第2回〜韓国の英雄も日本では“第3の男”

 力道山の死後、求心力を失った日本プロレスは豊登を社長兼エースに据え、かろうじて命脈を保っていた。しかし、すでにアメリカでヒールとして活躍し、力道山を凌ぐビッグネームとなっていたジャイアント馬場が帰国すると豊登の立場は微妙になり、昭和40年(1965)には生来のギャンブル好きが祟り、放漫経営を批難されて日本プロレスから追放される。

 翌年にはルー・テーズ戦で力道山以来のインターナショナル・ヘビー級王座を初防衛した馬場が名実ともにエースとなり、日本プロレスは盤石かと思われたが、この直後に、アメリカ武者修行から帰国して、馬場と並ぶエースとして売り出すことになっていたアントニオ猪木を、豊登がハワイ・ホノルルで口説き落とし、東京プロレスを旗揚げする。

 その頃大木は、65年の日韓国交正常化と共に帰国、「東洋人が白人を倒す図式」「テレビ最大のキラーコンテンツ」という力道山の方法論をそのまま韓国に輸入する形で大韓プロレスを定着させ、「パッチギ王金一(キム・イル)」として国民的英雄となりつつあった。しかし、エース候補猪木を“略奪”された日本プロレスは、その穴を埋めるため急遽、大木を呼び戻す。馬場・猪木で予定していた2枚看板を馬場・大木に修正することで局面を打開しようとしたのである。

 リングネームも新たに「金剛山金太郎」として売りだそうとしたが、そんな古臭いリングネームよりも、ファンの目は外国人より体格面で勝り、アメリカ仕込みのダイナミックなラフファイトを身上とする馬場と、“プロレスの神様”カール・ゴッチに師事し、流麗なストロングスタイルを身につけた猪木の方に集まっていた。

 大木は、力道山を尊敬するあまり、長時間の“受け”から一気に得意技で逆転する力道山スタイルから抜けだせずにいた。馬場、猪木の進化したプロレスと比べると、大木の試合は古臭く映る。しかも、日本人離れした長身の馬場、見事にシェイプされた猪木と並ぶと、ずんぐりむっくりの大木はルックス面でも見劣りした。しかし、猪木はすでに他団体の人間。人気はどうあれ、大木の立場は確保されたかに見えた。

 ところが、豊登の相変わらずのギャンブル狂いと、テレビ局がつかなかったことが災いして東京プロレスはわずか3ヶ月で倒産、猪木が日本プロレスに戻ることが決まってしまう。しかも猪木はノーテレビにも関わらず、ジョニー・バレンタインと伝説的な死闘を繰り広げ「馬場に拮抗する実力者」というイメージを引っさげての“出戻り”だった。

 馬場と猪木の2枚看板が定着すれば、どんなに実力があってもナンバー3。居場所はないと悟った大木は再び韓国で活路を見出そうとする。昭和42年(1967)、ソウルでマーク・ルーインからWWA世界ヘビー級王座を奪取、韓国のプロレス王として不動の地位を築く(ちなみに有名な大木の「耳そぎ事件」が起こったのは昭和42年12月の仙台で。ブルート・バーナードの角材攻撃を受けそこねた大木の耳が半分ほど千切れてしまったというアクシデント。この後大木はしばらくの間ヘッドギア を着用していた)。まぁ、熱心なプロレスファンならご存知の通り、ベルト奪取というよりも一時的にベルトを“借りた”形なのだが、これはプロモーターとしての大木がアメリカのメジャー団体から信頼されていた証でもある。

 しかし、大木は力道山の後継者になる夢を捨てきれなかった。一時期、東京プロレスと同時期に旗揚げした国際プロレスへの転出も囁かれたが、大木は愚直なまでに師匠の作った日本プロレスにこだわった。折しも日プロは猪木・馬場の黄金タッグ「BI砲」が人気を集め、第二の黄金時代を極めようとしていた。やがて「BI砲」は馬場が日本テレビのエース、猪木がNET(現テレビ朝日)のエースという形でライバル色を強めていく。歴史に「もしも」という言葉は無いというが、そのまま平穏無事に進めば、後輩である馬場・猪木の後塵を拝しながらも、大木は日本プロレスの一選手という立場を守ったかもしれない。

 しかし好事魔多し、である。事の発端は、豊登時代から改善されない日本プロレスのドンブリ勘定(この頃プロレスは興行とテレビの放映料で儲かっていた)に不満を募らせていた猪木ら選手会と後援会長が改革案を作成し、幹部の退陣を画策した事に始まる。しかし、事を起こす前に馬場と上田馬之助(諸説あり)が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告したことで事態は急変する。

 騒動の拡大を恐れた選手たちの寝返りで、昭和46年(1971)、最終的には猪木一人が首謀者という形で追放され、翌年、猪木は新日本プロレスを旗揚げする。この追放劇の裏には馬場と猪木のエースの座を巡っての確執もあったようだが、その後猪木追放でエース不在となったNETのプロレス中継にも、日プロは馬場を出場させることを内定したため、馬場は日本テレビに義理立てする形で日プロを退社、日本テレビのバックアップを得て全日本プロレスを旗揚げする。

 そうなると“漁夫の利”というわけではないが、選手たちの大量離脱後に日プロに残った看板レスラーは大木と、鳴り物入りで柔道界から転身してきた坂口征二の2人だけ。図らずも大木は“お家騒動”の結果、入門以来初めてエースの座を手に入れることになった。

 大木は昭和47年(1972)、猪木が返上したUNヘビー級王座を奪取、ボボ・ブラジルと「頭突き世界一」を賭けたインターナショナル・ヘビー級王座決定戦に勝利、坂口と組んでジン・キニスキー&ボボ・ブラジルを破りインターナショナル・タッグ王座も獲得するなど、獅子奮迅の活躍を見せるが、馬場・猪木が抜けた穴は大きく、興行もテレビ視聴率も凋落の一途を辿っていく。

 この時の大木の心情は察するに余りある。デビューして14年、やっとのことでエースの座を掴み、死に物狂いで頑張っても、ファンは相変わらず馬場や猪木の幻影を求める。韓国では英雄になれたが、日本では常に馬場、猪木に次ぐ“第3の男”。しかも、後輩の坂口に追い越され“第4の男”になりかねない状況にまで追い詰められていたのだ。

 しかし、大木はチャンスを与えられても、馬場や猪木のような、したたかな“変わり身”ができなかった。その姿勢はまさに大木のファイトスタイルそのものだったように思う。ファンに飽きられても、ただ愚直に繰り出すキーロックなどの単調な技とパッチギ…。それもこれも、全ては尊敬する力道山の教えを忠実に守った結果だった。しかし、愛する日本プロレスを守るためには、大木は危機感をバネに変わるべきだったのではないだろうか。

 同じ頃、視聴率で馬場の日本テレビに水をあけられていたNETも危機感を強めていた。そこでNETは、坂口を通じて新日本プロレスとの合併を打診する。日プロ追放の経緯もあって新日本プロレスにはテレビ中継がつかず、外国人レスラーのブッキングにも困り、倒産は時間の問題だった。そういう意味で、猪木にとってもこの合併話は“渡りに船”だったはずである。

 新団体の名称は「新・日本プロレス」。日プロにとっても新日にとっても対等合併と言って良く、仕掛けたNET側に異論があろうはずもない。話は水面下で順調に進んでいた。しかし、発表の直前になって合併は立ち消えになった。その原因を作ったのは、誰あろう大木金太郎その人だった…。<前回に戻る><次回へ続く>