利休の3つの顔〜その1

 それまで堺の一商人・茶人でしかなかった千宗易が、信長、秀吉という天下の覇者に仕え、国家の大事に関わるようになったのは52歳から。秀吉に切腹を命じられるまでの波乱の16年間こそ、晩年に訪れた利休の「第2の人生」だったのではないか。前回に続き熱く語るのは「大江戸四方山話」のお二人。

 語り手・大江戸蔵三

都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

 聞き手・新米記者なぎさ

都内の某新聞社に勤める文化部の1年生記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。


自由都市・堺

今回のテーマは千利休なんでしょ? ワタシ、ちょうどお茶習おうかと思ってたんですよ。


キミがお茶を習うって? なんでまた…。



こないだ叔母さんから着物をたくさん譲っていただいたんですよ。今の時代、着物を着る機会なんてお茶会ぐらいしかないじゃないですか。


着物って言ったって自分で着ることもできないんだろ? お茶習う前に着付けを習いなさいよ。だいたいね、茶の湯というのはそーゆーチャラチャラした動機で始めるものじゃないの。元々は女子じゃなくて、男子にとって最高の趣味であり教養だったんだよ。茶の湯を極めるために命を賭けた戦国武将もたくさんいるくらいだ。それを総合芸術として大成したのが利休というわけ。

そのぐらい知ってますよ。『へうげもの』読んでるもん。



キミの知識源はテレビかマンガのどっちかだな。確かに『へうげもの』はなかなか面白いけど、史実とはかけ離れた部分も多々ある。利休の描き方にしても、秀吉と共謀して信長を暗殺なんてのはちょっと飛躍しすぎだ。あれが利休だと思われちゃあ敵わんから、今回はイメージが肥大し過ぎた利休ではなくて、あくまで史実としての、等身大の利休像を語ろうと思う。まず、キミの知ってる利休という人はどんな職業の人だ?

信長とか秀吉の、お茶の先生でしょ。



それは確かにその通りなんだけど、初めからお茶の師匠として生計を立てていたわけじゃない。もともとは魚屋(ととや)という魚問屋を経営する堺の商人だ。

え? お茶屋さんならわかるけど、魚屋さんだったの?



魚屋って言ったって、魚河岸で魚売ってたわけじゃなくて、堺の海岸に納屋を所有して、そこを海産物倉庫として業者に貸していたんだな。これを「納屋貸し」と言って、今で言う貸し倉庫業が主体だった。この商売を始めたのが利休の父、田中与兵衛で、この与兵衛の父、つまり利休の祖父は田中千阿弥(せんあみ)と言って将軍・足利義政とは仏教上の同朋であり、家臣でもあった。

じゃあ、先祖は武士だったんだ。



家系をさかのぼると安房の里見太郎義俊がルーツのようだな。で、この千阿弥は将軍家の唐物(からもの)奉行、つまり中国から輸入された美術品の管理を任されていたらしい。この辺が、後の利休へとつながるDNAとしてなかなか面白いんだけど、10年もの間続いて、京の街を焼きつくした応仁・文明の乱が始まると、戦禍を逃れるために堺へと移住して、そこで生涯を終えた。

ふ〜ん。それで利休のお父さんの代になると、武士を捨てて商人になったっていうことね。


そういうこと。与兵衛は父の名前から「千」の字をとって千与兵衛とも称していたらしい。これが「千氏」の始まりだ。利休の生年は諸説あって正確にはわからないけど、大永2年(1522年)というのが最も有力だ。つまり、戦国時代の初期ということになる。

1522年って言われてもイマイチピンとこないんだけど、同じ年に生まれた人ってどんな人がいるの?


有名なところでは最近映画の『清州会議』で取り上げられていた柴田勝家。前年には武田信玄が生まれているよ。


じゃあ、戦国時代って言っても、有名な戦国武将が現れるよりかなり前ってことね。


そう。織田信長は1534年生まれだから利休の方が12歳年上だし、1537年生まれの豊臣秀吉より15歳も上だ。この年齢差をまず念頭に置いてほしいんだ。

出会った時には利休のほうがずっと大人だったってことね。



信長が利休を茶頭、つまりお茶の師匠として迎えた時、秀吉は利休よりも格下だった。だからその頃秀吉から利休に送られた手紙には「宗易殿」と敬称が付けられているのに、利休が知人に宛てた手紙では秀吉を「筑州」と呼び捨てにしている。

それが後になって逆転するわけね。



そのへんの微妙な人間関係にも注意して欲しいんだけど、最初に注目して欲しいのが、利休の本拠地である堺という都市だ。堺は、当時来日した宣教師たちに“東洋のベニス”なんて言われていたんだけど、その理由は、ベニス同様、水路が巡らされた美しい街であったと同時に、商人が実権を握る国際商業都市でもあったからなんだ。

そういえば『ヴェニスの商人』って有名だものね。あれって、シェークスピアだっけ?


かつてのベニスは強力な軍事力を背景に、貿易商人が巨万の冨を得ていた。堺も環濠都市と言って、街の外郭に堀を巡らせ、街全体を城のようにして外敵から守っていたから、足利将軍家が弱体化し、戦国武将たちが内戦に明け暮れている間に、着々と海外貿易を独占していったわけだ。
へぇ〜、それじゃあ堺のお殿様ってすごくお金持ちだったわけだ。



いや、この時代の堺に領主はいない。封建社会が主であった中世にあって、世界でも稀な自治都市だった。都市の運営に関することは街の実力者から選ばれた会合衆(えごうしゅう、かいごうしゅう)と呼ばれる36人による合議制で決められ、さらにその中で倉庫業を営む「納屋衆(なやしゅう)」の10人が幹部として最終議決権を持っていた。

倉庫業の10人ってことは、その中に利休もいたってことなの?



おそらく父の与兵衛の代から納屋衆だったと推測される。だから、倉庫業で成功した与兵衛の跡継ぎである与四郎(利休)も納屋衆のメンバーになっていったのはごく自然のことだったと思うよ。

茶人・宗易の誕生

そうかぁ。でも、堺の実力者としての利休はわかったけど、お茶の先生としての利休はどうなのよ?


それを話す前に、茶の湯について少し説明しておこう。鎌倉時代、栄西や道元といった留学僧が中国から持ち帰った抹茶が、禅宗の普及と共に精神修養の一環として禅僧の間で広まっていく。これがやがて、茶の生産増加と平行して一般にも普及していった。室町時代になると、茶を飲んでその銘柄を当てる「闘茶」というギャンブルが流行ったり、中国から輸入した茶器を「唐物」と呼んで珍重し、これを披露するための茶会を催すことが大名のステータスになっていくんだ。

あはは。なんかお得意先や上司に取り入るために始めたゴルフが、賭けゴルフになったり、道具に凝るようになったり、芸能人やプロを呼んでのゴルフ大会になったりするような感じね。

まぁ、当たらずとも遠からずだな。そうするとそういう流れに反発して、それはちょっと違うんじゃないか? ゴルフはやっぱり純粋なスポーツであり、紳士のたしなみではないのかって言う人物が現れるよね。お茶の歴史においてその役割を果たしたのが村田珠光(むらたじゅこう)だ。珠光は禅僧出身で若い頃は一休の教えも受けているんだけど、茶会での飲酒や博打を禁止して、唐物のようなブランド至上主義にも異を唱えた。これが「わび茶」の始まりだ。

なるほど。モノより心ってことね



「わび茶」の精神は、やがて堺の裕福な商人たちに受け継がれていく。その背景には、洗練を深めていった堺の都市文化がある。高度な芸術的センスを要求される分、自分自身を磨く以外、いくら金を出しても手に入れることができない「わび茶」が、堺の裕福な都会人たちを魅了していくんだ。そして、その中から武野紹鴎(たけのじょうおう)という巨人が現れる。この人が利休の師匠だ。

利休にも先生がいたんだ。茶道って利休が始めたんだと思っていたわ。びっくり。


堺の実力者の息子で、お金持ちのボンボンだった与四郎(利休)は、一説によれば7歳頃から茶を学び、16〜7歳ごろにはいっぱしの茶人だったという。その後与四郎は北向道陳に茶の基本を仕込まれ、その非凡な才能を見込んだ道陳が与四郎を紹鴎に紹介する。その日から4日の猶予を願い出た与四郎は大徳寺で剃髪し、僧形で紹鴎の茶会に臨んだ。「宗易」という最初の茶名は、この時大徳寺の禅師から与えられたと言われているんだ。

やっぱり大成する人って若い頃から違うのね。優秀だからこそ、いい先生のもとで勉強できるわけだし。


魚屋の二代目「千与四郎」という商人の顔に加えて、22〜3歳にして茶人「千宗易」というもうひとつの顔を得た利休が、さらに政治家のブレーンというもうひとつの顔を持つようになるのは信長の茶道に任命された52歳の時。これが利休にとっての「2度めの人生」の始まりだ。<次回に続く>

かつて「東洋のベニス」と謳われた商業都市・堺

利休を茶道として登用した織田信長

利休の師・武野紹鴎

大黒庵・武野紹鴎邸址(京都市)

堺の自治組織「会合衆」の会所があった開口神社(堺市)

利休の屋敷跡(堺市)