その1〜“おいてきぼり”から“逆玉”へ

 定年などという制度すらなかった江戸時代後期に「人生は二度ある」を実践、欧米の先進国を驚愕させた大事業を成し遂げた男がいる。「日本地図を作った男」伊能忠敬である。49歳で家業を引退、50歳で暦学を志し、55歳から71歳までの16年間を全国測量に費やした。その距離、歩数に換算すると5000万歩!195年前にこの世を去った我々の大先輩について熱く語るのはご存知「大江戸四方山話」のお二人。

 語り手・大江戸蔵三

都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

 聞き手・新米記者なぎさ

都内の某新聞社に勤める文化部の1年生記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。


遂にわたしたちも「アラカン」にまで進出しちゃいましたね、蔵三さん。おめでとうございます。


「アラカン」って言ったって、こっちは還暦まで働けるかどうかわからない状況だからなぁ。ちっともめでたくはないんだけどね。最近やたらと「早期退職」の募集が増えてるし…。

あら、優秀な蔵三さんには関係ないでしょ。会社では自分の評価が低すぎるっていつも怒ってるじゃないですか。でもこの前部長から聞いちゃいましたよ。大江戸はサラリーマンの鉄則“遅れず・休まず・働かず”を入社以来ずっと守ってるって。

アイツ、オレと同期のクセにまた余計な事をいいやがって。だいたいね、ワタシのような大人物を一新聞社の管理職如きが評価するなんてのはおこがましいことですよ。真の偉人というのはねぇ、生きた時代よりずっと後になって評価されるものなんだ。伊能忠敬のようにね。

伊能さんって、何年もかかって凄く精巧な日本地図を作った人でしょ。だったら生きてる間に評価されたんじゃないの?


まぁ、そう思うのが自然だけど、実は忠敬が16年もかけて作った地図がすぐに活用されたわけではなかったんだ。幕府は出来映えには満足したけど、特に活用することもなく江戸城の紅葉山文庫にしまい込んだ。だから忠敬の名前が一般にも知られるようになったのは明治以降の話。

え〜、勿体ない。複製して全国に出版すれば、みんなの役に立つじゃない。



これにはいろんな理由があったと思うよ。まず第一に、江戸時代は江戸幕府による中央集権体制なんだけど、実質的には諸藩による地方自治だった。だから藩というのはそれぞれ違う国と考えた方がいい。幕府にすれば精密な全国地図を江戸徳川家以外の他藩、つまり他国に渡すのは治安上よろしくないと考えた。

ははぁ、詳しい地図があればどっからどう攻めるとか、作戦を立てやすいもんねぇ。


加えて、他藩から海外に流出することもあり得る。後で話すけど実際に流出しちゃってるからね(シーボルト事件)。黒船を率いて日本にやってきたペリーがまず最初に何をやったかというと、海岸線の測量だ。日本は四方を海に囲まれてるから、どこの湾なら入りやすいとか、どこなら江戸に近いとか、海岸線を全て知られてしまったら、丸裸にされたも同然だ。

そうかぁ。海を渡って来る外国人から見たら海岸線の地形が重要なのね。



忠敬の「大日本沿海輿地全図」は、内陸部の地形よりも正確な海岸線を割り出すことに主眼が置かれている。そのために断崖絶壁のような危険なところでも踏破し、歩けないところは舟に乗って海上から測量したからね。そういう意味で忠敬は「日本列島の輪郭を描いた男」と言ってもいい。

「輪郭を描いた男」って、なかなかカッコいいじゃん。でも、忠敬さんはどうしてそんなに苦労してまで、地図を作りたかったのかな。


実を言うと、忠敬は地図を作りたかったわけではない。目的は他にあったんだけど、それを達成するために「地図を作る」という名目が必要だったんだ。ただ、最終的には、その手段が目的に変わっていくんだけどね。

え〜!そうなんだ。人生ってわからないものよね。偽装結婚した相手が本当に好きになったみたいな話ね。


その例えは全くズレてると思うけど、忠敬の人生が50歳を契機に180度変わったというのは事実だ。現代風に言うなら、千葉の中堅企業を受け継いだ新社長が会社を大きくして、東京支社のある大企業にまで発展させた。それが49歳で引退、50歳で突然大学に入学して、夢を実現するために勉強し直すというストーリーだな。

あら、凄い。それってこの「アラカン」のコンセプトそのものじゃない?


老木だってまだまだやれる

ただねぇ「人生は二度ある」って言っても、江戸時代後期の平均寿命は推定で60歳前後だ。当時の50歳っていうのは立派な老人ですよ。それに忠敬は数十億の資産家でもあった。

数十億も持っていたら、ワタシは毎日美味しいモノ食べて、お洒落して遊んで暮らすな。大学なんか絶対行かない。


こんなエピソードがあるんだ。伊能家の菩提寺である観福寺は梅の名所としても知られていた。花見にここを訪れた忠敬は、今を盛りと咲く梅の木に、もはや老木のこの身には花も咲くまいと苦笑い。ところがそのうちに、立派な花を咲かせている老梅(ろうばい)を発見した。そこで狼狽(ろうばい)した忠敬は、もうトシだからと言い訳していた自分を恥じたということだ。

つまんないシャレ。やっぱり大きなことを成し遂げる人は、考えることも違うのね。忠敬さんは50歳になるまでどんな仕事をしていたの?


今で言えば総合商社の経営者だね。酒造業に米の売買、舟運業が主体だ。伊能家は佐原を代表する名家だったけど、忠敬が最初から伊能家のお坊ちゃまだったわけじゃない。忠敬は延享2年(1745)九十九里の網元、小関(こぜき)家に生まれた。時代背景を言えば、八代将軍吉宗が次代の家重に将軍職を譲った年だな。当時九十九里浜はいわし漁が盛んで、乾燥させて干鰯(ほしか)として肥料に使われていたんだ。

もともとは伊能さんじゃなくて小関さんだったんだ。しかも漁師の家?



漁師というより漁業経営者だな。漁師の雇い主だよ。当時としては中流以上の生活だったと思うよ。しかし忠敬の父は婿養子だった。だから忠敬の母が亡くなると、その弟が家を継ぐことになって離縁される。ところが父親が実家に帰る際に忠敬の兄と姉は連れていったのに、まだ6歳の忠敬だけは小関家に置いていかれた。

何か理由があったの? 可愛くなかったとか。



忠敬が何も語っていないからわからない。お坊ちゃまから一転して納屋の番として使われていたなんて説もあるけど、忠敬はちゃんと教育も受けていて、読み書きもできていたようだから「この子は使えるから残して置いた方がいい」と判断されたのかもしれない。

その頃から勉強好きだったのね。蔵三さんと違って、きっと性格も良かったのよ。だからリストラされなかったんだわ。


うるさい。ワタシの場合、リアルにリストラされそうなんだから洒落にならないよ。勉強好きな忠敬は、12歳の時に常陸国で和算を学んだり、16歳の時には土浦で医学も学んでいる。近所でも優秀な子だと評判だったようだね。

数学とか医学とか、どっちかって言うと理数系なのね。



そう。そのことが忠敬の後半人生を決めるんだけど、忠敬17歳の時に伊能家の婿養子が亡くなって、21歳の娘、ミチの再婚相手として忠敬の名前が挙がる。


21歳と17歳のカップル? 4つも年上の姉さん女房じゃない。



当時としては珍しいことじゃないよ。縁を取り持ったのは双方の親戚だったから、話はトントン拍子に進んだ。


お父さんも忠敬さんも“逆玉”のマスオさんだったわけか。蔵三さんだって、今からでも遅くないかもよ。


だけどねぇ、マスオさんにはマスオさんなりの苦労があるわけだよ。その辺の身につまされる話はまた次回に…。<次回(2/16)に続く>

青木勝次郎の筆による伊能忠敬の肖像画(伊能忠敬記念館蔵)

富岡八幡宮にある忠敬像(江東区)

伊能家の菩提寺・観福寺(千葉県香取市佐原)

観福寺の鐘楼

観福寺にある忠敬の墓所

伊能家の家訓碑(千葉県香取市佐原)

伊能忠敬測地遺功表(港区芝公園)

諏訪神社にある伊能忠敬像(千葉県香取市佐原)