語り手・大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手・新米記者なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の1年生記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
それで、めでたくマスオさんになった忠敬さんにどんな苦労があったの?
姑が熱心な日蓮宗の宗徒でね。朝夕に大音量で題目を唱えるから近所から苦情が来たりする。でも、忠敬は言えないんだな。マスオさんだからさぁ。おまけに分家の方からもいろいろとちょっかいを出してくる。この頃から忠敬は仕事と同時に面倒な人間関係の調停が日常茶飯事になってくるんだ。
姑が宗徒ってダジャレ? でも、婿養子って案外楽じゃないのね。
しかし、そのことが後に役立つんだ。忠敬は養子になった年に佐原村本宿の名主後見に選ばれているんだけど、明和3年(1766)に村が大凶作に見舞われると私財を投じて窮民を救い、村人の信頼を集める。3年後の明和6年(1769)に佐原村で牛頭天王社(現八坂神社)の祭礼が行われた時には山車の順番を巡って争いが起こる。この時には血気にはやる若者達を必死になだめて最悪の事態を回避している。忠敬24歳の時だ。
若者同士で話し合ったわけね。なんか、村のヤングリーダーって感じね。
ヤングリーダーって言ったって、すでに一男二女の父親にもなっていたからね。さらに3年後の安永元年(1772)には、一難去ってまた一難だ。老中・田沼意次の新政策で商工業者にも課税されることになった。佐原も例外じゃない。利根川筋の河岸問屋を公認制にして運上金を収めさせようという事になったから、舟運が主体の佐原では大問題だ。
要するに公認されなければ自由に商売できないし、例え公認されても税金を払わなきゃならないってことよね。
忠敬は村の代表として江戸に行き、税の免除を懇願したけどこれは却下される。仕方なく商人達が話し合って、伊能家を公認問屋に推すことになったんだけど、実はこの時意外なものが役に立ったんだな。先々代の伊能家当主・景利が残した29年間にも及ぶ膨大な記録だ。これは江戸時代の農村部の記録としても第一級のもので、忠敬にとっては家業を営む上での教科書でもあった。
その記録がどうして役に立ったの?
何十年も前から大きな河岸問屋をやっているという動かぬ証拠だからね。幕府としてもこれを提出されたら、いくらカネを積まれても他の業者を選定できなくなる。
なるほど〜。記録を取っておくことって大事なのね。ワタシもブログでも始めようかな。
しかもこれらの膨大な記録は景利が45歳で隠居した後の5年間でまとめられているし、元禄10年(1697)には佐原村を測量して地図を作り、宝永年間には堤防修復や難民救済も行っている。地図作成や公共事業、村民に尽くす姿勢、隠居後のテーマという意味でも、すべてに於いて景利は忠敬の師匠だった。
忠敬さんにはそういう人生の手本があったんだ。しかも、測量といい地図といい、影響受けまくりじゃない。
そう。その後“記録魔”になる忠敬だけど、この時の経験を記録した『佐原邑河岸一件』というのが、たぶんその始まりだろうね。身をもって記録の重要性を知ったわけだ。安永7年(1778)には妻・ミチと連れ立って奥州旅行に行くんだけど、この時にも『奥州紀行』という旅日記を残している。その3年後には村の名主になって36歳の男盛り。まさに人生、順風満帆という時期だな。
その時代に夫婦で旅行するって珍しかったんでしょ。結構奥さん孝行だったのね。やっぱりマスオさんだから?
ところが、その奥さんに先立たれるんだな。忠敬という人は地味でマジメ人間というイメージがあるけど、2番目の奥さんも短命で、結局忠敬は3度も結婚している。3度目の結婚は45歳の時だから、当時としては珍しいね。しかも晩年には江戸にお栄さんという内妻がいた。
あら、結構やるじゃない。蔵三さんも見習った方がいいわよ。経済力の差はあるけどね。
うるさいよ。今は歳の差婚が流行ってるだろ。ワタシだってそのうち若い妻が…。まぁ、それはさておき、忠敬41歳の時、天明の大飢饉で再び窮民のために奔走するんだけど、実はこれ以前に大量に米を“先物買い”していたんだ。だから米相場で大儲けしていたし、農民に米を施す余裕もあった。そこに“偉人”忠敬の裏の顔があるんだな。クールな商売人としての顔だ。
でも、そのおかげで農民は救われたんでしょ。どういう方法で稼いだお金でも使い方が良ければいいんじゃないの?
まさに「汚く稼いで綺麗に使う」ということだね。天明の大飢饉では全国で打ちこわしが起こったけど、佐原では一件も起こらなかったし、一人の餓死者も出なかった。忠敬は幕府に頼ることなく、自力で村を救った。そしてこの事が経営者・地域リーダーとしての集大成となったわけだ。忠敬は3度目の妻を得た45歳の時に隠居願いを出すんだけど、お役所(地頭所)が許さない。忠敬がいなくなっては困るというわけだ。
「キミがいないと困る」とか「お願いだから辞めないで…」とか、一度でいいから会社の上司に言われてみたいわね。
キミの場合一生無いだろうな。それでも忠敬の決意は変わらなかった。46歳でシンプルな3カ条の家訓を残し、49歳でようやく家業を長男の景敬に譲って隠居する。
3カ条の家訓ってどんな内容?
第一 仮にも偽をせず、孝悌忠信にして正直なるべし
第二 身の上の人ハ勿論、身下の人にても教訓意見あらば急度相用堅く守べし
第三 篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べからず
要するに「嘘つくな・人の意見を聞け・他人と争うな」ということだな。
確かにすんごくシンプルよね。でも、シンプルなだけに深いような気もする。
ひたすら研究の日々
忠敬は隠居の前年に関西方面に旅行している。まぁ、これは今にして思えばその後の予行演習のようなものだな。寛政7年(1795)年、50歳で今で言う東京支店、江戸の深川・黒江町に移り住むんだけど、実はその年にまたもや妻に先立たれるんだ。この事がどう影響したかはわからないけど、忠敬は程なく幕府天文方の暦学者だった高橋至時の門を叩く。ここからが第二の人生の始まりだ。
隠居して江戸で暮らし始めたのはわかるとしても、何で急に暦学なんかに興味を持ったのかな? 凄く唐突な気もするけど…。
2度の長距離旅行で緯度や経度に興味を持ったからとも言われているけど、子供の頃から勉強好きでしかも理系だったから、当時最先端だった暦学、天文学に憧れを抱いていたんだと思うよ。しかも祖父の時代から利根川の改修など仕事の上で測量に関わる事も多かったから、伊能家には関係する書物も豊富にあったらしい。だから、第二の人生のテーマとして、測量の基本となる天文学を学び、最終的には正確な暦を作成して後世に名を残したいと考えたようだね。まぁ、本当のところは本人に聞かなきゃわからないけど。
でも、50歳を過ぎてから改めて勉強をするっていうことは、口で言うのは簡単だけど、実行するのはなかなか難しいわよね。
しかも隠居したとはいえ、下手な旗本なんかよりずっと財力も人脈もある豪商が19歳も年下の役人に弟子入りするんだからね。当時としても異例中の異例だったと思うよ。しかし忠敬の何事にも真摯な姿勢は変わらず、1年後には最新の西洋暦学書を研究するまでになる。しかもカネに糸目をつけなかったから、深川の自宅には最新の観測設備が揃っていた。
あはは。きっと師匠よりずっとお金持ちだったんでしょうね。でも、暦学って天体を観測して正確な暦を作る為の学問でしょ。その勉強がどうして地図作りに結びついていくのかな?
当時の天文学者にとって世界共通のテーマは「地球の大きさ」だった。これを正確に計算するには、緯度一度分の距離を正確に割り出す必要がある。しかしさすがに一度分の距離を測るのは規模が大き過ぎるから、とりあえず忠敬は毎日通っていた浅草の幕府暦局と深川の自宅間の距離を測量し、そのデータをもとに経度35度付近の緯度一分の距離を割り出すことにした。それを60倍することで一度分の距離がわかるから、さらに360倍すれば地球のおおよその大きさがわかるという計算だ。
なんだか良くわからないけど、スケールの大きな話よね。
結果的にはだいぶ誤差が出てあまり役には立たなかったけど、考え方は全く正しい。しかしこの結果を見た至時の「もっと長い距離で試せば誤差も縮まる筈だ。例えば江戸から蝦夷地までの距離とか」という何気ない一言が、忠敬の後半人生を大きく変えることになるんだ。<次回に続く>