各地に残る昭和の香りが残る街並みや飲食店を紹介し、無形・有形遺産、国宝級、重文級といったテキトーな評価で「昭和遺産」として認定するこの企画。とはいえ、すべてこちらで勝手に決めつけているので、いつ何時クレームがつくかわからない。しかしそこはそれ、懐かしい時代への郷愁と愛情という風にご理解いただいて、関係者の皆様、穏便にひとつ、お願いいたしマス。<(_ _)>

そもそもは「復興住宅」だった

 前回に引き続き、今回も「消えていく遺産」である。消えてしまうのに遺産と称する矛盾をまた指摘されそうなので少々自己弁護させていただきたい。この建築物は2013年5月以降の解体が予定されているので、前回の三原橋地下街同様、記事をご覧になった時点で、建物が残っているという保証はない。だからご興味がある方はぜひ見に行って欲しい(住人の邪魔にならない程度に)。そして、街並みや建築物のありかたについて考えていただきたいのである。

 というわけで今回は、現存する唯一の同潤会アパート「上野下アパートメント」である。「あれ、まだ他にもあるじゃないの」と思った方、それは誤解である。例えば清澄庭園近くの「清州寮」などは同年代に建てられた集合住宅ではあるが、同潤会とは無関係。「確か三ノ輪にもあったはず」と思った方、三ノ輪アパートメントはすでに2009年に解体されている。同潤会アパートは間違いなく今年ですべてが消えてしまうのだ。

 意外に知っている人が少ないので、「同潤会」とはなんぞやということから説明しよう。正式名称は財団法人同潤會(内務省管轄)。関東大震災後の住宅供給を目的として、震災の翌年、大正13年(1924)に設立された。財源は国内外の義援金が当てられ、東京と横浜の仮設住宅建設から始まって、震災での火災を教訓に、燃えない住宅、つまり鉄筋コンクリートによる集合住宅建設に主眼が置かれた。都心鉄筋マンションのハシリというわけだ。

 当初設計を主導したのは東大安田講堂などの設計で知られる内田祥三の研究室で、その第一号が「中之郷アパートメント」(墨田区押上〜大正15年竣工・昭和63年解体)である。以後東京・横浜に合計16箇所(中之郷、青山、柳島、渋谷=代官山、猿江裏町=住利、東大工=清砂通、山下町、平沼町、三ノ輪、三田、日暮里=鶯谷、上野下、虎ノ門、大塚女子、東町、江戸川)が大正15年から昭和9年にわたって続々と建設された。

 このうち、最も有名なのは青山(表参道)と代官山であろう。60年代後半から若者が集まるファッショナブルな店舗と、蔦の絡まる古いアパートの対比が、不思議なほど溶け込んで、この2つの街に独特の個性を与えていた。それゆえに、いまだに近年の「再開発」を恨む声も多い。

 個人的な話ではあるが、私が表参道や代官山からすっかり足が遠のいてしまったのは、同潤会アパートが消えてからである。再開発後に2つの街を歩いたのは当時親しかった女性に食事に誘われたからで、そんな下心たっぷりの理由がなかったら行くこともなかったであろう。かつては高級ブランドのショップから目と鼻の先に子供の砂場や三輪車があり、アパートの窓辺には小さな鉢植えが飾られていた。表参道や代官山は、生活感あふれる日常と、庶民には手の届かない非日常が混在した、稀有な街だった。

消えていく“ぬか床”

 再開発にあたって同潤会アパートの保存運動が盛んに行われたのも記憶に新しい。安藤忠雄氏の設計した「表参道ヒルズ」にはアパートの一部が復元され、低層階に統一するなど景観のイメージを損なわないよう最大限の努力をしたことは認められるが、どう頑張っても新しい建築物には深みというものがないし、人の発する温かみも感じられない。関係者の方々には申し訳ないが、森ビルが中心になって手がけた近年の再開発、特に六本木や赤坂の、のっぺりした無表情なビル群は、私にとっては皆同じに見えるし、一度訪れてみればそれで十分、二度訪れるほどの魅力は感じないのである。

 例えば同潤会アパートの立地が日本橋や茅場町であったならば、私は関心を持たなかったであろう。そこは古くからオフィス街として機能しており、無機質なビルのスクラップ&ビルドが繰り返されても、それはそれで都市の機能として納得できる。しかし、表参道や代官山はその時代の若者文化を発信してきた街であり、感性を育ててきた場所でもある。一律に都心の利便性とか、地価に見合うような経済的合理性をあてはめようとしても、そこから文化は生まれない。

 自然界で例えるなら、森林や湿原、干潟は、一見機能を持たず、ただ自然に形成されたように見えても、その実、全く無駄なく機能し、多様な命を育んでいる。都市もまた同じで、一見雑然としているようでも、時間をかけて多様な機能性と多様な生き方を育んでいる。従って、一面だけを見て判断し、無闇に破壊したり整理しようとすると、内部の複雑なメカニズムが壊れ、バランスを失ってしまう。近代に入って森林や湿原、干潟がどんどん破壊されたことで生態系のバランスが崩れ、多くの貴重な種が失われたことは、生物学者でなくともご存知だろう。

 多くの都市開発が、こうした目に見えない“ぬか床”を破壊し、文化や伝統の醸成を断ち切ってしまった。あくまで私感だが、表参道も代官山も六本木も、合理性や経済性を優先した結果、多様性を失い、どこにでもある薄っぺらで画一的な街になってしまったように思う。一見整然として綺麗に見えても、豊饒の海は死滅し、そこからは何も生み出されない。まるで埋め立てられた干潟のようなものだ。

 そうでなくとも、若者がなんとなく集まる魅力的な場所は東京からどんどん減ってきている。吉野家やマックで食事し、ユニクロで服を買い、日常の買い物はコンビニで済ませ、スマホを片手にマンションの一室に籠る。それを批判するのはたやすいが、彼らをそんな日常に追い込んだのは都市に魅力がなくなったからではないのか。

 何か目的があるわけでもなく、遊ぶための金もなく、それでもただ歩くだけで楽しい。それがかつての表参道や代官山であり、同潤会アパートは、そういった貧しい若者たちが集まりやすい「気安さ」を演出していたように思う。それを「ヒルズ」だの「アドレス」だのといった横文字の高級な商業施設に変えた結果、何が残ったのか。街全体がただの“高級ショッピングモール”に変わっただけでないだろうか(これもあくまで私感です)。

残すべきか壊すべきか

 さて、ついつい熱く語ってしまったが話を元に戻そう。「上野下アパートメント」である。昭和4年竣工というから今年で築86年。建物は2棟で4階建て、総戸数76。大通りに面した1階には理髪店、クリーニング店、居酒屋がある。今では当たり前だが、各戸に電気・都市ガス・水道・ダストシュート・水洗式便所など当時としては最先端の設備が備えられていた。かく言う私も、子供の頃一家で長屋から近代的なアパートに引っ越した時、水洗トイレに感動し、何度も水を流して喜んでいたっけ…。

 すでに住民の合意は済んでおり、2013年5月より解体、2015年度に新しいマンションが竣工予定とのこと。解体が決まってから見物人も多いらしく「無断立ち入り禁止」の看板が目立つ。すでに退去した住人の残骸もあれば、まだ生活感のある窓辺も残る。終戦後の昭和16年、同潤会は住宅営団に業務を引き継いで解散、その後大部分が居住者に払い下げられたため、管理は住民の自治会に委ねられた。従って、このアパートが生き残ったのは一にも二にも住民の管理努力ということになる。

 権利関係が複雑だったことに加え、敷地が表参道や代官山のような一等地でなかったことも、これまで存続してきた一因であろう。建て替えの理由としては前回の「三原橋地下街」同様、老朽化や耐震性の問題というのが一番であろうが、何か釈然としないものも残る。古い建築物の保存については必ず意見が割れる。結局結論を見ないまま老朽化が進み、火災等によって失われた建築物は数え切れないが、再建された例は少ない。

 他国に目を向ければ、戦争で破壊されるたびに、市民がそっくりそのまま元通りに再建してきたワルシャワ旧市街(世界遺産)の例もある。占領時代の長かったポーランド人にとって、この街並みは民族のよすがであり、守るべきアイデンティティーなのかもしれない。東京の場合は江戸時代から大規模災害や戦火の度に新たな都市計画がたてられ、時代の価値観に応じて変貌してきた。つまり、その時々でリセットが可能だったわけである。いささか強引な解釈だが、日本人のアイデンティティーは明治維新といい、戦後デモクラシーといい、そうした「リセット感覚」つまり変わり身の速さが根底にあると言えなくもない。

無機物から有機物へ

 同潤会アパートのように災害に備えて古い建築を破壊し、新たな建築物をこしらえるのは一見理にかなっているが、耐久性を高くするということは長い間残る、つまり簡単にリセットできないということでもある。そうなると、新たに造られる建築物にはすべて後世に残すだけの価値があるのかという疑問も湧いてくる。木と紙でできた家は、いつかは燃えて消え去るのが前提だから江戸の庶民は常に「仮住まい」で良かった。しかし、鉄筋コンクリートのビルやマンションは簡単には壊れないし、再利用できない大量の廃材を生む。この簡単なようで実は罪深い理屈が多くの日本の市街地を美的センスのない、無秩序な景観にしてしまったように思う。しかも、戦後のドサクサ状態ならまだしも、経済大国になった今でもこの悪循環から抜け出せずにいる。

 何を残し、何を壊すか、そして新たな建築にどんな意味を込めるのか、そういった都市設計に関して、我々日本人はあまりにも哲学が無さすぎるように思う。当サイト連載の「古都逍遥」で取り上げる予定の街は行政が「町並保存地区」に指定した地域が多いのだが、そのほとんどは意図的に残されたわけではなく、かつては繁栄していたが、時代に取り残された為に再開発を免れた、という地域がほとんどである。本当に美しい町並みというのは、膨大な時間の流れと代々そこに暮らす人々の細やかなメンテナンスによって成立する。「再開発」によって粗製濫造した町など、10年後、20年後には古臭い無機物の塊でしかないだろう。

 「三原橋地下街」や「同潤会アパート」に価値があるとすれば、文化的な価値とか歴史的な価値よりも、無骨で機能本位の無機物だったものが、人々の営みによって命が吹き込まれ、有機物的な存在になったという一点に尽きるのではないだろうか。壁や柱に染み込んだ手垢や天井の煤、梁に溜まったホコリに生活者の営みを映し、何十年もの歳月を経て、有機物の如く風景に溶け込んでいく。

 都市をつくる、美しい景観をつくるというのは、実はこういった無機質なものに時間と手間暇をかけて有機的な存在に変えていく作業ではないかと思う。建物自体に永遠に残すほどの普遍的価値はないかもしれないが、壊してしまえば、心のなかの何かが失われる。しかし、その「何か」が、私達にとっては、資産価値以上に重要だったりする。古いものは残ったから価値があるのではない。価値があるから残ったのだ。それを忘れてはいけない。


同潤会上野下アパートメント「文化遺産(指定文化財級)指定」但し5月まで☆☆☆
指定理由:風景はささやかな記憶の断片だが、人生はその断片の集合体に過ぎない。
今後の課題:「防災」という美名に隠れた“誰かの利権”にそろそろメスを入れるべきでは?