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各地に残る昭和の香りが残る街並みや飲食店を紹介し、無形・有形遺産、国宝級、重文級といったテキトーな評価で「昭和遺産」として認定するこの企画。とはいえ、すべてこちらで勝手に決めつけているので、いつ何時クレームがつくかわからない。しかしそこはそれ、懐かしい時代への郷愁と愛情という風にご理解いただいて、関係者の皆様、穏便にひとつ、お願いいたしマス。<(_ _)>
木場に越してきて3年になるが、最初の1年間、この建物は廃屋だとばかり思っていた。場所はイトーヨーカドーを主体とした総合施設「木場ギャザリア」の西側、平久小学校の向かいにある角地で、横十間川を渡る橋の手前にあるため、道路から見ると上り坂の一段下に位置する。
東京には結構、理由の良くわからない空き地や廃屋がある。実際この近辺でも、最近まで鬱蒼とした茂みに隠れた一軒家やアパートが点在していた。だから、この建物もそのうち壊されてビルでも建つのだろうと思っていた。
それが誤解であることに気がついたのは、引っ越して2年目の夏。じりじりと蒸し暑い日の夕方だった。出不精の私にしては珍しく、ヨーカドーで買い物をしたついでに近くを散歩してみようと思ったのだ。
向かい側で信号待ちをしていたら、“廃屋”の右手にある引き戸が少し開いている。あれ、誰かいるのか…。ほどなく引き戸がガラリと開いて、中年の男性が出てきた。「あっ、人が住んでいたのか!」。そう言えば入り口にいつも自転車が置いてあったっけ。しかし、人が出てきたからと言って、家だとは限らない。何か怪しげな工場とか、アジトかもしれない。もしかしたらさっきの男性はチャイニーズ・マフィアか? 何しろ、昼間は全く人の気配がしないのだから。
そんな風に勝手に想像を巡らせていたら、今度は正面の引き戸がいきなり開いた。思わず立ち止まって見ていたら、70代後半から80代と思われる年配のご婦人が何かを持って出てきた。よく見ると暖簾だ。しかも相当使い込まれていて、色の褪せ方が半端ではない。
ご婦人は暖簾の竹竿を両端の金具にかけようとしていたが、お歳のせいか、少し辛そうだった。思わず駆け寄って竿の端を持ち、代わりにかけてあげた。ご婦人は「知り合いの人だったかしら?」といったような、ちょっと怪訝そうな表情で「ありがとう」と言うと、また引き戸の奥へ消えていった。
おそるおそる暖簾の奥を覗くと、おそろしく雑然とした情景が目に飛び込んできた。無造作に積まれた段ボール、重なったビールケース、中央には八の字型のカウンターがあり、壁には写真とかカレンダーとか、どう表現したらいいかわからない種々雑多なものが、これまた無造作にベタベタ貼られていたり、掛けてあったりする。上の方には煤けて真っ黒になった無数の提灯…。
その時ようやくここが酒場であることに気がついた。しかし、私は夜もここを何度か通ったことがあるはずだ。なぜ今まで気がつかなかったのか…。その謎を解くために(別に解かなくてもいいのだが)それから一月後、私は意を決して“謎の廃屋酒場”に乗り込むことにした。
夕方4時頃開店することは先刻承知だったので、5時頃行って見ることにした。家から歩いて10分。どんなに酔っても帰りの心配は要らない。暖簾をくぐると、カウンターで寛ぐ猫と目があった。私が近寄ると猫はすぐさま退散。それを見たくだんの老婦人が「あら、アンタ逃げなくってもいいじゃないの」
さっきまで猫が居た左側の席に座ると、前回見たときより遙かに店の全体像が見えてきた。くすんだ壁の色、使い込まれたカウンター、すり減った木の椅子。どうみても50年以上は経っている。右側のカウンターにはすでに常連さんらしき先客が2名。2人ともホッピーを飲んでいたので、迷わずホッピーを注文。後で知ったのだが、この店でビールを注文するのはタブーらしい。しっかりメニューの札は下がっているのだが…。
老婦人は冷蔵庫から何やらペットボトルのようなものを取り出し、そこからコップに中の液体を注ぎ、それをまたジョッキに注ぐ。どうやらペットボトルの中身は焼酎(キンミヤ)で、コップは計量に使っているらしい。注ぐときの手が少しばかり震えていて、それがまた店全体の味になっている。
そういえば誰かに聞いたことがある。氷を入れず、焼酎とホッピーの両方を冷やすのが正しい飲み方だと。しかし、ホッピーというのはもともとビールが高かった時代の代用品だ。ウンチクを語るよりもビールを飲んだ方がいいような気もする。この店は例外として。
後ろにつまみのメニューがあったので、何か選ぼうと思ったのだが、選ぶほどの数ではない。にこみ300円、とまと400円、バタピーナッツ200円、かけじょうゆ400円…。ん? かけじょうゆって何だ? 思わず聞いてみる。「まぐろのブツ。食べる?」とすぐに返事。「いや、にこみを下さい」。
しばらくするとどんどんお客が入ってきて、8割ぐらいは埋まってきた。知らなかったのは私だけで、結構人気の店のようだ。老婦人は心なしか少し声のトーンも上がって、3人連れのお客と嬉しそうに話している。しかし、ホッピーを2杯ほど飲んで気がついた。入って小一時間、やたらと暑いのはまだ開店したばかりで、エアコンが効いていないせいだと思っていたら、そもそもこの店にはエアコンがないのだ。代わりに年代物の扇風機が背後でブ〜ンと音を立てている。
老婦人は、店の奥の方で誰かと話をし始めた。どうやら先日の怪しい中年男性のようだ。たぶんふだんは調理場にいるのだろう。今まで“廃屋”とか“チャイニーズマフィア”とか言ってきことを、心の中で詫びた。そこでふと壁を見ると、木彫りの千社札があり、そこには「満寿美」と書かれている。少し酔いが回ってきて人恋しくなってきたので、老婦人に聞いてみた。
「ねぇ、ここに書いてある満寿美って誰?」すると「あ・た・し」という意外な返事。「へぇ〜、そうなんだ。若い人かと思った。だって昔だったらかなりモダン名前だよね」「そうなのよ。いつもお客さんにマスミちゃんはどこにいるの?って聞かれるから、今学校に行ってるって答えることにしてたの」
いつしか“廃屋”は酒飲みのパラダイスに代わり、愚か者たちの夜はふけていく。案の定、へべれけになった私はもつれる足で店を出た。店の中も暑かったが、外もモヤモヤと暑い。しばらく歩いて振り返った私は、なぜ今までこの店に気がつかなかったかがわかった。8時頃には店を閉めてしまうからだ。営業時間4時間弱。無理もない。おそらく満寿美さん、80歳を過ぎていらっしゃる。よろよろと千鳥足で歩きながら、私はもう一度振り返り、意味もなくつぶやいた。「おふくろ、いつまでも元気でな」。