※当サイトは日本経済新聞社及び販売店(NSN)とは一切関係ありません。
このコーナーのタイトルは最近流行の「ロハス」ではない。「ロハす」である。つまり、ロハのもの、無料のものを大いに活用しようという節約大好きなシニアのためのコーナーである。第3回目のテーマは数々の名作文学作品がすべて無料で読める青空文庫。その中から、種田山頭火と並ぶ“漂泊の俳人”尾崎放哉の『選句集』をセレクトした。
以前、知人から「座右の銘は何か?」と聞かれて「咳をしてもひとり」と答えたことがある。知人には冗談だと取られ、苦笑いされてしまった。言った本人は結構大まじめで「どんなに孤独であっても、自分らしく生きて行きたい」というような意味合いだったのだが…。
「咳をしてもひとり」
この「自由律俳句」の作者尾崎放哉は、見事なまでの転落人生を送った人であり、今風に言うなら典型的な“だめんず”である。種田山頭火や石川啄木も相当な“だめんず”ではあるが、尾崎のダメっぷりには負ける。しかし、その壮絶なまでのダメさが数々の名句を生んだのも事実だ。
しかし、尾崎が最初からダメだったわけではない。そもそもは旧制一高、帝大法科卒の典型的なエリートである。通信社を経て、生保会社に入り、管理職にも就いて順調に出世するが、職場のストレスと酒癖が祟って10年目にヒラに降格、36歳でエリートサラリーマンを辞める。他の保険会社に再就職して朝鮮に赴任するが1年で免職。その後再起を賭けて満州に渡るが、借金苦と肋膜炎の病苦を抱えて帰国する。
その年の暮れ、言い含めるようにして妻と別れ、京都の宗教道場に入って出直そうとするが、あまりの厳しさに3カ月で挫折。寺男として拾ってもらった知恩院も酒がもとで3カ月で追い出され、知人のつてで神戸の須磨寺に移るが、ここも内紛で居られなくなり、3カ月で小浜の常高寺に移る。しかしこの寺はすでに破産状態で、毎日タケノコばかり食べさせられるので2カ月で逃げ出した。
それでも尾崎は趣味の俳句作りだけは止めなかった。どんな惨めな生活をしていても、生涯の師であり恩人であった荻原井泉水に句を送り続けたのである。その井泉水の骨折りで最終的に落ち着いたのが小豆島の西光寺で、お遍路さんのわずかなお布施を収入源に、ここの奥の院「南郷庵」に庵主として住むことになる。
それからすぐに、貧困による極端な粗食と冬の寒さで肋膜炎が肺結核になり、気管支カタルを併発。井泉水から京都の病院に行くことを勧められるが、まるで死を望んでいたかのような手紙を返信したあと、近所の漁師夫婦に看取られながら死ぬ。享年41歳。
俳人・尾崎の真髄は、死と隣り合わせで過ごしたこの小豆島の8カ月足らずに凝縮されている。ここを死に場所と定めた潔さが、病床の正岡子規にも通じる深い観察眼や独特の透明感を生み出した。「肉がやせてくる太い骨である 」「一つの湯呑を置いてむせている」「白々あけて来る生きていた」「これでもう外に動かないでも死なれる」…。
筆者が尾崎放哉の存在を知ったのは中学生の時で、担任の国語教師が授業中に突然、こういう人がいると言って紹介し、「咳を…」と「とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた」の二句を黒板に書いてくれた。
その句は、田舎の純朴な中学生の胸にグサリと突き刺さった。何の変哲もない言葉なのに、組み合わせると重みがあり、情景があり、深読みしたくなるような奥行きがある。その担任がいなければ、私はいまだに尾崎放哉の存在を知らなかったかもしれない。
私はこの時初めて「言葉の凄み」というものを学び、ブンガクの意味に目覚めたのである。私が物書きの端くれになれたのも、そのおかげかもしれない。担任のW先生と尾崎放哉には感謝すべきであろう。今思えば、私の書いた稚拙な太宰治論を手放しで褒めてくれたのもW先生だった。
若い頃は誰でも破滅型の人生に憧れるものだ。しかし、だからといって実際に破滅型の人生を目指す者はいない。尾崎だってそんな生き方を望んでいたとは思えない。ただ、3度のサラリーマン生活に挫折し、社会生活に適応できない「どうしようもない」自分というものを認めた時、それまで、本来の自分に嘘をついてきたことに気づいたのだと思う。そこが出発点であり、同時に危険な崖っぷちでもあったのだ。
そう考えると、尾崎はエリートの仮面を捨てた後、わずか2年半ではあるが、坂を転げ落ちるように“真実の人生”を生きたのではないだろうか。伝記を書いた吉村昭によれば、小豆島での尾崎の評判は「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける」という典型的な“嫌な奴”だったらしい。それは敢えて島の人間と融合せず“いい人”と思われるのを拒んだからとも取れる。
それでも、結果的に尾崎は小豆島で3000句もの作品を残している。最期まで己の孤独から逃げず、鉄のような意志を持って句を作り続けていたことがわかる。尾崎のように生きることは決して勧めないが、我々アラカン世代も、これまでの人生にどこか違和感を感じるなら、尾崎の句を噛みしめるように読んでみるといい。キャリアとか肩書きといった虚飾をはぎ取った先に、本来の自分が見えるかもしれない。それが今後の人生にとって、吉とでるか凶とでるかはわからないが…。