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このコーナーのタイトルは最近流行の「ロハス」ではない。「ロハす」である。つまり、ロハのもの、無料のものを大いに活用しようという節約大好きなシニアのためのコーナーである。第2回目のテーマはNHK-BSで7月10日(PM1:00~2:42)に放送されるアメリカ映画『マルタの鷹』。受信料払ってるんだから厳密にはロハではないという声も出てきそうだが、そういう細かい事はさておいて、純粋に映画を楽しもうではないか。
この映画を「古典的名作」と大絶賛する人もいれば「つまらない映画」と一蹴する人もいる。面白いことに、ダシール・ハメットが書いた原作に対する評価も同様なのである。「つまらない」派の根拠を挙げるならば、話の筋がわかりにくい。どんでん返しのトリックもなければ、派手なアクションも濃厚なラブシーンもない。何より、主人公のサム・スペードを含め、登場人物に感情移入できない等々…。
確かに、出てくる人間全てが紳士淑女とは言いがたく、胡散臭くて、欲望の塊みたいな連中ばかり。この時代のハリウッド映画では“お約束”だった正義の味方も絵に描いたような悪党も出てこない。当然、ハッピーエンドなど望むべくもない。加えて、現代の映画と比較しても極端にスピーディーな展開。観客は次々に繰り出されるエピソードや人物の関連性を飲み込めないまま、ボギー(ハンフリー・ボガート)が早口でまくしたてるセリフの洪水に流されていく。
原作の方がわかりやすいかと言えば、さにあらず。読み進めるほどに再び置いてけぼりを喰らうだろう。ただ、映画が原作にほぼ忠実に作られているということだけはよくわかる。ハメットの小説はハードボイルドの元祖と言われているが、感情表現を廃し、客観的な情景描写と会話だけで構成された文体は、小説というよりむしろ戯曲を思わせる。当時気鋭の脚本家であったジョン・ヒューストンが、監督第一作としてこの小説を題材に選んだのは、決して偶然ではあるまい。
小説が発表されたのが1930年。ワーナー・ブラザースが権利を取得し、翌年と1936年に二度映画化されたが、凡作に終わった。当時の倫理観を考慮し、設定やストーリーを変更したことが裏目に出たのである。ヒューストン監督はむしろその乾いた暴力性や非情さこそ斬新であり、この小説の“キモ”であると確信していたに違いない。そうでなければ、二度も失敗したゲンの悪い作品を処女作に選ぶはずがない。
キャスティングも原作に負けない斬新さ。アクの強い登場人物にリアリティを持たせるため、ホモの匂いプンプンの小男・ピーター・ローレ、舞台出身の巨漢・シドニー・グリーンストリートなど、無名でも実力派の俳優を起用。唯一の例外としてファム・ファタールの役にお嬢様女優のメアリー・アスターを配しており(会社側のゴリ押しがあったらしい)、これをミス・キャストと指摘する人も多いのだが、メアリー・アスター本人の波瀾万丈な私生活を知れば、実は“はまり役”だったと言えなくもない。
そして主役のボギー。今でこそこれが彼の代表作と言われているが、ボギーは最初からスターだったわけではなく、40歳を過ぎるまで、ほとんどギャング映画の敵役ばかりだった。ボギーの主演作は同年に公開された『ハイ・シェラ』が最初であり、この作品と『マルタの鷹』が、ボギーを一気にスターダムにのしあげたのである。『ハイ・シェラ』で脚本を書いていたのがヒューストン監督で、『ハイ・シェラ』も『マルタの鷹』も当初はポール・ムニがキャスティングされていたが、本人が断ったため、ヒューストン監督の要望で2本ともボギーが主役に選ばれた。その後もヒューストン=ボギーのコンビは『黄金』、『キー・ラーゴ』、『アフリカの女王』と名作を連発していく。
『マルタの鷹』が日本で公開されたのは10年後の1951年。ハメットの小説は翻訳すらされていなかったため、日本の観客にとってタフガイ、サム・スペードはボギーの代名詞だった。さらに1946年(日本公開は1955年)にはハメットと並ぶハードボイルドの雄、レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』をハワード・ホークスが映画化。この『三つ数えろ』(これも傑作!)でボギーはフィリップ・マーロウを演じ、トレンチコートにソフト帽、拳銃に煙草というタフでクールな私立探偵像を確立する。
今では神話化されたボギーの男ぶりはさておき、とりあえずこの映画を「ハラハラ・ドキドキ」とか「犯人探し」といったサスペンスにありがちな先入観無しで見ていただきたい。まず事件が起こり、探偵が行動する。そこには周到な計画性や緻密な推理など微塵もなく、嘘も付けば脅迫もする、それでもダメなら殴り倒すといった風に、良くも悪くも、強引かつ行き当たりばったりでなのである。見方を変えれば実にリアル、ピンカートン社の元探偵であったハメットの「現実の私立探偵なんてそんなもんだよ」という声が聞こえてきそうである。
行き当たりばったりであっても、最終的な判断基準となるのは探偵自身の“内なる法”。実際の法律でもなく世間一般の倫理観でもなく、ただただ自分自身のルールに従うのだ。ヘミングウェイの作品にも度々登場するこうした人物こそ、実は最もアメリカ的な人物像と言って良いのではないだろうか。そして、彼らのルールに共感できるか否かによって、この映画の評価は別れるだろう。彼らの判断は、往々にして“苦い結末”を生むからだ。
その“苦い結末”に、ヒューストン監督は原作にはないセリフで、ほんの少しだけロマンチシズムのスパイスを加えている。それは後年「名セリフ」として語り継がれていくのだが、知っている人も知らない人も、見てのお楽しみということで…。