語り手・大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手・新米記者なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の1年生記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
私用から公用へ
で、まさか本当に江戸から蝦夷地までの距離を測りに行ったとか…。
その「まさか」だよ。もちろん「それじゃすぐに♪」って言えるほど簡単なことじゃない。何しろ東京から北海道まで測量しながら徒歩で行こうというんだから、いろいろと準備が要る。何より、金と時間がかかるし、人出も要る。しかも複数の藩を出入りするから幕府の許可が必要だし、地元の協力も不可欠だ。
そうかぁ、スポンサーとかお役所の認可も要るわけだ。「地球の大きさを測るため」っていう理由じゃダメだったの?
そんな理由では許可されないよ。地球の大きさがわかったって幕府には何の得にもならないからね。お金の点では忠敬の財力なら問題はない。隠居の身だから時間もある。残るは幕府の許可だけだ。そこで高橋至時と忠敬はある事に目をつけた。当時、北海道沿岸にロシア船が頻繁に出没するようになっていたから、天明5年(1785)と寛政10(1798)に蝦夷地に調査団が派遣され、東蝦夷地を幕府直轄にして警備することになった。そこで詳細な沿岸地図が必要だということで歴局に沿海測量を命じるんだけど、この出来がイマイチだった。
ははぁ「それならこっちにやらせて下さい、いい仕事しまっせ」ってことになったのね。
何で関西弁なんだよ。それからは幕府に猛チャージだ。この売り込み策が通じて、寛政12年(1800)、正式に許可が降りた。しかも一日銀7匁5分の補助金付き。実際には180日間で100両かかっているから、全体費用の2割ぐらいだけどね。
100両って、今の価値に換算するといくらぐらい?
江戸後期だとだいたい1両10〜20万円というから、1,000万から2,000万。この中には測量器具を運ぶ人馬の手間賃なんかも含まれている。8割は自前だから大変な出費だよ。助手3名、従者2名、総勢6名の忠敬一行が歩いた距離は3,225キロ。千住から出発して奥州街道を一歩一歩数えながら1日40キロの強行軍だ。この時忠敬は数えで56歳。
タフねぇ。ワタシだったら5キロが限度だな。でも、北海道まではどうやって行ったの?
もちろん舟だ。津軽半島の三厩(みんまや)で8日間風待ちをして、ようやく上陸。しかし、沿岸部には道らしい道もなかったから、函館、室蘭、苫小牧と進んで襟裳岬は途中で断念、根室近くで測量を終えた。忠敬はこの測量結果を小図1枚、大図21枚の地図で提出したんだけど、あまりに出来が良かったんで、忠敬の測量は幕府の公式事業になった。
じゃあ、今度はお金も出るし、どの藩に行っても「幕府の御用」って言えるわけね。
当初は師匠の至時もさして期待してなかった。何しろ高齢だし、手を抜いたとしても誰にもわからない。しかし、忠敬は忠実すぎるぐらい忠実に師匠のアドバイスを守って、いっさい手を抜かなかったからね。これには至時も感激した。だから同僚の間重富とか、幕府の重臣に顔が利く連中に頼んで、この測量事業をバックアップしたんだ。
それで全国を測量することになったわけね。ところで、肝心の地球の大きさはわかったの?
第2次測量の際に、歩測よりも正確な間縄で測ったりして精度を上げた結果、緯度1度の子午線弧長=28.2里(約110.7km)と算出した。しかし、至時が予想よりも大きいと疑問を呈したため、第3次測量でさらに精度を上げ、もう一度同じ数字をはじき出した。この時点でも至時は半信半疑だったんだけど、フランスの最新天文学書を見て狂喜する。この数値とピッタリだったんだ。結果、地球の外周はおよそ4万kmということになった。
その数値って正しいの?
誤差は0.1〜0.2%程度だから、この時代としては恐るべき正確さだね。実際、現在の地図と忠敬の地図を比べても殆ど誤差がない。まぁ、忠敬は第3次測量で本来の目的は達したわけだけど、幕府の事業になったわけだから、それで「もうやめます」というわけにはいかない。
だんだん地図作りがメインテーマになってきちゃったのね。
第3次からは人馬の無料使用が許可されたり、幕府から各藩に前もって「全面協力」のお触れが出されるようになって、測量作業もだいぶスムーズになるんだけど、第4次を終えて制作された東日本の沿海地図が将軍・家斉の上覧という栄誉を得る。これを機に忠敬は十人扶持の幕吏に登用されて待遇もグンと良くなるんだ。そうなると勢いがついて、今度は3年かけて西日本も測量せよ、ということになった。西日本の海岸線が予想外に複雑だったから、結局11年もかかっちゃうんだけどね。
3年が11年じゃ、事業中止ってこともありえるでしょ。よく続いたわね。
続いたのには隠れた理由もある。九州には第7次で613日、第8次で913日かけてるんだけど、なんでこんなに日数をかけたかというと、薩摩藩の動静、特に南西諸島での密貿易の実態を探れという幕府からの密命があったらしい。
すご〜い。忠敬さんは幕府のスパイだったんだ!
スパイじゃなくて隠密と言ってくれよ。しかし、測量が幕命になったからと言って、決して順峰満帆というわけではなかった。糸魚川で地元の役人を叱責して勘定奉行に訴えられたり、幕府から全予算が支給されるようになった第5次以降は、役人も同行するようになって、最大で30人もの大所帯になったから「あの役人、何もしないくせに命令ばかり」とか「なぜ同じ測量隊で宿舎の待遇が違うんだ」とか、チームワークが乱れてきたり…。
忠敬さん、人間関係では若い頃から苦労が絶えなかったもんね。
悲しみを乗り越え
他にも忠敬が体調を崩して隊員を先に行かせたら、隊員のタガが外れて不祥事が続いたり、まぁ大変だったらしい。しかし、何よりも忠敬を気落ちさせたのは師・至時の急死だった。文化元年(1804)、第4次の測量を終え、忠敬が幕吏に登用される直前のことだった。
そもそも2人で始めた仕事だし、忠敬さんは先生に褒められることが生きがいだったのにねぇ。
息子の高橋景保が父の遺志を継いで測量事業は継続するんだけど、第5次測量の後、部下の不祥事を咎められて忠敬は泣く泣く古参の2人を破門、第8次測量中には副隊長だった坂部貞兵衛が客死する。この時の忠敬の落胆ぶりは周囲も見るに忍びないほどだったらしい。
一緒に苦労した仲間を失うって、本当に悲しいでしょうね。でも蔵三さん、安心してよ。蔵三さんが死んでもワタシは大丈夫だから。
そりゃそうだろ。キミは何にも苦労してないからな。しかし、もっと忠敬を悲しませたのは、第8次測量中に長男の景敬が死んだことだ。
そうなると、もう測量が人生のすべてみたいになっちゃうかもね。
幾多の悲しみと苦労を乗り越え、江戸の府内を測量した第10次で忠敬の測量は終わる。唯一行けなかった北蝦夷の測量は弟子の間宮林蔵が代行した。しかし、16年間の全国行脚で忠敬の体はボロボロだった。忠敬は膨大な日記や手紙を残しているんだけど、その中には歯が悪くなって好物の奈良漬が食べられないなんて泣き言が綴られている。
まさに骨身を削って頑張ったのね。でも、奈良漬が好物って、お金持ちの割に質素なのね。
忠敬は最期の力を振り絞って八丁堀亀島の自宅を地図御用所として地図製作に取り掛かったんだけど、データが膨大なだけに作業は難航を極め、測量を終えた2年後の文政元年(1818)、忠敬は地図の完成を見ることなく息を引き取った。「高橋先生のそばに葬ってくれ」という遺言をのこして…。
完成した地図を見られなくて残念だったでしょうね。
忠敬の名を残すために、景保と弟子たちは完成までその死を発表しなかった。景保は忠敬の孫を連れて江戸城に登城、完成した「大日本沿海輿地全図」を幕府に提出するんだけど、あまりの大きさに大広間でも展示できず、結局展示したのは西日本だけ。
そんなに苦労して作ったものを幕府はお蔵入りしちゃったんだから、悲劇よねぇ。
悲劇はそれだけじゃない。後に高橋景保がオランダ商館のシーボルトの求めに応じ、伊能図の写しを許可したことが発覚して投獄され、45歳で獄死している。結果的に忠敬は自らの人生を賭けた地図で恩師の息子を殺してしまったことになる。
あら、そんなことを言ったら、忠敬さんの業績って誰のためになったの?ってことになるじゃない。
「大日本沿海輿地全図」の原図はすべて焼失して残ってはいないけど、その写しが明治以降の公用地図の基本になっているし、海外に流出した伊能図は欧米の人々を驚愕させた。一説には、黒船を率いたペリーが武力を行使しなかったのは、潜在的な日本の技術力を恐れたからだとも言われている。何より伊能図を見た人がそれまでの「幕府」や「藩」を超えた「日本国」という国家意識を持ったこと。それが明治維新を陰で後押ししたとも言えるんじゃないかな。<おわり>