※当サイトは日本経済新聞社及び販売店(NSN)とは一切関係ありません。
滅多な事では人に見せられない宝刀ではあったが、頼光の「土御門殿で無礼があってはならぬ」という言いつけがふと頭をよぎり、ここで固辞するのも大人気ないと、綱は興味本位の家人達に、しぶしぶ太刀を抜いた。
「おお〜」家人たちから、ため息が漏れた。それは、幾多の人の血を吸っているにもかかわらず、どこか気高く、神秘的な輝きを放っていた。また、武具と呼ぶにはあまりに優美であり、どこか蠱惑(こわく)的ですらあった。
「頼光の使者を十分にねぎらえ」との道長直々の命もあり、音曲を交えた貴族風の接待は手厚かった。いかに豊かな財を誇る頼光の家中であっても、受領(ずりょう)の、しかも郎党の身分では味わったことのない、上質な酒や豪奢な肴、雅やかな音曲の物珍しさに、綱の頑なさも徐々にほぐれ、一杯、また一杯と杯を重ねることになった。
(なるほど…。これが殿上人の暮らしというものか…)
日が暮れても宴(うたげ)は続いた。上流貴族の接待攻勢に時を忘れて興じた綱だったが、夜も更けた頃には、立ち上がるのも億劫なほどに酔っていた。
「では、そろそろお暇(いとま)つかまつる。下人も待たせておりますので…」
「まだ良いではありませぬか。いかに源氏一の武人とて、不用意に夜道を歩けば、百鬼夜行に出会あわぬとも限りませぬ」
「なに、いかなる鬼であろうとも、その髭切の前では歯が立ちますまい…」
家人の軽口を笑って聞き流しながら、腰を上げた瞬間、綱は、周囲の景色がぐるぐると回るのを感じた。
(この程度の酒量で、情けない…)「天下一の剛勇」という評判とは裏腹に、普段は慎重過ぎるほどの綱であったが、この夜ばかりは、使者の役目を終えた安心感と、帰り道がほど近いこともあり、酔いに任せて体が左右に動くのを隠そうともしなかった。市中、一面の闇。綱の整った顔が紅潮しているのを知る者はいない。
「茂助、このような姿を館で見られとうない。ちと、遠回りして川風にでも当たるか」
それからどのくらい進んだのだろうか。当てもなく遠回りした挙げ句に、いつの間にか北のはずれ、一条戻り橋のたもとにさしかかっていた。綱はここに来てようやく朦朧とした意識から目覚めた。
「茂助よ、もう良い。戻るぞ」
ふと気がつくと、茂助は少し離れた川縁で、バツが悪そうに小用を足していた。
「やれやれ無礼な奴、それではわしも同伴致すか」
綱が苦笑しながらよろりと馬から下り、柳の幹に手綱を繋いでいると、不意に一陣の風が吹き、かすかな閃光がよぎった。
直後、何かが夜空に舞い、ほんの一瞬、月の光と重なると、綱の顔に小さな影を作った。
舞ったのは茂助の生首だった。
闇の中にどす黒い血が溢れ出し、主を失った胴体だけがゆらりと沈んだ。
「ブレイモノ…」
その声…。その地を這うような男の声は、およそこの世のものとは思えなかった。幾度となく強者と渡り合って来た綱だが、この時ばかりは、少々勝手が違った。その声に、どこか人智を超えた、原始的な恐怖とでも言うべきものを感じたのだ。
「何者か!」
髭切に手をかけようとした刹那、闇を裂くように、旋風が綱の頭をかすめた。暗中、視界が効かない事が幸いしてか、致命傷には至らなかったが、その風が、並外れた大太刀の一振りであることは間違いなかった。刃渡りからして、髭切の倍はあろうか。
「卑怯であろう」
と綱が言い終えるのを待たずに、再び旋風が飛んできた。かろうじて髭切を抜くと、鋭い金属音と共に火花が散り、直後、腕が痺れるほどの衝撃を受けた。
(これが噂に聞く戻り橋の鬼か…)
京の人々にとって一条戻り橋は、鬼や魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する、この世と異界との境界線であると信じられていた。綱にしてみれば、場所といい時刻といい、異様な太刀筋といい、まさに「鬼の仕業」と感じたとしても無理からぬことであった。
行きすぎた酒を後悔する暇はなかった。鉈(なた)のように風を切って飛んでくる大太刀の切っ先を、綱はすんでのところでかわしながら、ジリジリと後ずさりしつつ、自らを鼓舞するように、全身から絞り出すような声をあげた。
「渡辺綱と知っての所業か!ただでは済まぬぞ」
静寂の中に、凛とした空気がよぎった。その気迫に押されたのか、太刀を振る音が止むと、一瞬の沈黙が流れた。
「フフフ…」
再び地響きのような低い笑い声。綱はかろうじて息を整えたが、激しく動いたせいか、軽く目眩を覚えた。一筋の汗が頬を伝った後、綱は声を失った。彼方の月が隠れて見えない。前に立ちはだかっているのは、およそ七尺はあろうか、見上げるような巨漢(おおおとこ)なのだ。
「うぬが戻り橋の鬼か!」
「オニ?」
鬼は微動だにせず、こちらを凝視している。姿が良く見えるわけではないのだが、そそり立つ壁のような存在感がある。高ぶる鼓動を抑えようと、綱は息を整えた。それからどれほどの刻(とき)が過ぎたのか、実際にはほんの一瞬に過ぎなかったのだが、綱にはひどく長く感じられた。
「ブレイモノ、シネ」
綱は覚悟した。イチかバチか勝負するしかない。これ以上は一歩も下がれない。知らぬ間に川岸ぎりぎりまで追い詰められていたのだ。
次の一撃だ。次の一撃で体を入れ替え、活路を開く、そう覚悟した時だった。
「やめぬか」
不意に甲高い声が響き、何者かが綱と鬼の間に割って入ったように思えた。
しかし、時すでに遅く、上段に構えた鬼の太刀は、真っ直ぐに綱に振り下ろされていた。綱は転げざま、一瞬早く切っ先をかわすと、不十分な態勢から乾坤一擲(けんこんいってき)、横真一文字に斬りつけた。
確かに手応えはあった。しかし、鬼が倒れた気配はない。その代わり、静寂の中にかすかなうめき声が漏れた。
「殺生はならぬ!」
綱は、再び甲高い声を聞いた。誰だ? 立ち上がりざま思わず振り向くと、目の前の人影に息を飲んだ。月明かりにぼんやりと浮かんでいたのは、その前の修羅場とは全く異質な、絹のむしたれをまとった、たおやかな女の立ち姿であった。
(どこぞの女官か…。なぜこんな所に…)
不可解な光景に心を奪われ、一瞬の隙ができた。綱は首筋に激痛を感じた。綱の一撃で太刀を持てなくなった鬼が、丸太のような腕で背後から綱の首を締め上げ、片腕を絡み取って動けなくすると、そのまま宙づりの状態で揺さぶったのだ。耳元にかかる鬼の息が荒い。
(こやつ不死身か…。腕は使えぬはずだが)
頸動脈を押さえられた綱は息が苦しくなり、徐々に意識が遠のいていくのを感じた。全身に力が入らなくなり、髭切が掌からするりと落ちると、先刻までバタバタとあがいていた足が、ピタリと動かなくなった。
しかし、そこは武人の本能であろうか、鬼の腕からしたたる血の匂いを探し当てると、綱は残る力を振り絞り、傷口に思い切り噛みついた。
「ギャッ…」
鬼が叫ぶと同時に、綱は凄まじい勢いで地面に叩きつけられた。全身を打ったせいか、すでに抗う力は残っていない。その時綱は、生まれて初めて、死を覚悟した。
「殺生はならぬぞ」
「ドウジサマ…」
(ドウジサマ?)ぼんやりとした意識の中で、綱は不思議なものを見た。自分を見下ろしているのは、この世のものとは到底思われぬ、神々しく、美しい顔だった。誰でも、命の終わりには、かくも有り難き観音菩薩を見るのであろうか…。 ほどなく綱は、気を失った。 <前回へ戻る><次回へ続く>