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各地に残る昭和の香りが残る街並みや飲食店を紹介し、無形・有形遺産、国宝級、重文級といったテキトーな評価で「昭和遺産」として認定するこの企画。とはいえ、すべてこちらで勝手に決めつけているので、いつ何時クレームがつくかわからない。しかしそこはそれ、懐かしい時代への郷愁と愛情という風にご理解いただいて、関係者の皆様、穏便にひとつ、お願いいたしマス。<(_ _)>
突然、福島に住む母から「お父さんが肺癌(がん)で手術が必要だ」という連絡を受けた。タバコも酒もやらない健康オタクの父が、癌で手術?と、しばらく頭の整理がつかなかったが、よくよく聞いてみると「腺がん」という非喫煙者、特に女性がかかりやすい癌だとのこと。そういえば昨年の春頃から「最近疲れやすい」と漏らしていた。その頃すでに片肺が冒されていたのだ。
医大の教授である兄が言うには「手術して切除しないと半年ももたない」との事。内科の医師は「高齢であることを考慮するとリスクが高いので避けたほうが良いように思うが、かといって薬で治る見込みはない」との見解で、反対に外科の医師は「他に悪い箇所がないのだから、多少のリスクはあっても手術すべき」とのこと。最終的な判断を本人に任せた結果「苦しみながら余生を過ごすより、結果はどうあれ切除してもらった方がいい」。
手術当日の朝「本当にどうなっても後悔しないか?」という私の問いに「わが人生に悔いなし」というどこかで聞いたような返事。そう言いながらも、父は不安に押しつぶされそうな顔をしていた。無理もない。脇の下を切開し、肋骨を数本切断してから片肺の大部分を摘出するという4時間以上に及ぶ大手術である。
私は父の頭をそっと撫でた。もう生きて会えないかもしれないと思うと胸がいっぱいになった。父は無言のまま微笑むと、集中治療室に消えていった。
4時間後、父は“生還”した。手術当日は完全看護のため付き添いを見送ったが、翌日の晩は、私が付き添うことになった。母は高齢の上心労が重なり、体調が最悪。両親と二世帯住宅に住む兄夫婦は揃って東京で新年会に出るというので、こちらにお鉢が回ってきたわけだが、母が「兄は仕方ないとしても、嫁が同行する意味がわからん」と凄い剣幕。この嫁姑問題は、勃発以来すでに30年が経過。今後も改善する見込みがないので、あれこれなだめて矛を収めてもらった。
父と二人きりになるのは何十年ぶりだろう。意識は戻ったものの、点滴など体に通された複数の管をむずがる父に手を焼き、食事の世話などバタバタしているうちに、あっという間に消灯時間になった。宿泊用の簡易ベッドというものがあるにはあるのだが、これが担架程度の大きさで寝返りも打てない。加えて父の呼吸困難を伴った壮絶なイビキが一向に収まらないので、結局眠ることもできず、ただじっとしているほかなかった。
病室の闇の中で、取り留めもないことを考えていた。85歳という年齢を考えれば、今回回復したとしてもそう長くは生きられないだろう。それは母も同じ。両親ともずいぶん長生きをしたなと思う反面、人生は短いとも思う。そういう自分だってそんなに先があるわけじゃない。折り返し点はとうに過ぎているわけだし…。
2月の中頃、他の取材で上京した折に、上野松坂屋(正しくは松坂屋上野店)南館のリニューアルが決まり、屋上遊園の営業も終わるというネットの記事を地下鉄での移動中に思い出し、ならば写真でも撮っておこうかと上野広小路で途中下車した。
店舗は地下鉄と直結しているのだが、南館屋上まで行くのには少々迷った。南館ができたのは昭和32年。すでに我々と同じ“アラカン”世代である。我々同様、店舗の疲労感は否めないが、その分、昔ながらの百貨店のイメージを残している。ちなみに最初の「お子様ランチ」は昭和5年、日本橋三越と言われているが「お子様ランチ」のネーミングは上野松坂屋が最初である。百貨店での食事といえば「お好み食堂」だった時代の話。
平日だったせいか、屋上遊園は人影もまばら、その代わりに数人の“アラカン”サラリーマンがベンチで昼寝していた。子供だった頃の遊び場が、時間の経過と共に避難所に変わってしまったのか。妙な感慨にふけっていると、どこからか子供の声がする。
ふと見ると、敷地の中央にある「きかんしゃトーマス」アトラクションの中に、大雪の際に作ったと思われる溶けかかったパンダの雪だるまがあり、その近くでニコニコと微笑むスキンヘッドのオジサンを発見。見たところ屋上遊園の関係者に違いない。もしそうでなかったら不気味なだけだが…。
「ここ、営業はいつまでですか?」とオジサンに聞くと「3月11日までなんですよ」との答え。やっぱり関係者の方だった。でも、もしかしたらただ詳しいだけの一般人かもしれない。もしそうなら更に不気味だ。しかしオジサン「あっ、ちょっと待って下さいね」と言い残して窓口に行き、パンフレットを持ち帰って手渡してくれた。
たぶん幼いころの郷愁に惹かれ、私のような“駆け込み”客がたくさん来るのだろう。「ありがとうございます」と言ってパンフを開くと、オジサンの写真とインタビュー記事が載っていた。ああ、齋藤さんとおっしゃるんだ。「楽しくなければ屋上じゃないって思ってます」という見出し。斎藤さんは子どもたちの笑顔と、日々変わる空と、頑張る遊具を何十年も見続けてきたのだ。時代の流れとはいえ、閉園が決まってからの胸中は複雑だろう。
遊具はほとんどが人気のキャラクターを使った比較的新しいものだが、昔ながらの“ただ揺れるだけ”というパトカーや消防車もある。このシンプルな動きに比べれば、現代の家庭用乗馬マシーンなどは驚異的な運動能力と言っていい。ただし、子供にとっては動きの複雑さなどさほど問題ではない。警察官や消防士にいかに「成り切れるか」が大事なのである。
子供はみな想像力の塊である。かつての私もそうだった。50年前、福島の田舎でも、日曜になると家族揃って精一杯のお洒落をして、百貨店に出かけたものだ。そこには「お好み食堂」と「屋上遊園地」がセットになっており、個人的には「ソフトクリーム」という特典がついていた。初めてソフトクリームを食べた時「こんなに美味いものが世の中にあるのか」と感動したものだ。「明日百貨店に行く」と考えただけで興奮し、前の晩は眠れなかったっけ。
屋上では遊具に乗りたくてたまらず、決まって父におねだりをした。父はいつも嫌な顔をせず、ニコニコしながら10円玉を渡してくれた。思えば若い頃から酒も煙草もギャンブルもやらず、女性も母一筋という人だった。当時はまだ学生だった叔父に送金もしていたから、僅かな小遣いはほとんど兄と私のワガママに消えていたはずだ。
大袈裟なようだが、あの頃、あの場所で感じた以上の幸福感を私は知らない。田舎の百貨店のささやかな屋上遊園地と、ソフトクリームのあるお好み食堂。遊具と言ってもただ揺れるだけ。食事のメニューはうどん、そば、ラーメンにかつ丼ぐらい。お子様ランチのケチャップライスに乗った爪楊枝の旗を、後生大事にポケットに入れて持ち帰ったっけ。貧しくて何も買えなかったが、幼い私にとっては父がいて、母がいて、兄がいて、ただそれだけで十分だったのだ…。
病室の闇の中で私は考えていた。あんなに大好きだった父を、いつ頃から避けるようになったのか。家を出てから何十年もの間、父とまともに会話したことがなかった。話すべきこと、聞いておくべきことが沢山あったはずなのに。もし手術が失敗していたら、私はどれだけ後悔しただろうか。
自分なりの幸せを探すために親元を巣立ったはずなのに、掴もうとする度に、いくつもの大切なものが私の掌をすり抜けていった。それはそれで良い。もう終わったことだ。しかし、なにがしかの虚しさは残る。思えば私は、何かを一所懸命にやっているつもりでも、あの遊園地の小さなカルーセルや観覧車のように、無意味で小さな円を繰り返し繰り返し描いてきただけだったのかもしれない。もしかすると、これから先もそんな繰り返しなのかもしれない。
父が目を覚ましたら、聞いてみたくなった。「お父さん、僕の人生はそれで良かったのかな?」。たぶん父はこう応えるだろう。「意味があるかないかはわからないけど、お前、あれに乗っている時は凄く楽しそうだったよ。それに、そんなお前を見ているのが、お父さんは好きだったんだ」