第3話 帰ってきた父子

 その頃、京から十四里ほど離れた若狭国の小さな漁村に、一隻の小舟が、月夜の海をすべるように着岸した。

 「さ、お急ぎ下され」

 船頭とおぼしき男の手引きで小舟から降り立ったのは、二人の男。ひとりは、三十代後半から四十代前半、ぼろ衣をまとい、濃い髭と日焼けした顔は一見、地元漁師の風情であったが、その所作には、どこか隠しきれぬ品があった。もうひとりは、長い白髪を後ろに束ね、同じようにぼろをまとった痩せぎすな老人で、若い方の男に手を引かれてはいたが、足取りは実に矍鑠(かくしゃく)としており、伸ばし放題の白い髯(ひげ)と、深く刻まれた皺(しわ)の奥で、鋭い眼が、異様な光を放っていた。

 「ようやくここまでたどり着きましたな、父上」
 「凪であったのが幸いしたようじゃ。隠岐で、高麗の船が難破したのも、天が我らに味方したということよ」
 「警護が手薄になりましたからな。この機会をどれほど待ったことか…」
 「しかし、まだ陸に上がったに過ぎぬ。このまま夜陰に乗じても、さすがに一晩で鞍馬は越えられまい」

 先を行く船頭風の男が、話を遮った。

 「あの松明(たいまつ)が目印。手前はここまでで…」

 男はそそくさとその場を立ち去ると、やがて元来た舟に飛び乗り、音もなく漕ぎ出した。残された二人は、月明かりを頼りに、夜道を急いだ。海岸沿いの松林を過ぎると、松明を持った男の顔がほのかに浮かんで見えた。

 「蓮台寺の者か」
 「お待ちしておりました」
 「済まぬ。御覧の通りの有様じゃ。案内(あない)をよろしく頼むぞ」
 「委細はのちほど、先を急ぎましょう」

 松明の男は、粗末な身なりではあったが、明らかに僧形(そうぎょう)であった。

 「ひとつ尋ねても良いか」

 早足のまま、老人が口を開いた。

 「忠賢(ただたか)様はご健勝か…」

 「元気にしておられます。ただ、今夜はもう遅いゆえ、こちらにご逗留いただきます。この先険しい山越えがございますので、お会いできるのは、しばらく先になりましょう」

 それを聞いた若い方の男が声を詰まらせた。

 「ご無事であったか…。命あるうちに、お会いできるとは…」
 「すべては御仏のお導きかと。ただ、ここにも国司の見張りはおります。これより先は闇夜に紛れて参りますので、足元にお気をつけて…」

 僧形の男が答えると、松明の火が消え、やがて三人の姿が闇の中へ溶けていった。

            ◇

 渡辺綱もまた、光を失ったまま、漆黒の闇を漂っていた。

 (ここが黄泉の国というものか…)

 さっきまで瞼の中にあった、あの美しい観音菩薩の顔は、どこにも見えない。

 (これから何処へ行くのか?)

 幼い頃母に手を引かれ、訪れた寺で、若い僧侶に「人を殺めし者は、地獄へ堕ちる」と、「地獄絵図」を見せられた記憶がある。針の山、血の池、火の海…。とどまることのない苦痛が続き、逃げまどう半裸の男女、恐ろしい鬼たちがその逃げ道をふさいでいる。

 (あの恐ろしい地獄へ堕ちるということか…)

 殺生は武人の宿命と覚悟していたとはいえ、凍り付くような恐怖が綱を襲った。ふと腰に手を当てると、髭切がない。身を守るものさえないのだ。

 (さてはあの鬼、髭切を奪いに来た、地獄からの使者であったか…)

 やがて闇の中に、ぼんやりと人の顔だけが浮かんだ。それは、かつて綱が捕らえた、ある男の顔に似ていた…。

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