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各地に残る昭和の香りが残る街並みや飲食店を紹介し、無形・有形遺産、国宝級、重文級といったテキトーな評価で「昭和遺産」として認定するこの企画。とはいえ、すべてこちらで勝手に決めつけているので、いつ何時クレームがつくかわからない。しかしそこはそれ、懐かしい時代への郷愁と愛情という風にご理解いただいて、関係者の皆様、穏便にひとつ、お願いいたしマス。<(_ _)>
ここ数年、加速度的に減り続けているのが銭湯と名画座だ。銭湯の話は次回以降に回すとして、今回は“我が青春の”名画座についてしみじみと語ってみたい。
まず、近年いつの間にか消えてしまった名画座について触れておこう。これを読んで「えっ!あのコヤ(映画館のことを古い人間はこう呼ぶ。ちなみに映画はシャシン)が閉まっちゃったの!」と驚く映画ファンもたくさんいることだろう。そう。あなたの知らぬ間に、ひっそりと閉館した名画座がたくさんある。
例えば「三軒茶屋シネマ」が今年7月に閉館、かつてサラリーマンのオアシスであった新橋ガード下の「新橋文化劇場」「ロマン劇場」も8月に閉館。昨年は「三軒茶屋中央劇場」に、この項でも紹介した「銀座シネパトス」、一昨年は浅草の「浅草シネマ」「浅草世界館」「浅草名画座」「浅草新劇場」「浅草中映劇場」が一気に消えてしまった。浅草といえば昭和20〜30年代には30館以上の映画館がひしめき合う映画のメッカであった街だ。
「銀座並木座」「飯田橋佳作座」「高田馬場パール座」「後楽園シネマ」「大塚名画座」「三鷹オスカー」といった名前を懐かしく感じるファンも多いだろう。もちろん、今はもう存在しない。
先日他界した高倉健の『昭和残侠伝シリーズ』や『網走番外地シリーズ』などは、ほとんど学生時代に浅草で観た憶えがある。こうした任侠ものを名画座で一気に3本も見てしまうと、ワンパターンなストーリーであってもついつい他の作品を観たくなって、上映館を探してはよく通ったものだ。あの時代は日本映画低迷期の上に、ビデオも普及しておらず、テレビ等で古い作品を見る機会が殆どなかったため、浅草の各館や銀座並木座、文芸坐地下劇場の存在はありがたかった。
例えば、黒澤明、小林正樹といった海外でも高く評価された巨匠の作品は文芸坐地下劇場。中でも小林正樹の『人間の条件五部作』や内田吐夢の『宮本武蔵五部作』のオールナイト上映などは睡魔と闘いながら鑑賞したため、2作目や3作目を良く憶えていないというパターンが多かった。小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男、木下恵介といったもう一方の巨匠は銀座並木座の特集上映でカバー。銀座並木座は時々ネズミが足元を走り抜けたり、大きな柱のせいでスクリーンの一部が死角になるなど、いろんな意味でユニークな“コヤ”だった。
写真上から→池袋文芸座は2000年に「新文芸坐」としてリニューアル>>新文芸坐の特集上映。懐かしの名画も>>開館は1951年、1975年創業の老舗・早稲田松竹>>こちらも75年創業・目黒駅西口前で今も頑張る目黒シネマ>>1974年創業の飯田橋ギンレイホール>>
フェリーニ、ヴィスコンティ、ベルイマン、ワイダといったヨーロッパの巨匠、ゴダール、トリュフォーといったフランスのヌーベルヴァーグ作品にも名画座で出会い、映画表現の多彩さ、奥深さに触れた。そう、名画座は貧しい学生映画ファンにとって“学校”のようなものだった。大学には殆ど通わなかったが、名画座には週に2〜3度通い、食費を浮かして鑑賞料を捻出するため、アンパンと牛乳だけで一日を過ごしたものだ。
余談だが、社会人になって3年目で、折角入社できた上場企業を退社、1年ほどアルバイト生活をしたことがある。その時選んだ職場が五反田にある大手現像会社だった。時給も待遇もそれほど良いわけではなかったが、何しろ大好きな映画と触れ合えるということで、暗室での焼付け補助という単純作業ではあったが、映画好きの仲間が多かったためか、結構飽きずに働くことができた。
夕方頃出勤し、大きな自動焼付け機にロードーショー上映用のネガと現像前のフィルムを重ねあわせて通し、1本焼き終わるとまた1本、という風に全国の映画館からの注文分を繰り返し焼き付けていくのだが、現場のオジサンから「悪いけど今日、徹夜でやってくれるかな」と頼まれることが多々あった。今考えるとその意味は、映画が今ヒットしており、上映館が増えているということだったのだろうだが、当時の私にとっては時給アップの上に夜食も付くので「少し眠いのを我慢すればいいや」と言う程度の認識だった。
←写真上から>>かつての単館ブームの面影を残す新保町シアター>>アニメ専門館からスタートしたラピュタ阿佐ヶ谷>>若者文化を牽引した情報誌「ぴあ」。2011年休刊
そんな中、だんだん仕事に慣れてくると、スキルアップの機会が訪れた。今度は小さな焼付け機で1本だけ焼くという作業で、先輩が倉庫から探してきたネガを自分でセッティングし、異常がないかどうか確認しながら作業を進める。古ぼけたフィルム缶の題名を見ると『座頭市血煙り街道』なんて書いてある。ああ、そうか、このフィルムが名画座に行くんだなと感じ、何だか妙に嬉しかった記憶がある。
徹夜作業の日は、仕事が終わると、仮眠室でオジサンたちとのささやかな酒宴が始まるのだが、そこで聞いた話が興味深かった。当時彼らは、仕事柄最も早く新作を見ることができた。新作どころか、撮影途中のラッシュまで見るわけだから、監督やカメラマン並みの特権である。そして彼らは、立場上、今では誰も見ることができない“失われた”フィルムを実際に見た、数少ない“生き証人”でもあった。
その代表例として、黒澤明が演出した『トラ・トラ・トラ!』がある。この撮影済みフィルムは、契約の関係もあり、監督降板後すべて焼却され、現在1フィートも残っていない。この作品にまつわる“悲劇”については、説明すると長くなるので、興味がある方はWikiで読んでいただくとして、ここではその時の私とオジサンとの会話を再現してみよう。
「だけど、◯◯さんが見たっていうのはラッシュで、音も入ってなかったんでしょ?」
「そうだよ。でもねぇ、あれは凄かった。ラッシュでも十分面白かったんだよ」
「へぇ〜、見たかったなぁ〜。でも、完成した『トラ・トラ・トラ!』も悪くなかったですよ」
「いやぁ〜、全然比較にならないよ。だからみんなすごく期待していたんだ。それがああなっただろ。がっかりしたのなんのって…」
当時映画に関わるバイトで食いつないでいた私だが、名画座に通う機会はめっきり減っていった。原因はビデオとレンタルショップの普及である。ここ20年ほどで映像技術の電子化、デジタル化が飛躍的に進んだが、その分フィルムの需要も減る。配給会社によるデータでの配給が一般化し、フィルムでの配給が打ち切られたことも、設備投資の余裕が無い名画座に廃業を余儀なくさせる原因のひとつだ。
貧乏映画ファンだった私も、社会人になると初ボーナスをはたいて高級ビデオデッキを買い、名画座の機能は自宅に移された。それがレーザーディスクからDVDに変わり、今ではブルーレイとハイビジョンのプロジェクター、AVアンプによる7.1ch音響付きで、いっぱしのホームシアターを気取っている。いい時代になったものだ。
しかし、ちょっと困ったことがある。今では新しいブルーレイソフトを安価で借りることもできるし、ハイビジョンの映画専門チャンネルもある。何より、毎日でも映画を見ることができる時間の余裕があるのだが、なぜかあの頃のように、貪欲に映画を見たいと思わないのだ。『ぴあ』で見たい映画の上映館を探しては、遠くまで電車に乗り、アンパンと牛乳を買って名画座に通ったあの頃のエネルギーが、何故か湧いてこないのだ。
映画の数が減ったわけでもないし、内容がつまらなくなったわけでもない。第一、あの頃観たかった過去の名作ならほとんど手に入る状況なのに、なぜそうなってしまったのか。
思えば貧乏学生の頃、名画座が“学校”だとすれば、私の周囲にはたくさんの“先生”がいた。こむずかしい映画論は『キネマ旬報』などの映画雑誌で読み、どの映画館へ行くかは『ぴあ』が教えてくれた。それでも足りない分は淀川長治さんの“映画塾”に顔を出したり、同じ趣味を持つ友人、つまり“生徒”たちと語り明かしたりしたものだ。
情報そのものは、現在のほうが遥かに多い。ネットで検索すればさまざまな新旧の映画情報や上映情報、新作の予告編まで見ることが出来る。映画の評価についても、実にさまざまな意見があり、明らかにカネを貰って書いているような怪しげなプロ評論家もいれば、すでに定番化されている名作すら「テンポが遅い」だの「白黒は見たくない」といった単純な理由でこき下ろす素人評論家もいる。
時代は変わった。それはそれで良しとしよう。しかし、通うべき“学校”も学ぶべき“先生”も、今の時代、見つけ出すのが難しい。私の場合、映画に関する基礎的な見方は若い頃に磨いてきたという自負はある。しかし“学び”が終わったという実感はないし、むしろこれからもっと学んでみたいという気持ちもある。だが、肝心な何かが欠けているのだ。具体的には、どんなに退屈な映画でも早送りせずに最後まで観たり、脇役の服装でもちょっとしたカメラアングルでもいいから、何かひとつでも面白さを発見する姿勢(これは淀川さんから教えてもらった)。そして観終わった後にその映画についてあれこれ考えたり、誰かと話し合ってみること…。それらはいったい何か? もしかすると、私が失ってしまったのは、映画そのものへの「愛」なのではないか。
ある事柄について、いくら経験を積んでいても、いくら知識を蓄えていても、なにかが欠けていれば何の意味もない…。それが愛、たぶん愛、きっと愛(By 松坂慶子)なのだと思う。そう、あの頃名画座に私を通わせたのは、一途なまでの映画愛だった。そして名画座には、私を含め、そんな“生徒”たちの愛があふれていたのである。