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各地に残る昭和の香りが残る街並みや飲食店を紹介し、無形・有形遺産、国宝級、重文級といったテキトーな評価で「昭和遺産」として認定するこの企画。とはいえ、すべてこちらで勝手に決めつけているので、いつ何時クレームがつくかわからない。しかしそこはそれ、懐かしい時代への郷愁と愛情という風にご理解いただいて、関係者の皆様、穏便にひとつ、お願いいたしマス。<(_ _)>
地下鉄東銀座駅(都営浅草線・有楽町線)の通路に1カ所、いわゆる“トマソン”地帯(意味不明な場所)がある。なぜか数メートルの距離を一旦下ってまた登るだけの2つの階段があるのだ。この駅を利用するのは歌舞伎座(現在工事中)の客が圧倒的多数。そしてその客層の多くを占めるのが高齢のご婦人だったりするわけで、現在はエレベーターが設置されて改善されてはいるが、かつては老人には過酷な地上への急階段が問題視されていた駅。
その駅にあって、まるで老人イジメか、はたまた都会のアスレチックかと思わせるような意味不明の階段。ここに水やお湯を張れば、プールに入る前の消毒液というか、刑務所の風呂場というか、そんなイメージがぴったりの窪みである。しかし、今回のテーマはこの窪みではない。この窪みの真上にある「地下街」なのである。そう、この窪みは、地下街の下に通路を確保するために造られた場所なのである。
地下街の名称は「三原橋地下街」。名前を聞いてもピンと来ない人も、歌舞伎座のちょっと先にある古臭い地下通路と言われれば思い出すだろう。かつてはパチンコ店やニュース専門の映画館が軒を連ねていたが、その後紆余曲折を経て映画館や飲食店、理髪店が雑然と並ぶようになり、入れ替わりの激しい銀座(の端っこ)にあって、いつのまにか時代に取り残された場所になっていた。
「ああ、あそこね」と思ったアナタ、たぶん「だけどそれがどうしたの?」と感じたことだろう。特に昭和遺産として取り上げるほどのこともない、新橋界隈なら珍しくもない場所ではある。しかし、今回この地を取り上げたのには理由がある。耐震性の問題を理由に、この地下街が3月いっぱいで消えてしまうからだ。
消えてしまう場所を「遺産」として指定するのは筋が違うような気もするが、敢えてそうするのは、この場所が昭和そのもののような気がするからだ。戦後、復興の名の下に「とりあえず」いろんな物が造られては壊されてきた。住む家が無い時に「家事の導線」とか「配線や水回りの整理」などといった悠長な事を考えるヤツはいない。バラックでも掘っ立て小屋でも、とりあえず屋根があれば良かったのである。
空襲で破壊し尽くされた都心を作り直す際に、現在のように「100年後を考えた都市計画」など考える余裕は無かったし「すべて元通りに再現する」というヨーロッパ人的な発想も無かった。そのことを今になって批判するのは当時の現実を知らぬ者の妄言である。政府も、企業も、一市民も、誰もが生きるために必死だった。三原橋地下街は、そうした「とりあえず」的事情の中で生まれ、現在まで奇跡的に生き残った昭和の“タイムカプセル”なのである。
三原橋といっても、その面影は道路上に見られるわずかな傾斜のみである。数寄屋橋や京橋なども地名として残ってはいるが、すでに実際の橋は無い。東京にはそういう場所がたくさんある。かつての江戸・東京は川や堀割が縦横無尽に整備された「東洋のベニス」とも賞される水の都であった。それだけ多くの水路が造られた理由は、ひとつは飲料水確保のため、もうひとつは物流のためである。水道に関しては、江戸時代中頃までににほぼ完成しており、それ以降、水路は殆ど舟運のために利用されていた。
しかし、鉄道や自動車の普及によって水路はだんだん不要になってくる。その結果、関東大震災を契機に大正から昭和にかけて埋め立てが進み、空襲によってさらに加速した。三原橋の下を流れていた三十間堀川(堀川とは馬から落馬みたいなヘンな日本語だが…)もそのひとつ。昭和24年から瓦礫処理のために埋め立てられ、昭和24年には完全に姿を消した。
同時に紀伊国橋・木挽橋・賑橋といった橋も撤去されたのだが、都電が走っていた三原橋だけは便宜上残され、橋の下だけが埋め立てられることになった。結果として埋め立て地は高架下の空間となり、露天商など、戦後の「とりあえず」商売をしてきた人たちにとってはちょっと魅力的な“屋根付き”の立地となったわけである。
GHQによる露店整理令を契機として、昭和27年から28年にかけてこの地は都から民間に払い下げられ、銀座館マートという新興マーケットになった。これが三原橋地下街の原型である。しかし、この背景にはいわゆる“戦後のドサクサ”があり、後に一種の疑獄事件として国会で追及されることになる。地権者となった政商・小宮山英蔵(平和相互銀行創業者・銀行は後に住友銀行が吸収合併)と当時の安井都知事の間で何らかの了解事項があったらしく、本来、この地下街は都の観光推進という使用目的に限られていたのだが、実際には橋の両脇に建てられた2つのビルに観光案内所など、タテマエとしての施設があるだけで、地下街の半分はパチンコ店に占められていた。
要は、地権者は新東京観光というもっともらしい受け皿会社を作っただけで、パチンコ店などに又貸し、都も寄付金名目のカネを受け取ってこれを黙認していたというわけだ。結局、この事が問題化してパチンコ店は撤退、跡地に「地球名画座」という映画館が入って、平成元年にシネパトス2・3となる。全国でも珍しいニュース専門映画館だった向かいの「テアトルニュース」は「銀座名画座」となって、その後「シネパトス1」になった。
この「シネパトス」というのがなかなかのクセ者で、3館の客席全部合わせても300席足らずという小さな映画館ではあるが、古くから独立プロや自主制作、B級作品などを専門的に上映する貴重な“小屋”として、一部のマニアには重宝されていた。取材時に訪れた際の上映作品も壇蜜主演『私の奴隷になりなさい 成人指定版=ディレクターズ・カット(R18+)』とか、スティーブ・オースティン・ドルフ・ラングレン主演のB級アクション『マキシマム・ブロウ』とか、思わず唸ってしまうラインナップだった。
最後の上映作品は「取り壊しが決まった銀座の古い名画座」を舞台にした『インターミッション』。秋吉久美子・染谷将太・香川京子・小山明子・水野久美・竹中直人・佐野史郎など錚々たるメンバーの他に、ひし美ゆり子・畑中葉子・水原ゆう紀といった、かつてアラカン男子の一部分?を熱くした女優さん達もゲスト出演している。
シネパトス2・3の壁面には、閉館を惜しむたくさんのスター達のサイン色紙が貼られ、一般人の寄せ書きもあって思わず行き来する人たちを立ち止まらせる。恐らく、ここを毎日のように通りながら一度も映画館や飲食店に入らなかった人が沢山いることだろう。かくいう私もその一人であった。しかし、そのことを後悔する人がいったい何人いるだろうか。
ここにはとりあえず造られた地下街(とは言うものの、設計者は土浦亀城というフランク・ロイド・ライトの門下生で立派なモダニズムの建築家なのだが)でとりあえず営業してきた店が残ったのであって、失礼とは思うが、味がいいとか雰囲気がいいとか、そういう理由で残ってきたわけではないだろう。そういう意味でもここは“昭和の残像”なのである。
取り壊しが決まってから、すでに数店が退去したようだが、まだ営業している飲食店もある。古い地図を見ると「三原」という名の店が2店あるのだが、そこに書かれた「三原ソバ」という店がおそらく現在の「カレーコーナー三原」という定食屋であり、「三原」というのが小料理屋「季節料理 三原」なのであろう。私は両方のメニューを確認した後、とりあえず小料理屋の方に入ることにした。
ストックヤードが無いということがこの時代の地下街の大きな弱点なのだが、この店はそんなことはどうでもいいと言わんばかりに大きな冷蔵庫をドカンと通路に置いている。訪れたのは午後4時頃。引き戸を開けると年配のご婦人がカウンターで仕込みの作業中だった。「いらっしゃい。何にします?」「サバの味噌煮」「ああ、サバは終わっちゃったの。秋刀魚とかならあるけど」「じゃあ、秋刀魚でいいや」
店内はお約束通りの雑然とした雰囲気。カウンターと小上がりのみ。10人も入ればいっぱいだろう。壁には浮世絵のようなものがベタベタ貼ってあり、ブラウン管のテレビに映っているのは定番の2時間ドラマ。ふと見るとカウンター脇に額入りの写真。あくまで推測だが、おそらく亡くなったご主人ではないか。地下街が出来てからずっと、この地で近所のサラリーマンや労働者相手に夫婦で切り盛りしてきた店。高度成長期にはさぞ賑やかだったであろう。
「ここが無くなるって決まってから、ここを通る人が増えたんじゃない?」「さあ、どうでしょうか。わかりませんけど…」ご婦人がちょっと不機嫌になった。悪い質問だったようだ。しかし、それにしても言い方がトゲトゲしくて愛想がない。そこからしばし沈黙。気まずい雰囲気を打開しようとあれこれ考えたのだが、これといった妙案も浮かばないし、敢えて機嫌を取る気にもなれない。そんな折に沈黙を破る、威勢のいい酒屋さんの配達。若い衆(これも死語か?)が2人だ。配達を終えて帰ろうとした時にご婦人が呼び止めた。
「ちょっと待って。田舎から大量に赤飯が送られてきたのよ。今おにぎり握るからさ、食べていきなよ」そう聞いて嬉しそうな若い衆。『このオバチャン、結構いい人なんだな…』私の印象が好転したと同時に、カウンターの隅に置かれた酒瓶に目が行った。「奥の松」私の故郷、福島県は二本松市の酒造である。『もしかしたらこのオバチャン、同郷なのかも…』やがてカウンターにご飯と納豆、お新香に味噌汁が乗せられた。もうすぐ秋刀魚が焼けるというサインか…。
「はい、おまちどおさま…」旨そうな秋刀魚が出てきたタイミングで声をかけてみた。「もしかして福島の人?奥の松って言えば二本松でしょ」「そう。うちは奥の松の工場の近くなんですよ」そこから一気に二本松談義に花が咲く。酒のこと、菊人形のこと、白虎隊と並ぶ幕末の悲劇・二本松少年隊のこと…。ついこの前「古都逍遙」取材で30数年ぶりに会津若松に行ったのだが、この地で、しかもこの取材で同郷人に会うとはビックリ。どうも今年は故郷に縁があるようだ。
きっとこのご婦人は3月いっぱい、最後の日まで普段と変わらず営業を続けるのだろう。その証拠にたくさんぶら下げられたお品書きの中に「柳ガレイ入りました」の文字。常連客に故郷の、しかも旬の物を提供したい、そんな想いが溢れている。今風のこだわりもなく、感動するほどの美味でもなく、値段も取り立てて安いわけではない。しかし、かつては近所の蕎麦屋にしてもラーメン屋にしても、みんなそんなものだった。素人がブログで味に点数をつけたり「客なんだから」なんて野暮な事を言う者もいなかった。ごく普通のラーメンでもかけそばでも、ただ提供されたものをみんなが黙々と食べていた。いい悪いは別として、それが昭和という時代ではなかったか。
「みんな生きていくのに必死」という共感だけで成り立っていた時代。それは「みんな等しく生きる権利がある」という意味の裏返しでもある。思えば昭和というのは、大きな風呂敷のようなものだった。いいものも悪いものも、本物も偽物も、権威もいかがわしさも、すべてをひとからげにして包みこんでいた。この店もまた、オバチャンのささやかな風呂敷。そして三原橋地下街も懐かしい唐草模様の風呂敷。たくさんの人生を包み込んだまま、誰も使わなくなった風呂敷のように、古臭いタンスにしまわれたまま、いつしかひっそりと忘れられていく…。