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子供の頃読んだ本を憶えているだろうか。かつて胸躍らせ、眠れなくなるほど興奮したり、人生の意味を少し知って、大人の世界に思いを馳せた経験は誰にでもあるはずだ。そこで“アラカン”では、児童向けの文学を読み直し、子供の頃とは違う視点でその深遠な世界を探ってみようと思い立った。そこにあるのは新たな発見か、それとも大いなる落胆か…。なにはともあれ、まずはページを開いてみよう。
初回は『ハーメルンの笛吹き男』である。何だ、幼児向けの童話じゃないか、しかも絵本だし…。そんな声が聞こえてきそうだが、この本を嘗めてはいけない。作者はロバート・ブラウニング。名前は知らなくとも、作品は知っているはずだ。
時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時、
片岡(かたをか)に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這(は)ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
これは上田敏の訳詩集『海潮音』で取り上げられた『春の朝(あした)』という詞である。本来は『ピパが過ぎゆく』という劇詩の中で、少女ピパが歌うという設定になっており、原題は“Pippa's Song”である。非常に簡単な英語なので、原文も読んで欲しい。
The year's at the spring;
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill‐side's dew‐pearled;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in his heavenー
All's right with the world!
きちんと韻が踏まれていることがおわかりいただけただろうか。この美しい韻のリズムを壊さずに、そのまま七五調の文語に置き換えた上田敏の凄さに、今さらながら驚く。わざわざこんな事を書いたのは、この『ハーメルンの笛吹き男』を原語で読んでみたいと思ったからである。これは童話というよりも、平易な言葉で綴られた一編の詩である。読み進めていくと、翻訳した長田氏が、そのリズム感を壊さないように苦労したことがわかる。
それはさておき『ハーメルンの笛吹き男』というのは実にキテレツな童話である。まず第一に、話が消化不良である。起承転結の結が抜け落ちているのだ。ネズミの大量発生で困り切ったハーメルンの町で、無能な政治家たちが解決策の見えない会議を開いていると、金貨1000枚でネズミを駆除するという風変わりな男(パイド・パイパー)が現れる。
渡りに舟と、政治家達は金貨1000枚を約束し、この男に託す。男は笛を吹いて町中のネズミをおびき出すと、川に誘導してすべて溺死させる。これで町は救われたのだが、欲にかられた政治家達は約束を反故にする。怒ったパイド・パイパーは、今度は笛で町中の子供達を連れ去り、そのまま消えてしまう。
最後にブラウニングは「約束は守らなくてはいけない」という教訓でしめくくっているのだが、読者には、結局消えた子供達はどうなったのかという疑問が残る。一般的な童話のストーリーなら、その後に何かもう一波乱あって、子供達は帰ってきました、めでたし、めでたしとなるのが常道ではないだろうか。
そうならなかったのには、理由がある。この話のネタ元はドイツのハーメルンで1284年6月26日(最も有力な説)に起こったと記録される実際の事件なのである。笛吹き男の存在はどうあれ、複数の記録を辿れば、130人もの子供達がたった1日でハーメルンの町から忽然と姿を消したことだけは確かなようだ。ブラウニングは多少の脚色はしても、事実は変えなかったのである。
この奇妙な事件について、これまで世界中で多くの研究家が400年もの間、さまざまな説を唱えてきた。大きく分ければ大量溺死説や病死説、少年十字軍参加説、児童売買説など…。現在最も支持されているのは新たな村を開拓するための集団移民説だ。
いまだに真相は“藪の中”なのだが「中世ヨーロッパの社会史」という観点からこの謎解きに挑んだ日本人学者がいる。一橋大学名誉教授だった故・阿部謹也氏で、その労作が『ハーメルンの笛吹き男〜伝説とその世界』である。
結論から先に言えば、この本でも完全に謎が解けるわけではないのだが、さすがにドイツ中世史の専門家だけあって、観点が多岐にわたり、第一級の推理小説のように飽きさせない。特に中世ヨーロッパの物語に頻繁に登場するような王侯貴族たちではなく、市井の一般大衆がどんな暮らしぶりであったのかを子細に知ることができて“目から鱗”である。
そんなわけで、この本は2度楽しめる。まずはブラウニングが友人の息子のために書いたという華麗な語り口を楽しみ、その後で世界の学者たちが挑戦した“謎解き”を楽しむ。これを機会にドイツや中世ヨーロッパについて研究してみるのも“大人になった”特権というものだ。