その1〜スタジオを飛び出して

 このコーナーのタイトルだけ見て、あのトト少年の“涙腺破壊映画”を思い出す人は“アラカン”よりかなり下の世代ではないだろうか。“アラカン”にとって「ニューシネマ」とは、他でもない「アメリカンニューシネマ」のことであり、また違う意味で涙腺を破壊したりする作品群のことである。最初に取り上げるのはカウボーイとカーボーイの違いについて改めて故・水野晴郎氏に聞いてみたい?『真夜中のカーボーイ』。


 反体制、非常識、暴力とセックス、自由、アート…。1967年から72年頃までに生まれた「アメリカン・ニューシネマ」を言葉にするならそんな風になるだろうか。

 1940年代、かつての黄金期のハリウッドでは、それらの表現はほとんどタブーと言って良かった。家族みんなが安心して楽しめるエンターテインメント。重厚な史劇やスペクタクル、明るく小綺麗な男女が織りなすミュージカルやコメディ。そしてお約束のハッピー・エンド。スターはグラマーでゴージャスなブロンド美女と、ハイ・ワイド・アンド・ハンサム。アート指向、作家主義的な映画人よりも、手堅いスタジオ職人が好まれた。

 しかし、1950年代に入ると、スタジオ・システムの崩壊とテレビの普及よって、それらの“約束事”が雪崩を打ったように崩壊していく。音楽業界でエルヴィスがロックンロールで革命を起こし、ティーンエージャーが台頭すると、映画界でもマーロン・ブランドやジェームス・ディーンがリアルな若者を演じて同世代の共感を集める。マーケットの主役が若者になり、暴力とセックスが徐々に解放されると、すでに従来型の映画制作は時代の空気と合わなくなり、観客はもっと現実を見つめたリアルな表現を求めるようになった。

 その頃、ヨーロッパ映画界は、イタリアのネオレアリズモやロンドンのフリー・シネマに始まり、その後パリのヌーヴェルヴァーグなどが火付け役となって、ニューシネマ・ムーブメントが世界中を席巻、若手監督による斬新な感覚や、それまでの常識を破壊した新たな映画文法が、アメリカの若い作家にも大きな影響を与えた。

 さらに60年代になると、ベトナム戦争への大義なき参戦が、国家への信頼を揺るがし、政治不信が表面化、若者の無気力化やドラッグのまん延、エスカレートする人種差別や暴力といった社会問題も深刻化していった。ビートニク小説やボブ・ディランを始めとするメッセージ性の強い音楽は、そんな時代背景を色濃く反映していく。映画界も例外ではなかった。時代のニーズに応えるように、メジャーからマイナーへ、スタジオからロケーションへ、スターからアクターへ、職人から作家へ、徐々に手法も作り手も入れ替わっていったのである。  

 『真夜中のカーボーイ』で特徴的なのは、まずスター不在であるということ。ラッツォ役のダスティン・ホフマンの場合、特にハンサムでもないユダヤ系の小男。67年の『卒業』で一気に注目されたとはいえ、もともと役者よりはスタッフ志望で、『真夜中のカーボーイ』出演時にはすでに30歳を過ぎていた。一方のジョー役も、当初の予定だったリー・メジャースと、次の候補であったマイケル・サラザンがキャンセルしたために、オーディション選考で残った無名俳優がジョン・ヴォイトだった。

 監督のジョン・シュレジンジャーは生粋のイギリス人でテレビのドキュメンタリー畑出身。ジュリー・クリスティーにオスカーをもたらした『ダーリング』や『遙か群衆を離れて』で、すでに英国では一流監督として認められていたが、ハリウッドではまだ実績のない新人に過ぎなかった。

 しかし、そのことが映画制作に大きな自由度を与えることになる。彼らはカネのかかるスタジオを飛び出し、ニューヨークのど真ん中で望遠レンズを多用したゲリラ的撮影を決行した。誰もホフマンやヴォイトを映画俳優とは気づかず、通行人がカメラを意識することもなかったため、撮影はスムーズに進み、ゴミゴミした大都会のリアルな喧噪をリアルなままに描き出すことができたのである。

 二人が通りを歩きながら信号を待ち、歩き出すところでタクシーにぶつかりそうになるシーンがある。そこでホフマンとタクシー運転手のちょっとした言い争いになるのだが、実はすべてが実際のハプニングだったという。ホフマンによれば「何度も撮り直して台詞と信号のタイミングを計っていた。あのとき、それが最高のタイミングでうまくいったんだ。ところがそこへあのタクシーが飛び込んできた。本当に頭にきて『こっちは映画を撮ってんだぞ!』って言いそうになったけど、二度と同じタイミングでは撮れないと思ったから『こっちは歩いてんだぞ!』って、カメラが止まらないようにとっさにアドリブを入れたんだ」<次回へ続く>