平将門、白峰宮や白峯神宮は崇徳上皇。特に京都は御霊信仰発祥の地だけに、上御霊神社、下御霊神社、北野天満宮がその代表格といえます。当時はこういった神社が建立される前に、「御霊会(ごりょうえ)」という慰霊会が催されていたのですが、その会場が前回ご紹介した神泉苑だったようです。

 御霊会の対象は怨霊だけではなくて、スサノオノミコトや牛頭天王といった「荒ぶる神」も対象だったようです。貞観5(863)年に開催した御霊会は、牛頭天王を祀って疫病の蔓延を止めてもらおうというもので、牛頭天王が仏教の聖地である祇園精舎の守護神であることから「祇園御霊会」。これが祇園祭の発祥だそうです。日本は神とホトケを一緒くたにする「神仏習合」の国ですから、いつの間にかスサノオと牛頭天王は同化し、祇園寺は祇園社に、さらに明治時代の「神仏分離令」によって八坂神社という名前になり、結局「祇園」という地名とお祭りだけが残ったというわけ。

“生霊”が一番怖い?

  さて、三大怨霊のうちでも最強?と言われる崇徳天皇ですが、東山にある安井金比羅宮も慰霊のための神社のひとつ。もともとはお寺だったのですが、やはり明治の神仏分離令で神社になりました。すぐ近くの目立たない場所に御影堂(崇徳天皇御廟)もあるので、お参りの際は要チェック。この神社、今や若者人気で連日賑わっているのですが、その理由は縁切りや良縁結びのご利益があるから。でも、そもそも金比羅宮というのは海上交通の守り神で、縁結びとは全く関係ないのですが、崇徳天皇が「讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って参籠(おこもり)された」というエピソードが“縁切り”のご利益を呼び、そこから派生して「悪縁を切る代わりに良縁を結ぶ」ということになったようです。かなり強引な気もしますが、これが典型的な“虫のいい”御霊信仰かも。

 実際に行ってみると、若い女性の大行列が…、なにかと思ったら「縁切り縁結び碑(いし)」の順番待ち。「形代(かたしろ)」という身代わりの御札がビッシリと貼られたこの石は、表から裏へ穴をくぐると悪縁が切れ、次に裏から表へくぐると良縁が結ばれるのだそうです。

  それはそうと、そこの彼女、そんな格好でくぐったらパンツ丸見えだよ! なんて言いたくなる光景もちらほら。でも、事情通によれば、この神社の隠れた名物は大量に納められた絵馬。人の書いた絵馬を見るのはあまりいい趣味ではありませんが、裏面が出ているのでついつい目に入ってしまいます。その文面のなんとも恐ろしいこと…。「息子が嫁と別れますように」とか「○○が会社を辞めますように」とか、実名で書いてあったりするので、本当に怖いのは死霊ではなくて生霊の方なんだと実感した次第。

悲劇の英雄たち、その末路

 残る三大怨霊のうち、菅原道真は福岡取材の際に太宰府天満宮で取り上げているので、最後の一人、平将門ですが、東京の人なら大手町にある「首塚」で有名ですよね。京都で斬首され、晒されていた首が関東各所まで飛んできたという伝説があります。撤去しようとするたびに何らかの“祟り”が起きるというのも、三大怨霊の面目躍如?という感じ。

 そんなわけで、第四章2番めのテーマは、京都に残る「首塚」を巡ってみようという、いささか悪趣味?な企画。意外な場所に意外な人物の首塚があるので、これから京都ダークサイドツアーを計画中の方はご参考に。

 まず最初は、源義経と並ぶ平家滅亡の立役者・源義仲。義朝(頼朝や義経の父)と義賢(義仲の父)の兄弟紛争で義賢が破れ、子供の頃から成年まで信濃国木曽谷に隠れていたことから通称・木曽義仲。治承・寿永の乱(源平合戦)の緒戦でめざましい活躍を見せ、京都から平氏を追い出した立役者として有名ですよね。

 この人も将門同様、“悲劇の英雄”のひとり。山育ちで、京の公家文化に馴染めなかったことや、洛中の治安回復が遅れたことが災いして朝廷勢力を敵に回し、遅れて挙兵した頼朝とも対立。それまでは破竹の勢いで「朝日の将軍」と称された義仲でしたが、宇治川の戦いで頼朝軍に破れ、近江国粟津(滋賀県大津市)で討ち死にします。享年30歳。その首は京で晒された後、法観寺の近くに埋められました。

 法観寺と聞いてピンとこなくても「八坂の塔(五重塔)」と言えばおわかりになるかと思います。祇園〜東山界隈のランドマークにもなっていますよね。この八坂の塔があるのが法観寺。聖徳太子創建と言われる由緒あるお寺です。今回、このお寺に義仲の首塚を探しに行ったのですが、残念ながらこの日は非公開。ただ、間違いなく境内に石塔があるということなので、事前に電話で確認してから行ってみてくださいね。通常内部までは見せない五重塔ですが、八坂の塔の場合、2層目までなら拝観できるそうです。

心変わりは男の常?

 次に向かったのが、嵐山・嵯峨野方面。嵯峨野は洛西の郊外にあたるので、平安貴族たちは「西郊」なんて呼んで狩りやピクニックに来ていたようです。昔から風光明媚な土地だったんですね。嵯峨天皇の離宮だった嵯峨院が、天皇崩御に伴って大覚寺になり、これ以降、お寺や別荘の建設ラッシュが始まります。そのひとつが小倉山荘で、ここで藤原定家が編纂したのが有名な「小倉百人一首」。そんな雅やかなイメージとは裏腹に、少し先の化野は三大風葬地のひとつだったわけですから、当時の人たちの感覚がよくわかりません。

←写真上から法観寺五重塔(八坂の塔)、祇王寺、滝口寺の新田義貞首塚

 最初の訪問先は首塚とは関係ない祇王寺。「平家物語」に残る、祇王(妓王)という白拍子の悲しい伝説が残る小さな草庵です。白拍子というのは舞を披露する芸人なのですが、義経の愛した静御前も白拍子でした。その衣装は、烏帽子を付けて、刀を腰に差すという紛れもない男装。もしかしたら宝塚歌劇団の“元祖”かも。祇王は一時、平清盛の寵愛を受けるのですが、清盛は仏御前という他の白拍子に心を奪われ、悲しんだ祇王は21歳の若さで母、妹と共に仏門に入ります。そのお寺が嵯峨往生院で、現在の祇王寺。

 その後祇王が清盛を恨んで怨霊になったなんて話は聞きませんから、ここで心静かに、つつましやかに暮らしていたんでしょうね。この時代の女性は生活手段が限られていますから、生きていくのが大変だったと思います。そんな哀しみを包み込むように広がる一面の苔、これが祇王寺の代名詞。今回は真夏だったので、周囲の竹林も含め、境内は見事に緑一色。秋には紅葉の赤と苔の緑が美しいコントラストを見せるそうです。よ〜く見ていると、苔ってみんな同じようで全然違う。それぞれ形に個性があって面白いですよ。

夫の首を見て仏門に

 この祇王寺のちょうどお隣にあるのが滝口寺。祇王寺の入り口のすぐ左手から入るのですが、最初それがわからなくて右往左往。看板も地味で目立たないので、何度も迷ってしまいました。この滝口寺も「平家物語」に登場する、平重盛の家来・斎藤時頼と建礼門院の侍女・横笛の悲し過ぎる恋の舞台です。思いを寄せ合った二人なのに身分違いということで結ばれず、時頼は思いを断ち切ろうと仏門に入って滝口入道と名乗ります。その後噂を聞いて横笛が訪ねてきますが、滝口入道は修行の妨げになるからと、二度と会うことはなかったとか。そこまで思い詰めなくても…。なんて現代のワタシは思いますが、そういう人生を賭けた恋というのも一度はしてみたいなぁ…。

 とまぁ、それはさておき、ここに来たのはもちろん首塚があるから。簡素な山門をくぐると、すぐ目の前に現れるのが新田義貞の首塚です。「太平記」主役の一人として、その活躍に胸踊らせた方も多いと思います。平氏滅亡における木曽義仲と同様、新田義貞も鎌倉幕府を滅ぼした立役者。この2人の共通点は、先に功績を挙げながら、朝廷側の権謀術策に振り回され、源頼朝、足利尊氏というライバルに主役の座を奪われてしまうという不運。しかも義貞の場合、最後まで南朝に忠義を貫いての戦死(「太平記」では越前国藤島で致命傷を負ったため自害)ですから、哀しさもひとしお。

 義貞の首は都大路を引き回された上に晒し首になるのですが、夫の変わり果てた姿を悲しんだ夫人の勾当内侍(こうとうのないし)はすぐに剃髪し、仏門に入ります。それが、かつてこの地にあったという往生院で、義貞の首は勾当内侍が盗み出して、秘かにこの地に葬ったと伝えられています。享年37歳。首塚の左側には、その勾当内侍の供養塔も。あ〜、またしても悲しい女性の運命を見てしまった…。

敵将の隣に埋めて欲しい…

 嵯峨野から清凉寺をめざして歩く途中、立ち寄ったのが宝筐院(ほうきょういん)。控えめな山門をくぐって、案内されるままに小さな木戸を開けると、目の前に突然現れる別世界。新緑の美しさに息を呑みます。こんな場所にこんな美しいお庭があったなんて!

 ここに来たのは、楠木正行(まさつら)の首塚があるからなのですが、そんなことは忘れて、しばらくの間その美しさに見とれていました。しかも、この日はほぼ貸切状態! なんて贅沢な…。 あ、話を先に進めないと。宝筐院はもともと善入寺といって、白河天皇が国家鎮護を祈願して建てた皇室のお寺。その後伽藍を整備したのが室町幕府の二代将軍足利義詮(よしあきら)なのですが、とても不思議だったのは、楠木正行の首塚を探し当てたら、義詮の墓の隣に仲良く並んでいたということ。えっ? 楠木正行と言えば楠木正成の息子で、「太平記」屈指の名シーン「桜井の別れ」(湊川へ向かう前、死を覚悟した正成が、正行に今生の別れを告げるエピソード)で多くの涙を誘ってきた若武者ですよね。一方の足利義詮は足利尊氏の息子ですから、完全に敵同士じゃないですか。

 写真上から宝筐院の庭園、足利義詮墓所と楠木正行首塚、清凉寺と豊臣秀頼首塚→

 実は、これは「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(善入寺)の楠木正行の墓の傍らで眠らせ給え」という義詮の遺言によるものなのだそうです。尊敬していた敵将の隣に埋めてくれ、なんてなんだかいい話じゃないですか。正行の最期は四條畷の戦い。ここで破れ、弟の正時と刺し違えて自決しました。その首は生前から親交が深かった善入寺(観林寺)の黙庵禅師が弔いました。同様に黙庵を師と仰いでいた義詮は黙庵から正行の人柄を伝え聞いて、その死を惜しみ、少しでも近づきたいと思ったのかもしれませんね。正行の死から19年後のことでした。正行は享年23歳(諸説あり)、義詮は享年38歳。

結局、誰の首?

 嵐山・嵯峨野のラストは清凉寺。別名嵯峨釈迦堂。比較的こじんまりしたお寺が多い嵯峨野にあって、大覚寺や天龍寺と並ぶ大伽藍です。この地は「源氏物語」の光源氏のモデルと言われる源融の別荘があった所で、融の死後、生前の希望もあって棲霞寺というお寺が建立されたそうです。その後、境内に新たに五台山清凉寺が建てられ、室町時代になって浄土宗のお寺になりました(本当はもっといろいろあるのですが、字数の都合上ムチャクチャはしょってます)。この清凉寺に何があるかと言えば、あの豊臣家最後のプリンス・豊臣秀頼の首塚があるのです。

 秀頼と言えば、大阪夏の陣で母の淀君と共に大阪城で自害。天守閣の裏手にその現場らしき場所がありますよね。でも、首なんか残ってたの? と思ったアナタは鋭い! 本能寺の変での信長もそうでしたが、敵に遺体を渡さないために燃え崩れる城の中で、誰にもわからないように自害するわけですから、本来、遺体など残っているはずがないのです(それが根強い秀頼生存説につながっています)。実はこれ、割と最近の話なのですが、昭和55(1980)年に大阪城三の丸の発掘調査が行われ、その際1人の頭蓋骨と首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見されたそうです。頭蓋骨は20代男性のもので、顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認されました。遺体の傍らには『吉光』の銘の入った刀があったため、秀吉から『吉光』を贈られた秀頼の骨ではないかということになったそうです。

 ということで、確証はありませんが秀頼の首だったらきちんと弔いましょうということで、昭和58(1983)年に清凉寺にその骨が埋葬され、首塚が造られたというわけ。なぜ清凉寺かと言えば、慶長7(1602)年に本堂を寄進したのが秀頼だったという経緯があります。この時の本堂は、残念ながら嵯峨の大火で燃えてしまいましたが…。ところで、秀頼といえば時代劇に出てくるイメージは色白できゃしゃなお坊ちゃまという感じですが、実際は身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(約161kg)というプロレスラーかお相撲さん並みの巨漢だったそうです。父親の秀吉は140cm台と、当時としても小柄な人でしたから、家臣の間で秀吉の子ではないという噂が出たのも無理からぬ話ですよね。

桔梗の花が何かを語る

 さて、首塚ツアーの最後を締めくくるのは、明智光秀。再来年のNHK大河ドラマの主人公というわけで、注目度が赤マル急上昇中。しかも、本能寺の変を巡るさまざまな謎や、実は生存していて江戸時代に活躍した南光坊天海ではないかという説もあって、とにかく話題の多い人物ですよね。

←写真上から光秀の首塚、傍らに咲く桔梗の花、白川と行者橋、親水テラス(動画)

 一般に知られる光秀の最期は、山崎の合戦で秀吉軍に敗れた後、坂本城を目指して落ち延びていた途上、百姓の落ち武者狩りにあって深傷を負い、自害したということですが、その首の行方は諸説あります。まず亀岡市の谷性寺や宮津市の盛林寺など、光秀ゆかりの寺にひそかに運ばれ、埋葬されたという説。実際に首塚も残っています。しかし、「信長公記」で有名な太田牛一による「光秀が自分の首は毛氈鞍覆に包んで知恩院に届けてくれ」と言い残したという話や、吉田神社の神主だった吉田兼見の「兼見卿記」にある「一時竹やぶに隠されていた光秀の首は、発見後まず本能寺でさらされ、その後17日に捕まり斬首された斎藤利三(光秀の重臣)の屍とともに、京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた後、6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた」という記述が最も信憑性が高いのではないかと思います。

 このふたつを合わせたような伝承として、「(介錯した)家臣の溝尾庄兵衛が光秀の首を知恩院に届けようと三条通白川橋付近まで運んだものの、夜が明けたためにこの地に埋葬し、溝尾も自刃した」というものもあるのですが、これらの話で登場する「知恩院の近く」「粟田口の東の路地の北」「三条通白川橋付近」というキーワードから推測すると、「東山区三条通白川橋下る梅宮町」に現存する小さな祠と石塔が、正しい?光秀の首塚と考えて良いのではないかと思います。

 その場所は、地下鉄東西線東山駅を降りて、三条通から白川に沿って南に歩くこと5分程度。「餅寅」という和菓子店の角を少し曲がったところにあります。あまりに目立たない場所なので少し戸惑いますが「知恩院の近く」「粟田口の東の路地の北」「三条通白川橋付近」という全てに一致します。小さなスペースですが、ちゃんと光秀の木像が安置された小さな祠と古い五輪塔、戒名を刻んだ石碑があります。そして傍らにひっそりと植えられた桔梗の花。これは明智家の家紋「桔梗紋」にちなんでいるのでしょう。実はこの首塚、「餅寅」さんが250年もの間代々管理してきたのだとか。そう考えると名物「光秀饅頭」がもっと売れてもいいんじゃないかと思うほど。

 ところで、この日は記録的な猛暑だったのですが、この塚がある白川界隈では、川を渡る風と揺れる柳並木が一服の“涼”を運んでくれます。この川を南に下っていくと知恩院の参道、さらにその先には祇園の町並みがあるのですが、この辺りは静かな住宅地で、観光客もまばら。人がいないのをいいことに、古門前橋近くの「親水テラス」で草履を脱ぎ、川に足をつけて、年甲斐もなくはしゃいでしまいました。 あ〜冷たくて最高!  人ひとりがやっと渡れるような幅の石橋も、おっかなびっくり渡ってみました。この石橋、行者橋といって、天台宗の修行のうちでも最高の荒行とされる千日回峰行を終えた行者が、入洛する際、最初に渡る橋なのだそうです。幅なんと60cm! 荒行でフラフラの状態で渡るって、ちょっと厳しくないですか? でも、落ちても大丈夫そうですよ。川は浅いし、水はきれいだし…。

開発放棄が生んだバケモノ

 平安時代、京都の人々が恐れていたのは怨霊だけではありません。蓮台野の説明でも触れましたが、平安京には構造的な欠陥があって、まず京都盆地は北東から南西にかけて土地が傾斜しているため、洪水などが起こると南西部に水が溜まりやすく、豊富な地下水脈もあって古来から大規模な湿地帯になっていました。

 そのため、平安京の西側(右京)は造成当初はある程度宅地として機能していましたが、洪水を繰り返す度に衛生状態も悪化、疫病も蔓延して遺体も放置されるなど、次第に荒れるに任せるような状態になっていきました。以来、そのじめじめと腐敗した土地から、人間でも動物でもない何か得体の知れないものが生まれ、都の平安を脅かすようになります。

 この時代、夜になれば月明かりの他に外を照らすものは無く、月も出ない日は一面、漆黒の闇になります。人々は次第にその闇に潜む“何か”を意識するようになり、「妖怪」や「物の怪」「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」などと呼ぶようになります。やがてそれらは、さらに強い力を持って実害を及ぼす鬼や天狗、鵺(ぬえ)、土蜘蛛、牛鬼、火車といった怪物としても意識されるようになり、いつの間にか都は得体の知れないものたちが跋扈する魔界都市に変貌していきました…。とまぁ、すべて当時の人たちの想像が生み出した世界なんですけどね。

 こうした厄介な連中を封じるため、朝廷は“魔界封じ”の専門家育成と登用に乗り出します。その代表が陰陽師(おんみょうじ)であり、史上最強の陰陽師こそ、最近では羽生結弦くんの優雅な舞でブームとなった安倍晴明でした。

 安倍晴明は延喜21(921)年生まれということなので、平安京が誕生してすでに130年近く経過していたことになります。清明誕生の年に菅原道真が死去、この頃から都は強力な怨霊の恐怖に支配されることになります。ちなみに、平将門の乱が起こったのは清明18歳の時。唐が滅んだのが907年ですから、不要になった朱雀大路や右京の荒廃も進んでいたと考えられます。そう考えると、清明の登場は実にタイムリーだったと言えますよね。

 母親が葛の葉という狐だったとか、いろいろと超人的な伝説の多い人ではありますが、若い頃の記録として残っているのは、陰陽師であった賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたということ。陰陽師というのは街角の占い師や怪しげなエスパーの類ではなく、中務省の陰陽寮に務めるれっきとした官吏。今で言う国家公務員でした。

 陰陽師が扱うのは古代中国の陰陽五行説をベースに、日本独自の進化を遂げた「陰陽道」に基づく易学や、土地の吉凶を占う地相、天文学や暦学、水時計を使った時間管理などですが、そういった情報を集約することで、事前に危険を察知する、或いは危険を避けるための情報を提供するのが主な役目でした。例えば、このイベントはいつ行ったら良いかとか、この日はこの方角にでかけても良いかとか、当時の貴族たちは日常の細かい行動にまで吉凶の判断を必要とし、いちいち陰陽師のアドバイスを聞き、それによってスケジュールを立てていたようです。

 そこまで吉凶判断に神経質になった背景には、怨霊や物の怪への過度な恐怖心があったと思います。何しろ、火事も地震も落雷も飢饉も伝染病も、すべてが怨霊や物の怪たちの仕業なのですから、すべてが命にかかわること、国家の存亡にもかかわることだったわけです。

嫁入り前なのに行っちゃった

 というわけで、まずは行ってみました、晴明神社。安倍晴明の屋敷があった場所に建てられた神社です。北側を通る一条通は平安京スタート時の北の端(一条大路)に当たり、東側は堀川通に面し、これは当時の御所(大内裏)の東端(大宮小路=現大宮通)から東へ2本めの道路、堀河小路に当たります。

 この場所はちょうど大内裏の北東、つまり鬼門に当たる場所ですから、清明の屋敷は“鬼門封じ”の役割を兼ねていたことがわかります。特に一条通が堀川をまたぐ一条戻橋は、延喜18(918)年に文章博士・三善清行がこの橋で蘇生したことから「魂が戻る橋」ということで「戻り橋」と言われ、渡辺綱と鬼女を巡る物語の舞台にもなっています。つまり、この橋もこの世とあの世の境界線である「六道の辻」のひとつと捉えられていたようです。

 清明はこの橋の下に「式神」という鬼神を隠していて、自分が行けない場所に派遣して情報収集を行うなど、スパイのように使っていたと言われています。もともとは清明の屋敷の中にいたらしいのですが、清明の奥様からの「気味が悪い」との一言で、橋の下に待機させておくようになったとか。最強の陰陽師も奥様には勝てなかったようですね。

 「出戻り」を嫌ってか、嫁入り前の娘はこの橋を渡ってはいけないという古くからの言い伝えがあるそうですが、みんな普通に通っているので、嫁入り前のワタシも渡った上に、式神がいたという橋の下にも降りてみました。橋の下は整備されて遊歩道もあるのですが、木々がうっそうと茂っていて、結構不気味な雰囲気。冷気というか霊気?が漂っているような感じがして、確かに何か隠れていそう。

 神社の鳥居より手前に、大正時代に架けられた戻り橋の遺構がミニサイズで置かれているのですが、傍らにはちゃんと式神さんが。想像していたより可愛い感じ。でも、この式神を使って相手を呪い殺すこともできたそうで、その際に、相手が自分より力が上の陰陽師だった場合、逆に送り返されて、自分の放った式神に殺されてしまうのだそうです。式神というのはどんなものにでも憑依できるそうで、デモンストレーションを強要された清明が、渋々木の葉を使って蛙を殺して見せたという逸話もあります。

写真上から『不動利益縁起絵巻』に描かれた清明と式神、一条戻橋と橋の下の遊歩道、晴明神社に再現された大正時代建造の戻橋と式神像、清明神社境内の清明像、セーマンドーマン、晴明神社鳥居前に咲く桔梗の花、清明蘇生伝説が残る真如堂三重塔の前で→

セーマンドーマン

 そんな平安京のスーパースターですから、さぞかし若い頃から注目されていたのかと思いきや、40歳の頃でも天文得業生という学生身分で、50歳頃にやっと天文博士になり、頭角を現し始めたのは、師の保憲が亡くなってからだといいます。清明は83歳で亡くなっていますから、当時の平均寿命を考えるとかなりの長生きだったと言えますが、それにしても才能に比べて出世はかなり遅かったようです。

 それでもアラカン世代になって、花山天皇から信頼されるようになると、あの藤原道長にも信頼され、病気平癒や雨乞いなどの祈祷で実績を積んでいったようです。その後も重要な官職を歴任し、陰陽師としても賀茂氏と並ぶ二大勢力を確立。これが後の土御門家(安倍氏嫡流)であり、明治維新後も華族として扱われることになります。

 そういった史実だけ見ていると、現実の清明と伝説化した清明にはかなりのギャップがあるようですが、現代の視点で見ると、清明は天文学や科学、数学に長けた“理系”のエキスパートであり、そうした科学的裏付けをもとに占術を行っていたようにも思えます。その点が、科学的知識の乏しい周囲の人間からはマジシャンのように見えたのかもしれません。そう考えると、清明は厄災をなんでも怨霊とか物の怪のせいにしてしまう貴族たちに対して、近代的合理性をもって予知したり、解決策を講じたりしたのかもしれませんね。あくまでワタシの勝手な推測ですけど。

 ただ、清明の超人ぶりを語るエピソードには、それだけでは説明のつかないことも多々あるので、生まれつき何らかの特殊能力が備わっていたと考えたほうが自然だと思います。出世が遅れたのも、異能の者に対する周囲の恐怖心や賀茂一族のジェラシーがあったからかもしれません。

 ところで、安倍晴明と言えば桔梗紋で有名ですよね。桔梗紋といっても明智光秀の家紋とは違って、星型とか五芒星と言った方がわかりやすい形です。志摩の海女さんは伝統的にこの清明判文と、九字護身法を形にした九字紋を身に着けていて、セーマンドーマンと呼んでいるそうですが、これは清明と清明のライバルだった芦屋道満のことではないかと言われています。取材した時はちょうど桔梗の季節で、神社にはたくさんの桔梗が花開いていました。

 京都にはさまざまなところに清明の伝説が残っていて、金戒光明寺の隣りにある真正極楽寺(通称は真如堂)には、清明の蘇生伝説が残っています。晴明が急死した際、閻魔大王のもとへ引き出されたのですが、晴明が自宅でまつっていた不動明王がその場に飛来して、「この者は定業にて来る者に非ず。いまだ娑婆の報命尽きずといえども、その難病に侵され養生叶わずして遂に命終す。すなわち横死なり。今一度娑婆へ返したまえ」と命乞いをしたと言います。閻魔大王はこれを聞き入れ、晴明を蘇生させたというお話。この時閻魔大王から授かったという金印(決定往生の秘印)が、このお寺に残っていて、陰影にははっきりと五芒星が描かれています。

 実はこの五芒星、明治初期から太平洋戦争直前まで、帝国陸軍将校の正帽など、さまざまなデザインに使用されています。弾除けの意味ではないか等諸説あるようですが、陰陽道自体は、明治政府の意向で「迷信」として廃止されているので、不思議といえば不思議ですよね。

百鬼夜行もイベント化?

 ところで、“清明伝説”のひとつに、こんなエピソードがあります。「安倍晴明が若かりし頃、夜間、師の賀茂忠行に随伴して歩いていた。その際、いち早く複数の鬼を発見した晴明は、寝入っていた忠行を起こして事態を報告する。急を知った忠行は術により鬼どもを退けた。このことで忠行は晴明の見鬼の才を知り陰陽道を教え授け、晴明もそれを瓶に水を移すが如く吸収した」

 ここで登場する「百鬼夜行」というのは、深夜に徘徊する鬼や妖怪の群れ。妖怪パレードみたいなものですかね。このパレードに出会ったら最後、大病を患うか、運が悪いと死んでしまうということで、当時は百鬼夜行が出ると予想される日(忌夜行日)は、貴族たちは外出を控えたそうです。

←写真上から河鍋暁斎の筆による百鬼夜行、一条通妖怪ストリートの一角、大将軍八神社方徳殿前の大将軍半跏像

 その百鬼夜行がよく目撃されたのが清明屋敷のあった一条通。そして現代の一条通で、百鬼夜行と妖怪たちを町おこしに使おうと考えたのが「一条通妖怪ストリート」。西大路から中立売通までおよそ400mの範囲で、普段は手作り感満載の自作?妖怪たちが「昼間は明るくて嫌だな〜」という感じでお店の前に鎮座しているのですが、毎年秋(昨年は10月14日)になると妖怪仮装行列「一条百鬼夜行」、妖怪アートフリマなどのイベントが開催されて、全国の妖怪好きで賑わうのだそうです。

 実際ここに来るまでは凄く楽しみにしていたのですが、正直ゲゲゲの○太郎でお馴染みのあの世界観だと思っていたので、違う意味で衝撃的…。歩いても名物になりそうな妖怪さんには会えなかったんですけど(失礼)、これはこれでとても味があるし、変に媚びたり流されていない分、私は好きになりました。観光地化されていないチープな場所、キッチュな場所へ行きたい方はオススメですが、インスタ映えは微妙かも…。

 また、この通りには京都の北の守護神、大将軍八神社があります。平安京造営時には、東西南北それぞれに大将軍神社を配置して四方の守護神にしたそうですが、そもそも大将軍というのは、陰陽道において方位の吉凶を司る八将神のひとつで、魔王天王とも呼ばれる大鬼神なのだとか。建築や転居、旅行などの際に、方角の吉凶を司る神なのだそうです。ここにも陰陽師の影が見えますよね。境内には「方徳殿」というミュージアムがあって、80体の木造大将軍神像や、古天文暦道資料などが収蔵されています(見学は要予約)。

 というわけで、今回の京都ダークサイドツアー、いかがでしたか? 怨霊とか妖怪とか、昔の人は想像豊かだなぁ、なんて思ったアナタ、もしかしたらアナタには見えないだけで、意外と近くにいるのかも…。特に京都にご旅行の際は、ご用心。ご用心…。(おわり)