※当サイトは日本経済新聞社及び販売店(NSN)とは一切関係ありません。
今や「Jポップ」という言葉も聞かなくなり、「ニュー・ミュージック」さえ死語になって久しい昨今、かつて隆盛を極めた「フォーク・ソング」の復権が叫ばれている(ごく一部ではあるが)。60年代、エレキを持っていればロック、アコースティック・ギターを持っていればフォークという単純明快な色分けもあったのだが、70年代後半には「四畳半フォーク」などという侮蔑的な言葉で表現されるほどネクラの代表に凋落してしまった。しかし敢えて言いたい。「四畳半で何が悪い!」私達は皆、フォークを聴き、ギターをかき鳴らしながら大人の階段を登ってきたのだ…。とまぁ、お題目はそのへんにして、初回は「フォーク出身」にして「ニュー・ミュージック」の元祖、オフコースを取り上げる。それにしても小田さん、元気だなぁ。
「オフコースって英語で“もちろん”っていうことでしょ? どうしてそんなバンド名にしたんですか」
その手の無邪気な質問に、リーダーだった小田和正氏は決まって嫌な顔をした。高校時代の野球部OBチームの名前をヒントにしたバンド名は「オフ・コース (Off Course)」であって「オフコース(of course)」ではない。
“道を外れる(Off Course)”それが結成の時からの決まり事だった。「何事もわかりやすく決まり切った道を歩いていくのはやめよう」といつも2人で話していた。それはまた結成当時の小田と鈴木康博氏の2人を繋いでいた絆でもあった。
オフコースの始まりは神奈川県横浜市・聖光学院高校3年の「学園祭」だ。これが当時18歳だった小田・鈴木両氏と同級生の地主道夫氏(現建築家)ら4人が結成したアマチュアフォーク・グループ「ジ・オフ・コース」のデビューステージだった。当時新設校の男子高だった聖光学院高の学園祭は評判も上々。担任の先生から「おい小田、もう一回演奏しろ」というアンコールがあったのはオフコースだけだったという。
高校を出た後、小田氏は東北大学工学部を卒業し、早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了。鈴木氏は東京工業大学工学部を卒業と、2人はエリートコースの入り口に立っていたが、約束通り“道を外れ”た。「ジ・オフ・コース」は、1969年、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト全国大会2位(1位は赤い鳥)を契機に翌年プロデビューする。
71年には、地主氏が竹中工務店入社のため脱退。グループは小田・鈴木の2人になり、グループ名も「オフ・コース」に改めた。しかしその後しばらくは全く売れず、単独コンサートでお客がわずか13人いう日もあった。のちにメジャーになってからオフコースはその時と同じ会場で“リベンジコンサート”を開いている。
1976年に以前から録音に参加していたギターの松尾一彦氏、ベースの清水仁氏、そしてドラムの大間ジロー氏が加入して実質5人体制に。この頃にはリズムセクションを固めたことで徐々にフォーク色が消え、都会的なポップスバンドとしてのカラーを強めていった。しかも、すでに熱狂的なファンを擁し、知る人ぞ知るという実力派のバンドではあったのだが、まだ歌謡曲全盛の時代。メジャーというにはほど遠かった。
そんな彼らに転機が訪れたのは結成10年目の1979年だった。シングル『さよなら』が初のミリオンセラーになったのだ。「小田が『気持ち悪い詩だけどお願いだから歌ってくれない?』と言ったことが今でも忘れられない」(鈴木氏)。
ちなみにこの曲の「♪僕は思わず君を抱きしめたくなる♪」というフレーズは元々は「♪僕は思わず 君を抱きしめそうになる♪」。このことはオフコースファンの間でもあまり知られてない。
『We are』がアルバムとして初のミリオンセラーになり、人気の頂点に登りつめた1980年の年の瀬、鈴木氏は小田氏に「オフコースという音楽の枠から外れたい」と切り出す。後に小田氏は「突然、右腕をもがれたという思いだった」と当時の心境を語っている。
鈴木氏は脱退の引き金が、『さよなら』だったと話している。「オフコースを2人でやりはじめて、やっぱり『さよなら』って小田の曲だし、なんかあの、受ける曲っていうのかな…同じグループの中にいたら、鈴木康博っていう土俵ができないだろうなぁっていう思いだった」。
皮肉なことに結成10年目でやっと大ヒットした『さよなら』が、高校時代から続いていた友情を引き裂いてしまった。鈴木氏は「オレにとってのオフコースはB面人生だったから」とも。小田氏は「ヤスには本当に悪いことをした」と振り返っている。
そんな内憂の中で始まったのが1982年のアルバム『Over』を冠にしたコンサートツアー。6月に行われた日本武道館10日間公演には全国から53万通の応募があった。その最終日である30日。小田氏の代表曲でもある『言葉にできない』の前奏とエンディングに映画『ひまわり』のエンドロール映像が使われた。当時この版権は2000万円。
『言葉にできない』の前奏で小田氏はたまらず涙を流した。それは鈴木氏との訣別の涙だった。あれから30年以上の月日が流れたが、小田・鈴木両氏はこの日以来公私にわたり一度も会っていない。 <次回に続く>