第1回〜テーズにセメントを仕掛けた男

 “韓流ブーム”などというものが来るとは予想すらできなかった昭和30〜40年代にテレビのゴールデンタイムでお茶の間を沸かせた生粋の韓国人がいた。本名は金一(キム・イル)、プロレスラー大木金太郎である。

 長州力、前田日明、星野勘太郎、タイガー戸口、崔領二などプロレスラーに“在日”が多いのはファンの間では常識だが、そもそも“日本プロレス界の父”である力道山が金信洛(キム・シルラク)という日本併合下の朝鮮(現在の北朝鮮)生まれの在日であり、これは一種の伝統と言ってもいい。

 プロレスラーとしてのスタートは30歳と、決して早くはない。同郷の英雄、力道山に憧れた大木は1958年(29歳)、漁船で密入国。翌年逮捕されるが、収容所で力道山に嘆願書を出したことから、力道山が身元引受人になり、当時日本プロレスコミッショナーだった大野伴睦の口利きで釈放される。

 その辺の経緯は大木の自伝にも書かれてはいるが、1955年の新聞記事には「65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えている」との記述があり、大木のような青年が特に珍しいわけではなかった。力道山は入門した大木に「オマエは朝鮮人だから頭突きをやれ」と命じたという。

 「黒人と朝鮮系は頭部が固い」というのは俗説に過ぎないのだが、頭突きは韓国語で「パッチギ」と言われ、街の喧嘩ではメジャーな技だった。大木は力道山の言いつけを愚直なまでに守り、練習といえばただひたすら、サンドバッグに頭を打ち付けた。

 現在のように高度な技の応酬や受け身など不要だった時代である。数カ月後には前座デビュー、翌年には読売ジャイアンツのピッチャーだった馬場正平(ジャイアント馬場)とブラジル移民からスカウトされた猪木寛至(アントニオ猪木)がデビューし、大木を含めて「若手三羽烏」と呼ばれるようになる。

 公式戦での猪木のデビュー戦は兄弟子の大木が務め、7分6秒で大木の勝ち。一方の馬場の相手は後にレフリーになった田中米太郎が務め、9分29秒で馬場が勝っている。この結果について、最初からエリート扱いの馬場と、雑草のように育てられた猪木という比較論で語られる事が多いのだが、実際にこれは力道山の指示だったという。

 プロレスは基本的に試合前から結果が決まっており、これを業界では「ブック」と呼ぶのだが、前座試合にまで詳細なブックが決まっているわけではない。しかも、前座ではメーンの試合で使われるような派手な技は禁じられており、どうしても基本技だけで試合を組み立てなければならない。そんな理由から前座こそ本来のプロレスだと話すマニアもいる。

 力道山が道場で3人に「セメント(真剣勝負の意。シュートとも)」をやらせたという逸話がある。最初に馬場と対戦した大木は頭突きを連発して馬場を戦意喪失に追い込み、これで馬場は猪木戦を棄権、大木と猪木は寝技の攻防となり、決着が付かなかったという。

 この話の真偽はわからないが、この頃から大木は「セメントでは強い」という評判だった。しかし、強いからスターになれるわけではない。プロレスは興業で成り立っている。プロレス界で言う最高のレスラーというのは、最強のレスラーではなく、客が呼べるレスラーなのである。

 その点、大木には華がなかった。技も頭突きか、ねちっこい寝技が主体で、どうしても試合が単調になる。3人のうちでは最年長(当時は年齢にサバを読んでいたが)であり、ルックスも地味。しかし、目の肥えた観客は大木にどこか「本物の強さ」を感じ、支持していた。

 そんな大木にチャンスが巡ってきたのが入門から4年目の1963年。アメリカでの武者修行が認められたのである。大木は当時日本プロレスと提携関係にあったロサンゼルスのWWAを主戦場に頭角を現し、ミスター・モトとのタッグチームでWWA世界タッグ王座を獲得するまでに成長した。

 ところが、63年12月に突然の訃報が届く。赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で暴力団の構成員に刺された傷がもとで、恩師・力道山が亡くなったのである。大木のショックは計り知れないものだった。目標も後ろ盾も失った大木は韓国に帰国し、「大韓プロレス」のエースとして韓国プロレスに活路を求めようとする。

 そんな状況下での1964年10月、大木の“鉄人”ルー・テーズへのNWA王座挑戦が決まる。テーズにとっては消化試合のひとつだったが、大木にとっては意味合いが違っていた。力道山亡き後、日本プロレスのエース兼社長になった豊登が、もし世界タイトルを獲ったら力道山の襲名を許してやると大木に約束していたのだ。力道山を神と慕う大木にとって、襲名は最大の命題だった。しかし、デビュー5年目の日本のグリーンボーイが、テーズに勝つシナリオなどあり得ない。そこで大木は決死の「ブック破り」を仕掛けた。

 後にテーズはこう回想している。「大木は最初から試合をするつもりなんかなかった。大木に何があったのかはわからないが、正直、あれはヤバかった」ブック破りを察知したテーズは、ナックルパンチで大木の額を叩き割った。大木はたちまち流血し、リングは血の海になった。戦意喪失状態の大木をテーズはバックドロップで失神させたが、それでも再度大木を立たせようとするテーズをセコンドが止め、壮絶なシュート・マッチは終わった。

 テーズはこうした試合を生涯に数度経験している。例え結果は決まっていても、万が一それを無視してきた場合、王者はセメントで制裁しなければならない。しかも二度と同じ事をさせないために、完膚無きまでに叩きのめすのが鉄則だ。テーズの師匠、ジョージ・トラゴスはかつて若手を再起不能にしたこともあるシュート・レスラーだった。テーズは観客に見せるレスリングだけではなく、シュート・テクニックも学んでいた。この時代、プロレスラーは本当に強かったのである。現在はどうかわからないが…。

 しかしこの試合はむしろ関係者の間で話題になり、大木の株を上げた。テーズはその無鉄砲さを評して「アトミック・ボーイ」と呼び、レスラー仲間からは秘かに「セメント・ボーイ」と呼ばれ、一目置かれることにもなった。しかし力道山の後継者になるため、危険なシュート・マッチまで仕掛けた大木の思惑とは裏腹に、日本プロレスが後継者と考えていたのは、あくまで馬場と猪木だった。<次回へ続く