第一章:一杯のコーヒーから♪

 季節ごとにテーマを決め、ゆったりしたスケジュールで古都を歩く。日本の原風景を求めて…。そんな旅こそ“アラカン世代”にふさわしいのではないだろうか。第9回目は、魅力的なカフェが街中に溢れる港町・神戸。

カフェそのものが文化である

 カフェという言葉には特別な響きがある。1910年代から20年代、いわゆる“狂乱の”パリ・モンマルトルでは、カフェはさながら芸術家たちの“梁山泊”であり、いつ果てるともない芸術談義の場であった。日がな一日、ピカソ、マティス、モディリアーニ、藤田といった画家連中は代金の代わりにデッサンを描き、ヘミングウェイのようなアメリカの作家たちは、カフェを仕事場にペンを走らせた。

 そのヘミングウェイがパリ時代を回想した晩年の作品『移動祝祭日』(新潮文庫)にこんな一節がある。「そこは暖かくて、清潔で、心なごむ、快適なカフェだった。私は着古したレインコートをコート掛けにかけて乾かし、くたびれて色褪せたフェルト帽を長椅子の上の帽子掛けにかけてからカフェ・オ・レを頼んだ。ウェイターがそれを運んでくると、上着のポケットからノートをとりだし、鉛筆も用意して、書き始めた」(サン・ミシェル広場の気持ちのいいカフェ/高見浩訳)

←写真上からパリ特派員時代のヘミングウェイ、ゴッホ作『夜のカフェテラス』クレラー・ミュラー美術館蔵

 カフェとは、本来ならコーヒーの意味である。それがいつしかパリやウィーンで、街路に面した居心地のいいオープン型飲食店の代名詞となり、“街の社交場”としても発展していった。一方で、イタリアやスペインではカウンターで立ち飲みする形式のバールが一般化した。

 日本でカフェといえば明治末期に開店した大阪の「カフェー・パウリスタ」と東京・銀座の「カフェー・プランタン」が始まりと言われている。パリのカフェのように文化人の集う場所を目指した「カフェー・プランタン」だったが、本家のような男性給仕ではなく、うら若い女性を採用(女給)したのが評判となり、やがてそれがアダとなって、昭和初期に「カフェー」といえば、現在のキャバクラ的な風俗業の代名詞になってしまった。

 それが『純喫茶』という日本独特の呼称を生む原因となるわけだが、その説明は「認定!昭和遺産」で読んでいただくとして、結局日本でカフェ的な役割は「喫茶店」が担うこととなり、これはこれで独自の文化を生んでいく。一方で本来の「カフェ」は外国人居留地のあった横浜や神戸で自然に発生し、これまた独自の文化を育んでいくのである。

 そんなわけで、「そして神戸」(by前川清)と相成った次第。前回が横浜だったからというわけではないが、そもそもお茶派であった私がコーヒーにハマったきっかけが、イノダ、六曜社、葦島、ヴェルディといった京都にある有名店での「びっくりするほど美味い」コーヒー体験であり、それに比べて東京の一等地で供される値段が高いだけの出がらしのような飲み物(敢えてコーヒーとは呼びたくない)の不味さといったら…。

 西高東低とは聞いていたが、同じ大都市でもこんなに違うのか? 少なくともコーヒーに関しては、関西の方が抜群に高レベルだと確信(東京の関係者の皆様、スイマセン。もちろん東京にも美味しい店はたくさんありますが…)。特に神戸はUCC、ネスレジャパンといった有名企業が本拠地を置くなど、コーヒーに関しては日本でもトップレベルの都市であり、独特のコーヒー文化が発展してきたという。今回はその歴史を紐解くと共に、実際にさまざまなカフェや喫茶店を訪ね、実力の程を見せていただこうという趣向である。コーヒー評論家でもないのになんだか偉そうではあるが…。

世界の神戸ウォーター

 前置きが長くなったが、まずは神戸とコーヒーの関わりについて調べてみようと思う。神戸到着後、真っ先に向かったのが市の中心部にある生田(いくた)神社。そもそもこちらの社領が現在の神戸市中央区の一帯であったことから、その祭祀を司る民=神戸(かんべ・じんこ)がそのまま地名になったという由緒正しい神社なのだが、それだけではコーヒーとは何の関係もないので、一応参拝した後、末社である松尾神社に向かった。ここには「灘五郷酒造の発祥地」と記された説明板がある。

 「神功皇后の御外征以来、毎年三韓より使節が来訪しております。その使節が入朝及び帰国するに当り朝廷では敏馬浦(脇浜の沖)で新羅から来朝した賓客に生田神社で醸造した神酒を振舞って慰労の宴を催しこれ等に賜るのが例でありました。 この酒は「延喜式の玄番寮」によると生田、廣田、長田(以上攝津国)片岡(大和)の四社より稻五十束ずつを持ち寄り、稻束二百束とし生田神社の境内で生田の社人に神酒を醸造させたもので、この神酒で新羅の要人の宴を賜ったと記されております。これが灘五郷酒造の始めと伝えられておりまして、酒造王国の発祥の地は実は生田神社であると言われております」

 以上が説明板の文面である。要するに、この地は灘の酒のルーツであり、裏を返せば、酒造りに必要な良質な水が入手できたという意味でもある。そう、商品名にもなっている六甲山の水である。これは古くから『布引の水』と呼ばれ、司馬遼太郎の『街道をゆく』にも、長い航海でも腐らず美味い水として、外国から来る船員が神戸ウォーターを船に積み込んでいたことが紹介されている。ちょっと大袈裟ではあるが、神戸の水は幕末ぐらいからすでに世界的に有名だったわけである。

写真上から生田神社、神戸元町の放香堂分店、『豪商神兵湊の魁:放香堂』(神戸市史学会蔵)、モスク風のUCCコーヒー博物館→

 というわけで、神戸にはコーヒーを味わうために必要な「美味しい湧水」が豊富にあったという天然の恩恵。これをまず頭に入れておこう。次はどういった経緯で神戸にコーヒーが入ってきたのかという話。そこで登場するのは、日本で最初にコーヒーを飲ませたと言われる「放香堂」。こちらは天保年間創業の日本茶の老舗である。日本初の喫茶店は明治21年創業、東京上野の「可否茶館」というのが定説だが、初めてコーヒーを飲ませたのは、今でも神戸元町商店街にあるこちらのお店と言われており、その証拠として明治11年の讀賣新聞夕刊に「珈琲販売および店頭にて喫茶ご自由」の広告が掲載されている。

 実際には写真家として有名な下岡蓮杖が浅草で御安見所(おやすみどころ)コーヒー茶館という店を開いたという記事が明治9年の東京絵入り新聞に掲載されており、日本人対象の店でなければ、横浜の居留地にはすでに幕末に数軒のカフェがあったらしいので、日本最古論争は迷宮入りしそうなのだが、少なくとも神戸に関しては放香堂が最初であることは間違いないだろう。しかも、それがカフェではなくて日本茶を扱う店だったというところが、ちと面白いではないか。加えて、その店が今はコーヒーを扱っていないとはいえ、現在も同じ場所で営業しているというところに、生きた歴史を感じるのである。

「中興の祖」上島珈琲

 さて、日本で最初にコーヒーが荷揚げされたのが横浜港、次いで神戸港(1868年の開港当初は「兵庫港」)だった。現在の荷揚げ量も横浜が1位、神戸が2位。阪神・淡路大震災の前は神戸が1位だったらしい。この荷揚げ量を今日まで支えてきた要因のひとつが、日本最大のコーヒー会社、UCC上島珈琲株式会社である。

 UCCの創業者、上島忠雄(1910〜93)は、日本人にコーヒーを普及させた功労者でもある。日本人にとって、コーヒーがごく一般的な飲み物として認知されたのは大正から昭和初期と推測される。神戸に関して言えば、大正時代に三宮で「カフェー・パウリスタ」が営業しており、三宮神社の境内にはコーヒーの露店まであったという。大衆的なコーヒー文化が戦前からあったことは、昭和14年のヒット曲『一杯のコーヒーから』を聴かなくとも明らかであろう。

 上島が食料品を扱う個人商店を開業したのが昭和8年、『一杯のコーヒーから』がヒットした翌年には合名会社を設立している。その頃すでに、日本人のコーヒー消費量がウナギ登りになることを予感していたという。しかし折悪く日中戦争が勃発、対外的に孤立した日本は経済統制を余儀なくされ、コーヒーの輸入も途絶える。上島がコーヒー豆の入手に奔走し、念願の上島珈琲株式会社を開業したのは終戦後の昭和26年だった。

 長い間コーヒーに飢えていた日本人にとって、香り高い一杯のコーヒーは満を持しての再会だったに違いない。その後UCCは缶コーヒーの開発をきっかけに急成長、喫茶店やレストランに限られていたコーヒーを一般家庭にまで普及させたのである。ちなみにその辺の経緯と、コーヒーに関するさまざまな知識は、ポートライナー「南公園駅」の正面にあるUCCコーヒー博物館で得ることができる。またこちらではコーヒーロードという喫茶室を併設しており、豆の種類、炒り方はもとより「ペーパードリップ」「サイフォン」「カフェプレス」といった淹れ方も選ぶことができる。近くの神戸空港や神戸ポートピアホテルをご利用の際には、立ち寄ってみてはいかが?
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