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40歳という年齢は人生にとってひとつの節目だ。「ほんとうにそう思いますね。私の今までの人生は“波瀾(はらん)万丈”すぎましたから。アハハ」とはにかむようにほほえんだ。その笑顔の主こそ、大相撲第65代横綱の貴乃花親方である。
15歳の時に相撲の世界に入った。あれから25年の歳月が過ぎている。あまり知られてはいないが、貴乃花親方、本名花田光司が最初にあこがれたスポーツはサッカーだった。「自分もキャプテン翼世代なんですよ。ほんとうはFWをやりたかった。でも子供の時から体が大きくてね。いつもGKをやらされていました」。そんなサッカー少年のボールを追う目が、いつしか違う対象に釘付けになったのは、自分より大きな力士に対して土俵狭しと動き回り、白星を重ねていったひとりの力士だった。
その力士とは、先代貴ノ花。光司少年の父親である。偉大な父の背中を追うのは自然の流れだった。光司少年は中学で相撲部に進み、卒業の年に「力士になりたい」と告げた。その時、先代は「1週間だけ考えさせてくれ」と即答を避けた。自分が経験してきた苦しさを、我が子に味わせたくないという気持ちが強かったのだ。最終的に入門を許した先代はその前夜、息子の「15年間お世話になりました」というあいさつに大粒の涙を流した。そして「次に泣くときは俺が死ぬときだ。それまでどんなことがあっても絶対に泣くな」と一喝した。親子4人での晩酌は、翌朝から師匠と弟子になるための“別れの盃”だった。
先代貴ノ花が時代のヒーローとなったのは、昭和46年の夏場所だった。昭和の大横綱・大鵬を21歳だった貴ノ花が右外掛けから最後は寄り倒し。この「金星」がきっかけになり、歴代最高32回の優勝を成し遂げた大鵬は引退を決意した。
先代貴ノ花は「あと10キロ、体重があれば横綱になっていた」と言われていた。しかし持ち前の足腰の強さに加え、血のにじむような稽古の日々を経て、昭和50年春場所では悲願の初優勝。日本国中がこの優勝に酔いしれ、あまりのうれしさにショック死をした老女がいたというニュースはセンセーショナルすぎて公にならなかったそうだ。
そしてその後大関となった昭和のヒーロー・貴ノ花に引導を渡したのは、当時伸び盛りだった千代の富士(現九重親方)だった。昭和55年初場所のことだった。
奇しくも、歴史は3度繰り返されることになる。千代の富士が引退を決意したのは、先代の息子2代目・貴乃花との敗戦だった。これはもう“巡り合わせ”以外の何ものでもなかった。平成3年夏場所初日、貴乃花親方が18歳9カ月の時だ。立ち会いでうまく潜り込んだ流れのまま、一気に横綱千代の富士を寄り倒した。この劇的な一番で貴乃花親方は一気にスターダムにのしあがった。相撲の番記者ばかりではなく、各局朝のワイドショーでも専門の「貴乃花番」を配置。朝から晩までその動向を追いかけた。
「騒がれている暇があったら、稽古しろ。四股を踏め」。世間のフィーバーをよそに、先代はとにかく怖かった。『土俵の鬼』というのは先代の兄、初代若乃花のニックネームだったが、当時先代が開いていた藤島部屋の稽古の厳しさはダントツだった。はじまりは朝4時。新弟子たちがわれ先にと土俵に降りてくる。まず四股を300〜400回。それはまだ準備体操に過ぎない。その後兄弟子との「申し合い」に「三番けいこ」と「ぶつかりけい」だ。他の部屋なら10番程度で終わってしまうのだが、藤島部屋は連日50番ちかく。それは今でも語り草になるほど凄まじかった。
しかし、それは同時に心が洗われるような光景でもあった。取材慣れした相撲記者でも、少しでも物音を立てるようなことがあれば、先代は「出て行ってもらえ」と一喝、記者を追い出すことも藤島部屋ではありふれた光景だった。
そんな先代も「父親の顔」を垣間見せる時があった。貴乃花親方が千代の富士を破った大一番、先代は国技館の記者室にいた。それも人目のつかない記者室の流し台で、こっそりとTV観戦していた。
「それ、そこだ。いけ」と拳に力が入る。貴花田が寄り倒した瞬間、「よっしゃー」と声をあげて喜んだ。入門前夜の涙の別れ以来、この一番で初めて「よく勝ったな」とほめてくれたそうだ。この2日後、千代の富士は「体力の限界」と言って引退を発表した。
『相撲道』を極めたい。それが現在の貴乃花親方の想いだ。部屋の親方という職責に加え相撲協会理事も2期目になった。「私が理事になることで何か改革をしようとしていると受け止められています。でもそれは、ちょっとニュアンスが違うんですよ。改革ではなくて、相撲を通じて古来脈々と受け継がれてきた日本文化の美学を後世に伝えていきたいんです」と力を込める。
相撲道などどいうと、堅苦しく聞こえるかもしれないが、決して難しい話ではない。「目上を敬う心とか、礼儀を重んじる精神とか、昔から日本人が大切にしてきた心が、相撲ではまだしっかりと生きています。この相撲道は、世界でも例を見ない素晴らしいもの。時代が変わってもその価値が変わらない生き方であると、私は自負しているんです」。
「それは理想論だ」という声もあるかもしれない。“国技”と言われながら、今では外国人力士が全盛だ。そして信じられないほど不祥事が続いている。「何気ないことなんです。例えば、街ですれ違いざま肩がぶつかっても、失礼しました、のひと言が言えない若い人は少なくない。電車で座席に座っていて、目の前にお年寄りや身体の不自由な人がいても、席を譲らない。私が子供の頃は、そんな行いをしたら、大人から厳しく叱りつけられました。虐待は決してあってはならないけれど、大人は子供にもっと厳しく向き合うべきです。そこに確かな愛情があれば、決しておかしな事にはならない」
加えて相撲は「裸足の文化」だと貴乃花親方は力を込める。「だから泥だらけになって稽古をする。勝ち続けることなど横綱になってもできることではない。負けてから学ぶ。それが父から子へ、師匠から弟子へ、人間を育てる根っこの部分は同じだと思います」。
そこには、かつてのやんちゃ坊主・光司クンでも、マスコミを賑わせたスター横綱でもない、完成した「大人の男」がいた。かつての日本人が普通に持っていたサムライのDNAを、相撲を通じて蘇らせることも、この男ならできるのではないか。そう思わせる何かが、今の貴乃花親方にはある。“波瀾万丈”の40年間はそのためにあったのかもしれない。